小火のあと

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小火のあと

 ここは下谷山崎町(したややまざきちょう)。貧乏長屋が軒を連ねる界隈でございますが、そこに朧長けた大年増(ろうたけたおおどしま)が、住まっておりました。名前を玉女(たまじょ)と申しまして、周りからは「お玉さん」と呼ばれております。元は武家奉公をされておいでで、今は子どもたちの手習いを見たり、代書などをして生計を立てております。  先月、お玉さんが住まう長屋から小火(ぼや)が出まして、お上(おかみ)から取り壊しを命じられてしまいました。幸い、お玉さんは息災(そくさい)にしておりますが、長屋連中は急に引っ越しをしなきゃなんないってんで、てんやわんやでございます。 「お玉さん、それじゃ。お達者(おたっしゃ)でー」 「源さんもね。どこへ行くんだい?」 「深川に叔母がいるんで、当面は間借りしようと思って」 「そうかい。それはよかったねぇ~」 身軽な(やもめ)は、次々に長屋を引き払っていきました。お玉さんも連れ合いがいるわけでなく身軽なはずなのですが、なぜか、なかなか腰をあげません。 「お師匠様!見てちょうだい!上手に書けたでしょう?」 「どれどれ…」 長屋の住人の大工の娘が、紙に大きく「こいしかわ」と書いたのを両手で掲げています。 「あら、上手ね。おみよちゃんちは、小石川に越すの?」 「うん!父ちゃんと母ちゃんが言ってた。お師匠様にごあいさつしてきなさいって言うから、さよならしにきたの…」 「そうなの、元気でね」 「うん!お師匠様も元気でね!」 所帯持ち(しょたいもち)も、次第に長屋を離れていきます。お玉さんの弟子たちもいなくなってしまえば、手元が不如意になるでしょう。でも、お玉さんは、次の住まいに越していく様子はありません。 「お玉さん、行先は決まりましたかぃ?」 大家さんが、たずねてきました。ところが、お玉さんは少々困ったような顔をして言いました。 「それが、引き止められちまうんですよ。家の中を片付けているんですけど、次の日になると柳行李(やなぎごうり)がひっくり返っていて、中身が散らかってるんだから。不思議だったらありゃしない」 「ネズミか何かの仕業でしょう?しっかり紐で括ってしまえば、よいんじゃぁありませんか?」 「えぇ、そう思いましてね。括ってみたんですが、見事に結び目が解かれて中身が出されてるんですから!ネズミなんかじゃぁありゃしませんよ」 「じゃあ、夜中に誰かが荷を解いているってことですかぃ?」 「そんなぁ、あたし一人なんだから、あるわけないじゃぁありませんか!」 「へぇ、おかしなこともあるもんですねぇ~。まぁ、とにかく次の家をさがしておくんなせぇ」 「えぇ、それで大家さん。路地の入口の梅の木なんだけど…」 この長屋の路地の入口に、小ぶりな紅梅の木がございます。いつから生えているのかはわかりませんが、お玉さんは水をやったり剪定したりして、かわいがっております。 「あの紅梅ですかぃ?」 「そう。長屋が取り壊されるとなると、あの梅の木はどうなっちまうんです?」 「さぁ、お上のことだから、切り倒しちまうんじゃぁありませんか?あたしにもわかりませんがねぇ~」 「そうかい…それなら、お願いなんだけど、あの梅の木と一緒に引っ越ししてもいいかぇ?」 「えぇ、かまいやしませんよ。どうぞ、どうぞ!」 「まぁ!うれしい!ありがとうござんす♡」 大家さんは帰っていきました。その日の夜、お玉さんの柳行李はひっくり返ることも、中身が散らかることもなく、朝までおとなしくしていました。
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