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化物稲荷
灯篭を戻してから、お玉さんは時々、化物稲荷に足を運ぶようになりました。灯篭がちゃんと吊られているか、見に行くのです。
「あぁ、よかった!ちゃんとあるわ~」
と、吊灯篭に声をかけるのでした。
その日は、とうとう梅雨に入りそうな、鼠色の雲が空を覆っていました。いつものように、灯篭に声をかけてから化物稲荷の境内に入ってくと、祠の前に黒紗の十徳に裁付袴姿の老人が座っておりました。
「これ、女子殿。物に話しかけたら、その物に魂が宿ると聞いたことはござらぬか?」
「えぇ、もちろん存じておりますわ~」
お玉さんは涼しい顔で答えました。
「ここの名前を御存じであろう?」
「えぇ、もちろん」
「ここは、慶安の転覆騒動の一味が身を隠し、公方様を倒そうと阿吽の狛狐に呪詛を聞かせていたところ、その二匹の狐に魂が宿り、夜中に江戸中を暴れまわるようになったという話が残っておるのじゃ」
「あら、そんな由緒正しい化物様でしたの?!」
お玉さんは目をキラキラさせて老人を見つめておりました。
「ここに狛狐がおらぬのは、その時に召捕られたからなのじゃよ」
「まぁ、それで狛狐灯篭がかかっているのねぇ~」
老人は、すっと立ち上がり、お玉さんに近づきました。
「女子殿、怖くはござらぬのか?」
「何も!怖いことなどありましょうか!」
「変わったお人じゃのぉ~、お名前は?」
「タマと申します」
「では、お玉さん。なにゆえ、その灯篭に話しかけなさるのじゃ?」
お玉さんは、引っ越しのこと、灯篭との出会いからここへ戻しに来たこと、それから時々ここに来るようになったことを話しました。
「なるほど、住まいをお探しであったか。しかも、梅の木と一緒に転居するとは、酔狂なお人じゃなぁ~」
老人はツルツル頭に錣のついた角頭巾をかぶり、祠に立てかけてあった杖を取りました。
「ワシはこの近くの同朋町に住んでおる樹阿弥と申す。今日は、その辻を挟んだ隣の松平様のお庭の手入れに来ているところじゃ」
樹阿弥老人は、地面に杖で『樹』と書きました。
「あらぁ!庭師様でいらっしゃるのですか?!」
「さよう。お玉さんは、梅の木の移し替えの方法は、御存じかね?」
「いいえ、それが…だから、なかなか引っ越しの気持ちが固まらなくて…」
「なるほど。では、ワシに手伝わせては、もらえんじゃろうか?」
「えぇ!?女一人暮らしですから、お支払いできるようなお足はございませんわ」
「お足は、いらんよ。お玉さんが、そんなに入れ込んでいる梅の木を見たいのじゃ」
「ご覧になるのは、かまいませんわ。でも、移し替えをお願いするなんて、あまりにもぶしつけですもの…」
「まぁ、移し替えはさておき、まずはお玉さんの梅の木を見せてもらおう」
「今から、おいでになりますか?」
「まぁ、松平様にご挨拶してから、案内していただくとするか。ちょっと、待っておれ」
そう言って、樹阿弥老人は辻の向こう側の屋敷に入っていきました。お玉さんの足元では、トカゲの影丸が、もの言いたげに頭を上げ下げしていました。
「わかったわ、影丸」
お玉さんもトカゲに話しかけると、トカゲはどこへともなく去っていきました。
しばらくして、樹阿弥老人が道具箱を抱えて戻ってきました。
「さて、案内してくだされ」
二人は連れ立って歩き出しました。そして当然、それを見ていたものがおり、先に長屋に戻っていきました。
蜂姫がものすごい勢いで、梅の木に戻ってまいりました。
「梅太郎さま!来ますわ!とうとう、来ますわ!」
「蜂姫、おちつきなさい。誰が来るというのですか?」
「梅太郎さまのお引っ越しをなさる方ですわ!」
「ほぉ~、いつだったかの怪しげな植木屋のようでは、ないんだね?」
「えぇ!だって、お玉さまと一緒に、こちらへ向かっておいでですのよ」
「それは、それは!ともかく安心ですね」
ハチと梅の木は、そわそわしながら、二人の到着を待っていました。
お玉さんは、樹阿弥老人の左後ろを歩いておりましたが、長屋の路地の入口が見えますと指をさして言いました。
「あれですの!」
指の先には葉を茂らせた梅の木がございました。
「ほほぉ~!これは立派な!」
樹阿弥老人は顎髭をしごきました。二人が梅の木に近づくと、樹阿弥老人の袂から、ポロリと何かが落ちました。
「あらぁ~!」
お玉さんが声を立てると、樹阿弥老人も足元に落ちたものに目をやりました。
「おぉ、ちゃんとついてきておったか。あのトカゲがワシを足元を離れなかったのでな、何かあるのではと思っていたのじゃよ」
トカゲはそそくさと梅の根元のねぐらに入っていきました。
「あのトカゲは、この木の根元の住人ですわ」
「なるほどな」
樹阿弥老人は梅の木を見上げて、怪訝そうな顔をしました。
「お玉さん、梅の実がなっておるが、お採りにならないのか?」
お玉さんも木を見上げて言いました。
「えぇ…以前は、長屋のオカミさんたちが実をもいで、梅干しなんかにしていたんですけど、皆さん引っ越しちゃったんで、今年はもぐ人がいなくなちゃったんですよぉ~」
「お玉さんは、実をお使いにならないのかな?」
「えぇ、そういうこと得意ではございませんので…皆さんがお好きに実を漬けていらっしゃいましたわ」
「では、梅の木の移し替えの御代として、ワシが実をもらってもよいかな?」
「ええ!!!もちろんですわ!どうぞ、もいでいってくださいな!」
そう言うとお玉さんは、小走りに家に入っていき、梯子と籠を持って戻ってまいりました。
梯子と籠を受け取った樹阿弥老人は、慣れた足取りで梯子を上り、太い枝を選んでスルスルと動きながら、梅の実を籠に集めていきました。その動きは、年齢を感じさせず、サルよりも軽やかで、まるで雲中菩薩のようでした。
ひととおり梅の実を集め終わると、梯子を下りてきてお玉さんに言いました。
「この木なら引っ越しにも耐えられるじゃろう。まずは養生せねばならぬので、梅雨入りする前に細かな枝の剪定をして、根元を掘って余分な根を切っておかねばならん。今日は、かような道具の持ち合わせはござらんので、明日出直して参るが、よろしいかな?」
お玉さんは、跳びあがって手を叩いて、全身で喜びを露わにしました。樹阿弥老人も目を細めて、その様子を眺めていました。
「梅の木の養生は半年ばかりかかるが、それまでこちらに住まうことはできるのかな?」
「えぇ、大丈夫だと思いますわ」
「では、養生の間はワシがこちらに通って、様子を見て差し上げよう。引っ越し先が決まったら、ワシの弟子どもを集めてこよう。よいかな?」
お玉さんは、飛び跳ねながら手を叩き、くるくる回りました。そして、梅の木の根元に向かって、ささやきました。
「影丸…」
すると、さきほど隠れたトカゲが顔を出しました。トカゲは首を縦に三度振り、スルスルと樹阿弥老人の足元にすり寄っていきました。
「庭師様、このトカゲをお連れくださいませんか?」
樹阿弥老人も心得た様子で頷き、しゃがんで袂を地面につけました。トカゲは何も怖がらずに、袂に入っていきました。
お玉さんは家から風呂敷を持ってきて、梅の実が入った籠を包みました。樹阿弥老人は、その包みを肩にかけ、道具箱を抱え、袂にトカゲを入れた手で杖を持ち、帰ってゆきました。
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