貴方とともに(保護犬サトーさんの話)

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一.犬の譲渡会に行く  動物愛護協会を訪ねた夫婦がいました。今日は、犬の譲渡会が開かれていました。  夫は会場に設けられた柵を、ぐるりと見て回っていました。柵の中には、大小様々な犬がいました。妻は会場の奥に立ったまま、独りうつむいていました。しばらくして、夫が妻の元に戻りました。  夫は妻に何かを話して、妻は小さく頷きました。妻は一つの柵に歩み寄りました。柵の中にいた犬達が、尻尾を振りながら彼女に集まってきました。  妻は次の柵へと移動しました。ここでも、犬達が集まってきました。妻はうつろな眼差しで犬を眺めていました。彼女は一通り柵を回ってから、夫の元に戻りました。 「どうだい?」  夫が聞いてきました。妻は首を横に振りました。 「焦らずに、ゆっくりと探すといいよ。気に入ったのがいなければ、また今度来ればいい」  夫が腕組みをして、会場を眺めていいました。会場では、十人ばかりの人がいました。犬が柵に近づいた人達に集まっていました。 「帰ろうか?」  夫がそういって、歩き出しました。妻もそれに従って歩みました。夫が柵の脇を通って、会場の出入り口に着きました。夫は後ろをちらっと見て、足を止めました。妻の姿がなかったのでした。  夫は慌てて会場を見回しました。人達の間を通って、柵を巡りました。夫は会場の一番奥にあった柵のそばで、しゃがみ込んでいる妻を見つけました。  妻はただ黙って、柵の中を見つめていました。夫もそちらに視線を移すと、柵の囲いの隅で、こちらに背を向けている犬がいました。 「この犬がいいのかい?」  夫がささやきました。妻は首を傾げていいました。 「ちょっと、気になったものだから」  妻はしばらくの間、その犬の背中ばかり見ていました。  子犬や小犬を抱いた人達が、譲渡の手続きをしていました。夫が腕時計に目をやりました。 「もう、こんな時間か」  もうすぐ、本日の譲渡会も終わろうとしていました。 「どうですか、触れ合ってみたい犬はいましたか?」  夫婦に近づく人がいました。譲渡会の担当者でした。柵の中にいた他の子犬達が、その人のそばに集まってきました。どの犬も大きく尻尾を振っていました。 「ここに来たのが初めてで、まだ何とも言えませんが、家内が気にしている犬が一匹」  夫が戸惑いながらも答えました。 「その犬を外に出してみましょうか?」  担当者が妻を見て、その視線の先を追いました。柵の奥で背を向けている、黒くて大きな犬でした。妻が静かに首を横に振りました。 「ただ見ているだけですから、外に出してもらう必要はありません」夫がすぐにいいました。「何かありましたらお呼びしますので、その時はよろしくお願いします」 「そうですか、分かりました」  担当者は笑顔を見せて、その場を去っていきました。 「ありがとうございます」  夫が担当者の背中に会釈をしました。結局、夫婦は譲渡会が閉会するまで、その柵の前にいました。 二.犬を引き取る  動物愛護協会が開催する犬の譲渡会は、毎月第一日曜日にありました。朝の十時に会場が開くと、先月訪れていた夫婦がやって来ました。  せかせかと歩き回る妻の後ろを、夫が静かに連いていました。妻は視線を周囲に走らせながら、犬達が入っている柵の間を進んでいました。会場にいる全ての犬を見終えると、妻は壁に背をもたれ掛けてうな垂れました。  夫がいったん妻の元に歩み寄りますが、再び会場内を見て回りました。 「居ないね」  妻のそばに戻ってきた夫が、ぽつりといいました。妻はわずかに頷きました。譲渡会の会場には、ぽつりぽつりと人が増え始めていました。夫婦は片隅で、ただ立ちすくんでいました。  夫が会場に来た人達をぼんやり眺めていると、目の前を横切る者に気付きました。 「あっ、ちょっとすみません」  夫が慌てて、その人に声を掛けました。譲渡会の担当者が立ち止まっては、振り返りました。 「何でしょうか?」  担当者がいいました。 「私は先月の譲渡会に来た者ですが」夫が一歩前に進み出ていいました。「先月見掛けた犬がここに居ないのですが、もしかすると誰かに引き取られたという事でしょうか?」 「そうですね、どなたかに譲渡されたかもしれませんね」  担当者が会場を見渡しながらいいました。 「お引き止めをして、すみませんでした」夫は落胆した口調でいいました。「ありがとうございます」 「いいえ、お構いなく。子犬達の譲渡は早いものですから、気に入った犬がいましたら、遠慮なく申し出て下さい」  担当者は会釈をして歩き出しました。夫は軽くお辞儀をしました。 「今日はいったん帰って、来月また来ようか」  夫が妻にいいました。妻はこくりと頷いて、壁に当てていた背中を離しました。夫婦は肩を並べて、会場の出入り口へと向かいました。 「すみません、お時間を少し頂いてもいいですか?」  先程の担当者が夫婦の元に駆けてきました。 「はい?」  夫婦が立ち止まりました。担当者は呼吸を整えてからいいました。 「先月の譲渡会で、最後までいらっしゃった方ですね? 黒い犬を見ておられた」 「はい、そうですが」  夫が首を傾げながらいいました。 「今日いらっしゃったのは、その犬に会うためですか?」 「ええ」妻が戸惑いながらいいました。「でも、ここに居ないという事は……」 「あの犬にとって、先月の譲渡会は初めてでして、うまく自己アピールができなかったようです。人になつく事も難しくて、柵の中で怯えていたんだと思います。それで、人に慣れるようになるまで、時間を掛けようという事になりました」  夫婦は黙ったまま、担当者の話を聞いていました。 「そういう事で、本日の譲渡会には出しておりません。今はバックヤードに居まして、もしよろしければお会いになりますか?」 「はい、是非とも」  妻が両手を胸元に当てて声を上げました。担当者がややびっくりした表情をしましたが、すぐにいいました。 「ではご案内しますので、こちらにいらっしゃって下さい」  担当者が先に歩いて、会場奥へと向かっていきました。妻はほっとしながら、後に連いていきました。譲渡会場の奥のドアを開けて、通路を進んでいきました。時々、犬の鳴き声が前方から聞こえてきました。通路が開けた先に、犬を収容しているおりがありました。 「たくさんの保護犬を、ここで預かっています」担当者が説明をしました。「私達の前では、あの犬も普通に行動をするんですがねぇ」  やがて、担当者が一つのおりの前で足を止めました。 「さあ、こちらです」  担当者が手で示して、一歩後ろに下がりました。夫婦はおりの中をのぞき込みました。一匹の犬がおりの前面にいて、尻尾を振っては担当者を見つめていました。妻は先月背を向けていた黒い犬を見つけました。  妻はおりの前で屈み込みました。犬は警戒心をあらわにして、後ずさりしました。妻はそっと手を差し出しました。犬は彼女を見上げました。妻は微笑みながら、おりの中に指先を入れました。  犬は躊躇していましたが、彼女の指先に鼻を近づけました。指先の匂いを嗅いだ後、犬は興味がなさそうにおりの奥に移りました。  妻は上体を起こして、振り向いていいました。 「犬に触れてみたいのですが、いいでしょうか?」 「はい。一度外に出してみましょう」  担当者は頷いてから、おりのとびらを開けました。そして、おりの中から犬を連れ出しました。 「お名前は何というの?」  妻が犬の顔を見つめながら聞きました。 「名前は付いていません。引き取られた先で、名前を付けてもらっています」  妻が犬の前でしゃがみ込んで、犬の鼻先に両手を伸ばしました。犬は手の匂いを嗅ぎました。犬の尻尾がわずかに振られました。 「怖がらなくてもいいんですよ、いい子だからね」  妻は両手の平を犬に見せてから、犬の頭に手を持っていきました。 「おりこうさんでいてね」  妻は犬の頭に触れました。犬は頭を左右に振って、嫌がる素振りをしました。 「何もしないから、じっとしていてね」  妻が優しくいって、再び犬の頭を撫でました。 「いい子、いい子」  妻は犬の背中を触りました。犬はおとなしくしていました。妻は静かに立ち上がって、夫にいいました。 「私、この子がいい」  こうして、犬は夫婦の元に引き取られました。一人娘を亡くした夫婦にとって、犬は大切な家族の一員となりました。 三.サトーさんと寝る  犬が真夜中に遠吠えをしました。とある住宅街に建つ一軒家の、暗がりのリビングに鳴り響きました。  ベッドに横になっていた妻が、そっと起き出しました。彼女も寝付けないでいました。妻は隣にいる夫を伺いました。夫は寝息を立てていました。  再び犬の鳴き声がしました。妻はベッドから出て、リビングに向かいました。部屋の明かりを点け、リビングの隅に歩み寄りました。 「サトーさん、どうしたの?」  妻は動物愛護協会の譲渡会で引き取った、犬に話し掛けました。犬はケージに置かれたベッドの中にいました。 「独りぼっちで、寂しいの?」妻は犬の前にしゃがみ込みました。「今まではみんなと一緒に寝ていたものね」  犬は鳴く素振りを示しました。妻は口元に人差し指を立てて、これを止めました。 「どうしましょうか?」  妻は首を傾げました。犬はベッドから起き上がって、妻の顔を見ました。 「ちょっと待っててね」  妻はそういうと、寝室へと消えていきました。再び戻ってきた時には、タオルケットを抱えていました。妻は微笑みながら、リビング中央にあるソファにタオルケットを被せました。 「今日は、私が一緒に寝てあげる。サトーさんが慣れるまでは、そうしてあげるからね」  妻はリビングの明かりを消して、ソファに横になりました。 「私は、ここがいいんです。サトーさん、おやすみなさい」  妻は目をつぶって、寝に入りました。犬もベッドに丸まって、目を閉じました。 四.サトーさんとの日常生活 「サトーさん、おはよう」  リビングのカーテンを開けた妻が、ケージの中のベッドで寝ている犬にいいました。 「朝ご飯を作るから、待っててね」  妻はケージの脇にあったお皿を二つ手に取って、キッチンへと向かいました。 「おはよう」  夫がパジャマ姿で、リビングに入ってきました。 「おはよう」  妻が夫にいいました。妻は蛇口をひねって、お皿を水で洗いました。夫がソファに座って、テレビの電源を入れました。テレビでは、ニュース番組が流れました。  妻がお皿をふきんで拭いてから、キッチン奥の棚にあるドッグフードの袋を取り出しました。袋から出る音に、犬の耳がせわしく動きました。妻はお皿の一つにドッグフードを入れて、もう一つのお皿には水を注ぎました。 「はい、出来ましたよ」  妻がお皿を二つ持って、リビングの隅に移動しました。犬がベッドから起き上がって、大きく伸びをしました。妻はお皿をケージの脇に置きました。 「さあ、召し上がれ」  犬が尻尾を振りながら妻の顔を見て、開けられたケージから出てきました。そして、お皿に歩み寄って、ドッグフードを食べ始めました。 「次は、私達の分ね」  妻がそういって、キッチンに戻りました。 「着替えてくる」  夫がソファから立ち上がって、寝室へと消えていきました。再び戻ってきた夫は、外出の服を着ていました。 「早いな」夫は苦笑しながらいいました。「じゃあ、行ってくる」 「はーい」  妻が返事しました。夫はリビングを出て、廊下を歩きました。犬が玄関口で待っていました。 「さあて、散歩に行こう」  夫が犬のリードとお散歩道具を持って、玄関を出ていきました。    犬が夫婦の所に来てから、毎日の生活が変わりました。  朝の散歩から帰ってくると、夫婦で朝食を取ります。犬は新鮮な水を飲んで、ベッドで丸くなります。夫は妻の手作りのお弁当を持って、会社に行きます。妻は朝食の後片付けをし、洗濯をしたり部屋の掃除をします。  家事が一段落付くと、妻はソファに座ってテレビを見ます。犬がベッドから起き上がって、今度はソファのそばで寝転がります。  妻は足元にいる犬に、笑顔で話し掛けます。犬は目を閉じたまま、耳を傾けます。  この話は、そんな夫婦と犬の物語です。 五.ペットショップで買い物  夫婦はペットショップにいました。犬のエサとおやつの食料品、トイレシートとベッドの生活用品、そして遊具品を買いに来たのでした。予めメモしておいた物品を、買い物カゴに入れました。 「会計してくる」  夫はそういって、レジへと向かいました。 「私はもう少し、見てるから」  妻が夫にいいました。そして、妻は軽やかな足取りで、店内を見て回りました。今にもハミングしそうな感じでした。 「ここに居たんだ」  会計を済ませた夫が、店内中央の売り場にいた妻にいいました。 「ちょっといい物があったから」妻がいいました。「これなんか、どう? 可愛いでしょ」  妻が夫に見せた物は、フリルが付いた真っ赤な服でした。 「サトーさんは、オスだろ」  夫は苦笑いしました。妻は色々な服を手に取りました。 「でも、大丈夫。サトーさんは何でも似合うから」  妻はウキウキしていました。こんな妻の笑顔を見るのは久しぶりでしたので、夫は否定しませんでした。 「いいんです。だって、服は買わないから」妻はいいました。「ただ見ているだけで、いいんです」  それはまるで、娘の服を選んでいる母の眼差しでした。 六.サトーさんとの共同生活  動物愛護協会から犬を引き取って、犬と夫婦との共同生活が始まりました。  リビングの片隅に犬用のケージを、その中にベッドを置きました。トイレトレイにトイレシートをセットし、これもケージの中に入れました。野犬になる前に使用していたようで、犬はこれらの用具にすぐに慣れました。  しかし、夫婦が犬に歩み寄ると、ケージの隅に行っては体を震わせていました。夫婦は犬との距離を取るようにしました。  ケージのとびらは開けたままにしておき、自由に出入りできるようにしました。食事はケージ入り口脇に置くとリビングから離れて、視線を合わせないようにしました。犬は夫婦の様子を伺いながら、ケージから顔だけ出して食事を取りました。ただ、うんちだけは家の外に出てしました。  それ以外は、犬はケージの中に閉じこもっていました。妻は犬の気配を感じるだけで、普段通りの生活を送りました。  しばらくして、妻が家事を済ませてリビングでテレビを見ていると、犬がケージの入り口に歩いていき、首を長くして家の中を見回しました。妻は視線の片隅に、犬の姿をみとめました。 “出てきた”  犬は鼻を床に近づけて、匂いを嗅いでいました。恐る恐るリビングを通って、キッチンに歩いていきました。犬は窓に目を向けて、家の庭を眺めました。妻は息をひそめて、犬の行動を見守りました。  犬は音を立てずに動いて、ソファのそばに来ました。妻の足元で匂いを嗅いで、ケージの中に入っていきました。 “急がなくていいんです、サトーさん”  妻が心の中でささやきました。犬はそれから何回か部屋の中を散策して、ケージに戻っていきました。  そしていつの間にか、犬はソファに座る妻の足元で伏せていました。それに気付いた妻は、自然と笑みをこぼしました。 七.サトーさん、砂場で遊ぶ  妻が犬を連れて、散歩に出掛けました。色々な所を巡った後は、いつもの場所に行きました。犬は近所の公園にたどり着くと、一目散に砂場に向かいました。そして、犬は穴を掘り始めました。 「サトーさんは、好きだよね」  妻がいいました。犬は穴に鼻を突っ込んで匂いを嗅いでは、再び穴掘りをしました。  妻は周囲に気を配りながら、犬の行動を見つめていました。小学生の子供達が公園にやって来ましたが、公園の四隅にある滑り台やシーソー、ブランコで遊びました。犬は穴掘りに夢中でした。  夕暮れ時、カラスが鳴きながら、頭上を飛んでいきました。小学生達は奇声を上げながら、追いかけっこを始めました。 「サトーさん、そろそろお家に帰ろうか」  妻が犬にささやきました。犬は激しく両前足を動かして、砂をかいていました。妻は独り苦笑いしました。  しばらくして、やっと犬は砂場から出てきました。 「満足した?」  妻がいいました。犬は体を震わせて、付いた砂を振り払いました。犬は舌を出しながら、妻を見上げました。真ん丸な瞳が、輝いていました。公園で遊んだ娘が見せた笑顔と被りました。 「そう、楽しかったのね」  妻はしゃがみ込んで、犬を抱き寄せました。 「無邪気に遊んで、いいんですよ」  妻がぽつりといいました。 八.妻が風邪を引く  犬がベッドから、むくっと起き出しました。大きく伸びをして、周囲を見回しました。犬がいるリビングには、誰もいませんでした。  犬はリビングやキッチンの周りを歩きました。廊下へと続く、リビングのわずかに開かれたドアに頭を突っ込んで、ドアを開けました。  犬は自分の鼻を頼りに、家の中を歩いていきました。そして、夫婦が使っている寝室に着きました。ここでも、体を滑り込ませて、ドアを開けました。寝室はカーテンが掛けられ、薄暗くなっていました。  犬は静かに足を進めました。ジャンプして、ベッドに飛び乗りました。小高い丘のような、布団の膨らみが奥にありました。  犬は頭を下げながら、平らな布団の上を歩きました。布団の膨らみの先に、妻の横顔をみとめました。犬は小さく鳴いて、妻の顔を舐めました。妻が目を覚ましました。 「サトーさん。心配して、来てくれたの?」  妻が布団から手を出して、犬の頭を撫でました。 「ちょっと風邪をこじらせちゃってね、それで休んでいるの。病院に行く程でもないから、すぐに良くなると思うわよ」  妻は微笑みました。犬は妻のそばに寄り添って、伏せをしました。 「そばに居てくれるんだ。ありがとう」妻は再び目を閉じました。「しばらく、こうしていて下さい。それが、一番いいんです」  犬は妻の横顔を見つめながら、ベッドの上で体を丸めました。 九.サトーさん、トリミングする 「サトーさん、着きましたよ」  妻がいいました。妻はとある店に、犬を連れていきました。 「サトーさんはここが初めてだけど、大丈夫だからね」妻はそういうと、店内に入っていきました。「ごめんください」 「いらっしゃいませ」  店員がすぐに奥から出てきました。 「今日はよろしくお願いします」妻はお辞儀をしました。「先日電話で予約をした者ですが」 「はい、こちらこそよろしくお願いいたします。ところで、今日はどのようにしましょうか?」  店員は犬に目を向けながら聞きました。 「きれいにカットして、全身を整えて下さい」  妻は笑顔でいいました。 「わかりました」店員はいいました。「それでは、お預かりします」  店員が妻から犬のリードを受け取りました。妻はしゃがみ込んで、犬の頭を撫でました。 「サトーさん、今日はここできれいきれいしてもらうからね。だから、大人しくしているんですよ」 「シャンプーとカットのセットコースで、終わりは二時間後ですが、よろしいでしょうか?」  店員は妻と犬を見守っていました。妻はすくっと立ち上がりました。 「わかりました。それでは、サトーさん。また二時間後に迎えに来ますからね」  妻は手を振って、店のドアを開けました。犬も妻の後を追って店を出ようとしましたが、店員がリードを持っていました。 「ごめんね」店員が犬にいいました。「奥の部屋に行きましょう、サトーさん」  妻は背中越しに犬を見つめたまま、店外へと出ました。 「クーン」  犬が悲しい声で鳴きました。店員が犬のリードを引っ張って、店の奥へと向かいました。 「後二時間、さびしくなっちゃうわね」  犬のトリミング店から離れた妻が、独りつぶやきました。行く当ても無く、気持ちが重くなった足を動かしました。  しばらくして、妻の携帯電話が鳴りました。妻は慌てて通話ボタンを押して、携帯電話を耳に押し当てました。暗かった表情が、しだいに明るくなりました。  通話を切った妻は、急ぎ足で駆け出しました。向かった先は、犬を預けた店でした。  妻が店に近づくにつれて、犬の鳴き声が大きくなりました。妻が店のドアを開けると、犬が駆け寄ってきました。 「サトーさん、サトーさん」  妻は犬の背中に手を回して撫でました。犬は妻の顔を舐め回しました。 「電話を入れてしまい、すみませんでした」  店員が声を掛けてきました。 「いいえ、こちらこそ。すみませんでした」  妻が見上げながら、店員にいいました。 「お客様が店を出られてから、ずーっと鳴き通しで。そして、動き回っては、トリミング出来ない状態でしたので」 「そうですか」妻が犬の頭を撫でました。「それでは、今日のトリミングはどうしましょうか?」  店員が遠慮がちにいいました。 「初めての場合にはよくある事で、お客様が不在になると不安がって、一時パニックに陥る事があるのです。でもそうした場合、お客様の姿や気配が感じられれば、安心して大人しくなる事もあります」  妻はほほに手を当てていいました。 「まあそれであれば、私がここに居た方がいいですね」 「そうして頂ければ、助かります」 「サトーさん、私は一緒に居ますから、大丈夫ですよ」妻が犬にいいました。「これでいいんです」  妻は店内にある椅子に腰を下ろして待ちました。店の奥では、店員が犬のトリミングをしていました。妻は目を閉じて、店の中で奏でる音を聞いていました。 “ママ……”  初めて保育園に行った娘が、去ろうとした妻にしがみ付いて、何とか発した言葉でした。泣きじゃくった娘の顔が、妻の脳裏に浮かびました。 「私はここに居るからね」  妻はふと思い出して、ぽつりと涙を流しました。 十.サトーさんの毛の生え変わり  妻がリビングで掃除機を掛けていました。綿帽子のような犬の抜け毛が、部屋の片隅にありました。妻はその塊を掃除機で吸って、いったん掃除機を止めました。 「毛が生え変わる季節になってきたのね」  妻は掃除機を下に置くと、犬のケージがある方に向かいました。ケージ脇のおもちゃ箱の中から、ブラシを手に取りました。 「サトーさん、こちらにいらっしゃい」  妻がベッドに寝転んでいる犬に手招きしました。犬は起き上がって、ベッドから出てきました。妻は床に敷かれたジュータンに膝を付いて、犬を自分のそばに来させました。妻は犬の背中を撫でました。 「痛いかもしれないけど、我慢していてね」  妻は犬の顔をのぞき込みながらいいました。ブラシを犬の背中にそっと当てて、抜け毛を取っていきました。犬はブラシの突起物の感触を嫌がっていましたが、逃げ出そうとはしませんでした。 「いい子、いい子」  妻は犬の耳元でささやきました。ブラシを犬の背中からお腹に移しました。 「いっぱい取れたね」妻は抜け毛が付いたブラシを犬に見せました。「はい、終わり」  妻は犬の頭を撫でました。犬は大きく伸びをしてから、体をぶるぶる震わせました。抜け毛が宙に舞いました。 「また、掃除機を掛けなくっちゃね」  妻はいいました。犬はベッドに向かい、横になりました。妻はブラシから抜け毛を取り除きました。 「毎年毛の生え変わり時期に、こうしてサトーさんの抜け毛を集めていれば、ふかふかな犬毛の座布団が作れるかも」  妻はにこやかに微笑みました。 十一.サトーさん、洗濯物でじゃれ合う  妻が寝室のベッドの上に正座して、夕方取り込んだ洗濯物を畳んでいました。手拭いとタオル、下着類と靴下、夫の服と自分の服とに分けていきました。そこへ、犬が乱入してきました。  犬はさっとベッドに飛び乗り、山と積んだ洗濯物の前に立ちました。 「何ですか? サトーさん」  向かい側の妻が、首を傾げていいました。犬は洗濯物に鼻を近づけて、くんくん匂いを嗅ぎました。次に、前足を上げると、手拭いの山を崩しました。 “また、始まった”  妻は心の中でささやきました。犬は上体を起こして、後ろ足で立ち上がりました。そのままジャンプして、タオルの山に突進しました。  犬はタオルを一枚くわえると、頭を左右に振りました。その姿はまるで、山の中で獲物に襲い掛かった、猟犬そのものでした。長いタオルが振り回されて、犬のわき腹を叩きました。 「サトーさん、ちょうだい」  妻が両手を前に差し出しました。犬は頭を左右に振るのを止めて、タオルをくわえたまま妻に目を向けました。 「返して下さいな」  妻が再度いいました。犬は頭を垂らして、口にしていたタオルを離しました。 「ありがとう」  妻がタオルに手を伸ばしました。タオルの端をつかんだとたん、犬もタオルの片端をくわえました。妻は両手でタオルを握りました。犬もベッドの上で、四足を踏ん張りました。 「今日は、負けないわよ」  妻は笑顔を見せながらいいました。妻と犬の、タオルの引っ張りっこが始まりました。  犬は腰を引いて、ぐいぐいと後ろに下がろうとしました。妻もがんばって、タオルを持っていました。 「サトーさん。タオルを離してくれたら、ご褒美におやつあげるよ」  妻がいいました。犬は尻尾を振りました。妻の上体が前のめりになっていきました。 「もう、サトーさんてっばぁ」  妻はタオルを離しました。犬は奪い取ったタオルを口にくわえて、頭を激しく振りました。 「あーあ、サトーさんの勝ち」  妻は両手を叩きました。犬は伏せをして、前足でタオルを押さえ込みました。舌を出しては、うれしそうに妻を見上げました。 「そのタオルはサトーさんにあげるけど、洗濯物を畳むのを邪魔しないでね」  妻は微笑みを返しました。犬は勝利品のタオルにあごを乗せて、妻を眺めました。妻は洗濯物の残りを畳み始めました。 十二.サトーさん、体調を崩す 「おはよう、サトーさん」  妻がドアを開けて、リビングに入ってきました。妻は窓へと向かって、閉めていたカーテンを開けました。 「今日もいい天気ですよ、サトーさん」  妻はケージの前まで来ては屈み込んで、犬を眺めました。犬がベッドから起き上がって、ゆっくりとケージ入り口に歩いてきました。 「いい子、いい子」  妻が犬の頭を撫でようとして、手を伸ばしました。 「あっ!」  妻は息を飲んで、動くのを止めました。視線は犬の脇にあった、トイレトレイに注がれていました。 「サトーさん、ちょっとケージから出てくれる?」  妻は開け放たれている、ケージのとびらを示しました。犬は振り返って、ベッドに伏せました。 「ちょっと待っててね……落ち着いて、私」  妻は胸元に手を当てて、深呼吸をしました。二、三回繰り返した後、目を大きく見開きました。そして、ケージからトイレトレイを取り出しました。 「昨日吐いちゃったのね、サトーさん。今の体の調子はどうですか?」  妻が犬に聞きました。犬は顔を背けたままでした。トイレシートには、犬が吐いたモノが載っていたのでした。色からして、昨夜の食事を戻したようでした。  妻はトイレトレイを床に置いて、ティッシュできれいに片付けました。 「朝食は食べられますか?」  犬はベッドから出ようとはしませんでした。 「動物病院が始まるまで、ベッドで休んでいて下さい」  リビングの壁掛け時計を見た妻は、そっとケージから離れました。 「おはよう」  夫がリビングに入ってきました。キッチンで朝食の準備をしていた妻が、すぐさま夫の元に寄っては犬の症状について話しました。夫は話を聞き終えると静かにケージに近づいて、犬の様子を伺いました。犬はベッドの中で、体を丸めていました。  夫婦はキッチンで朝食を取りました。夫は日課にしていた朝の散歩は止めて、そのまま会社に行きました。妻は夫を玄関で見送り、リビングに戻ってきました。  朝食の後片付けをしようとした妻は、ふとケージに目をやりました。そこで今度は、トイレシートにされていたうんちを見つけました。 「これも、動物病院に持って行きましょう」  妻はケージからトイレトレイを取り出して、柔らかいうんちをティッシュで取りました。ケージの中を眺めててから、ソファに座ってテレビも点けずに時が来るのを待ちました。  犬の具合が心配で、食事の後片付けをする事ができませんでした。  妻が再び壁掛け時計を見て、ソファから立ち上がりました。 「サトーさん、そろそろ行きましょうか」  妻はケージに歩み寄って、犬にいいました。犬はわずかに顔を上げて、妻を見ました。 「病院に行って、診てもらいましょう」  妻は優しくいって、犬をやっとケージから出しました。ティッシュに包んだ、犬が吐いたモノと出したモノを持って、家の外へと出ました。  病院では胃酸を抑える薬と整腸薬をもらってきました。その日の夜、妻は犬のそばで寝ました。  翌日、犬の食欲は戻り、散歩にも出掛けたい様子でしたが、大事を取って一日家の中で過ごしました。 十三.サトーさん、娘と似ている  リビングで、犬が小鳥のぬいぐるみで遊んでいました。洗濯物を干し終えた妻がやって来て、ソファに座りました。 「サトーさん、ちょうだい」  妻が犬に向かって、両手を差し出しました。犬はちらっと妻に目を向けましたが、ぬいぐるみは口にくわえたままでした。犬はリビングの広い場所に移動して、小鳥を振り回したり放り投げたりしました。 「サトーさん、ちょうだい」  妻が再びいいました。犬は床に置いた小鳥のぬいぐるみに突進したり、後退したりして遊んでいました。妻は犬の行動を眺めていました。  妻が黙っていると、犬はケージ脇にあるおもちゃ箱から、別のぬいぐるみを取り出してきました。床に伏せた状態で、小犬のぬいぐるみを両前足で押さえ込んで噛んでいました。  妻はソファから立ち上がって、床に放置された小鳥のぬいぐるみを、おもちゃ箱に戻しました。犬は妻の動きを目で追っていました。 「サトーさんは、どのぬいぐるみが好きなの?」  妻が犬のそばに寄っていいました。犬は首を傾げて聞いていました。 「さあて、おやつにしましょう」  妻はキッチンに行きました。犬のおやつが入っているかごに手を伸ばして、袋を一つ取り出しました。犬は耳を澄ませて音を聞いていましたが、すぐに妻の足元にやって来ました。 「ちょっと、待っててね」  妻が袋から三粒おやつを取って、犬にあげました。犬はおやつを一粒ずつ口にしました。 「はい、おしまい」  妻は両手を犬に見せて、おやつが無くなった事を教えました。犬は妻の手に鼻を近づけて、匂いを嗅ぎました。とぽとぽとリビングに戻っていき、ソファのそばで体を丸めました。  妻は犬の後を追って、ソファに座りました。 「ぬいぐるみ遊びは終わりなの?」  妻が犬に聞きました。犬は床に敷いたジュータンの上にあごを置いたまま、妻を見上げました。妻は微笑んでいました。 「サトーさんはあの娘と同じで、飽きっぽいのね」妻はささやきました。「でも、それがいいんだよね」  夕方になり、犬に夕食をあげる時間になりました。妻がキッチンに行き、犬用のドライフードの袋を開けました。リビングのソファのそばで寝転がっていた犬が、この音を聞きつけました。すぐに起き上がっては、キッチンに向かいました。 「ちょっと待っててね」  犬用のお皿にドライフードを入れ、その上に乾燥野菜をひとつまみ載せました。茶色の食べ物に、キャベツとニンジンが彩られました。 「野菜も取らなくっちゃね」  妻は犬の顔をちらっと見ながらいいました。犬は妻の足元でお座りをして、尻尾をぱたぱたと振っていました。妻はお皿を持って、リビングに戻りました。犬も彼女に連いていきました。 「はい、召し上がれ」  妻はお皿をケージ前に置きました。犬はお皿に入ったドライフードを食べ始めました。妻はしゃがみ込んで、犬の食事を眺めました。お皿の底がみるみる見えてきました。やがて、犬はお皿から顔を離して、ケージ脇にあるお水を飲みました。 「ごちそうさま」  妻はにこりと微笑んで、お皿を手に取りました。お皿をのぞいて、口にしました。 「また、ニンジンだけ残しちゃったのね」  犬は聞こえない振りをして、ソファのそばに伏せました。妻は小さく苦笑しました。 「本当、ニンジンを残すところも、あの娘と一緒ね」 十四.娘を亡くして一年目  犬が小鳥のぬいぐるみで遊んでいました。小鳥の首根っこをくわえて、頭を激しく振りました。高々と上に放り投げました。ぬいぐるみが落下した方に突進していき、前足で押さえつけて、小鳥にかじり付きました。  しばらくの間、小鳥のぬいぐるみで遊んでいましたが、ふと耳を澄ませました。犬は周囲を見回しました。犬が今いるリビングに、妻の姿がありませんでした。  犬はぬいぐるみを口にくわえたまま、歩き出しました。リビングを後にして、廊下を進んでいきました。洗面所やトイレにはいませんでした。その奥にある寝室で、妻を見つけました。  妻はベッドの隅に腰を下ろして、女の子の服を手にしていました。服を握り締めて、目を閉じていました。そして、妻は服を胸元の抱え込んで、うな垂れました。  犬は妻のそばに歩み寄って、彼女を見上げました。犬はベッドの上に飛び乗りました。妻がゆっくりと目を開けました。 「サトーさん」  妻は瞳に溜まった涙を、手の甲で拭いました。犬は妻の横でお座りをして、首を傾げました。そっと前足を上げて、妻の腕の上に載せました。 「私は大丈夫よ」妻はそういうと、犬の背中に手を回しました。「でもしばらくは、こうしていて下さい」  妻は犬を抱きしめながら、再び涙を流しました。娘を亡くしてから、一年が経とうとしていました。 十五.サトーさん、山に登る  夫が運転する車で、一泊二日の旅行に出掛けました。車の後部座席には、妻と犬が並んで座っていました。元気が無い妻を気遣って、夫が山登りをすすめたのでした。  夫婦が行こうとしている場所は、以前何度か訪れている山で、登山口には一軒の山荘がありました。標高の低い山で日帰りでも良かったのですが、我が家から離れて休日を過ごしてみたいと思ったのでした。  妻は犬の背中に片手を当てて、ぼんやりと前方を眺めていました。犬はシートにお座りをした状態で、車外の景色を見つめていました。  車は夫婦が住んでいる街を抜けて、田畑が広がる郊外に出ました。右手前方に、山々が眺められました。車は信号待ちすること無く、どんどんと進んで行きました。  やがて、車は林道に入っていきました。道路の舗装状態が悪く、車はスピードを落として走っていきました。犬は開けられた窓から入り込む、山の匂いを嗅いでいました。尻尾が静かに揺れていました。 「さあ、着きましたよ」  妻がいいました。車は林道を抜けて、空が広々と見える駐車場へと出ました。その先には、二階建ての山荘がありました。まばらでしたが、駐車場には車が点々と止まっていました。  夫は山荘のそばまで、車を進めました。宿泊者専用の駐車場が、山荘の前にあったのでした。 「荷物だけ、先に預けておこう」夫がいいました。「周りをぶらぶら歩いて、体を慣らしておいて」  妻は小さく頷いて、車から降りました。犬も車から降りると、大きく体を震わせました。 「サトーさん、ちょっと散歩しましょうか」  妻は犬のリードを持って、駐車場の片隅を指差しました。伸びをした犬は妻の顔を見上げて、彼女の後に連いていきました。  夫は車の窓を閉めて、外に出ました。後部ハッチから、バッグとリュックサックを取り出しました。リュックサックを肩に掛けてバッグを手に持つと、車に鍵を掛けました。 「さてと」  夫は山荘の建物に入っていきました。  妻は登山口付近の茂みに歩いていき、茂みの手前で夫を待ちました。犬は茂みに鼻を当てて、匂いを嗅いでいました。 「サトーさん、これから山に登るんだけど、この山は小学生が遠足でよく来る山だから、誰でも楽に登れるのよ。サトーさんはまだ若いから平気だと思うけど……それより私の方が体力無いから、すぐにバテてしまうかもしれないね」  妻は苦笑いしました。数台の車が、駐車場に入ってきました。夫が山荘から出てきて、妻の元に歩みました。 「昼過ぎまでに、頂上にたどり着ければいいからね。景色を楽しみながら登ろう」  リュックサックを背負った夫が、登山口に進みました。 「じゃあ、行こうか」  妻がリードを軽く引きました。犬は茂みから顔を離して、妻と共に歩き出しました。しかし、登山口に差し掛かった時、犬は立ち止まりました。 「どうしたの? サトーさん」  妻が犬に問い掛けました。犬は地面に伏せてしまいました。妻がしゃがみ込んでは首を傾げて、犬の顔をのぞき込みました。夫婦の脇を、登山者が通り過ぎていきました。夫も妻のそばに寄りました。 「もう、疲れちゃったの? それとも、動きたくないだけ?」  犬は立ち上がると、先程までいた茂みの方に向かおうとしました。 「ちょっと、待って」  妻は止めようとしましたが、犬はリードを引っ張ってどんどんと進んでいきました。茂みの間をぬって、奥に消えていこうとしました。 「サトーさん、ストップ、ストップ」  妻がリードを強く握りました。しかし、妻は茂みの中へと足を踏み入れました。茂みを抜けると、散策道に出ました。犬は妻を見上げました。妻は散策道を見回しました。人が誰もいませんでした。  妻の背中でがさがさと音がしました。夫が妻の後を追ってきたのでした。 「サトーさんは、こっちの道が好きなのかも……」  妻は犬の頭を撫でながらつぶやきました。 「とりあえず、この道を行ってみようか」  夫が登山口と反対の方角を示していいました。 「サトーさんも、それでいい?」  妻は犬の脇を歩いて前に出ました。犬はすぐに妻を追い抜いて、先頭をすたすたと歩き始めました。妻と夫は並んで進みました。  散策道は山のふもとを一周するようになっていて、先々で山の頂上へと続く登山道と交わっていました。夫婦と犬は人とすれ違う事無く歩いていました。最初の四つ角、登山道との交差点に来ました。 「ここから、登ってみようか」  夫がいいました。妻が犬の様子を伺って、山を登り始めました。登山道は樹木に囲まれて、ひんやりとしていました。犬は地面の匂いを嗅ぎながら進んでいました。  途中、休憩用のベンチが点在していて、夫婦は休みながら山登りしていました。昼過ぎになっても、山頂にたどり着けませんでした。 「この辺りで、昼食にしよう」  夫が前方にあるベンチを指差していいました。 「サトーさん、もう少しで休憩ですよ」  妻が声を掛けました。犬は歩みを緩めました。夫婦は日陰にあるベンチに腰を下ろしました。  夫はリュックサックを妻に手渡しました。妻は膝の上にリュックサックを置いて、中を開けました。サンドイッチとおにぎり、おかずを入れたタッパを取り出しました。そして、ペットボトルと水筒も出しました。 「サトーさんは、お水要りますか?」  妻が水筒のふたを取って、中に入っている水を注ぎました。犬の口元にふたを持っていくと、犬は水を飲みました。夫はベンチに並べられた昼食の品々を眺めて、おにぎりを一つ手にしました。  小鳥のさえずりが、遠くから聞こえていました。夫は小鳥の姿を探して、上空を見回しました。妻はサンドイッチを取りました。 「サトーさんも、一緒に食べますか?」  夫婦の前でお座りをしている犬に、妻が聞きました。犬の尻尾は地面を掃いていました。妻はパンの端っこを千切って、犬に与えました。犬はペロリと食べて、催促の要求をしました。 「わんっ」  妻は微笑んで、もうひと欠片パンをあげました。妻はサンドイッチを手に持ったまま、景色を眺めました。 「食べないの?」  夫が聞いてきました。妻がこくりと頷いていいました。 「まだ、お腹が空いていないの」  夫は何か言い掛けましたが、口をつぐみました。ペットボトルの口を開けて、飲み物を飲みました。 「もう一つ、頂くよ」  夫はおにぎりを取っていいました。妻は犬に視線を向けて、パンの欠片をあげました。 十六.サトーさん、逃げる  夫婦は山の頂上に着きました。見晴らし用の高台が中央にあり、その周辺は芝生になっていました。休憩用のベンチが四方にあり、そこからも眼下の景色が眺められました。  夫婦は空いているベンチに座りました。夫がリュックサックを肩から降ろして、膝の上に置きました。リュックサックの中からペットボトルと水筒を取り出して、ベンチに並べました。 「人が少ないね」  夫が頂上を見回していいました。 「ここまで来るのに、だいぶ時間を掛けてしまったから」  妻が水筒を手に取り、ふたに水を注ぎました。 「サトーさん、お水」  妻が犬に水筒のふたを差し出すと、犬は水を飲みました。 「帰りは下りだから、早く山荘に戻れるよ」夫がいいました。「山荘に着いたらお風呂に入って、今日の疲れを取ろう」 「そうしましょう」妻が微笑んでいいました。「リュックサックをこちらに渡して下さい」 「どうしたんだい?」  夫が聞きました。 「お腹が空いてきたので、昼食の残りを食べたいと思いまして」 「それは、よかった」  夫がリュックサックを手渡しました。妻はリュックサックに手を突っ込んで、サンドイッチを取り出しました。犬が尻尾を振って、妻の前にお座りしました。 「三時のおやつね」  妻はサンドイッチのパンをひとつまみ取って、犬にあげました。妻は山頂から見下ろせる景色を眺めながら、サンドイッチを口にしました。 「私も、少し食べようかなぁ」夫がいいました。「まだ、おにぎりがあった筈だが」  妻がリュックサックからおにぎりを取って、夫に渡しました。 「サトーさん、どうしますか? この周りを散策しますか、それとも私達と一緒にここに居ますか?」  妻が聞きました。犬は妻の足元に伏せました。 「じゃあ、しばらくお休みしましょう」  妻は犬の背中を撫でていいました。夫婦そろって、半時間程度、ベンチで休憩を取りました。 「さあて、帰ろうか」  夫がそういって、立ち上がりました。妻はリュックサックに、ペットボトルと水筒を仕舞いました。そして、リュックサックを夫に渡しました。夫婦は犬を連れて、山を下りる事にしました。  山の中腹まで下りた頃、何やら騒がしい音が聞こえてきました。下り坂は左右にS字カーブがあり、視界は木々に包まれていました。突然、犬が立ち止まりました。 「どうしたの? サトーさん」  妻が聞きました。犬は振り返って、妻を見ました。大きな瞳が、怯えているように感じられました。夫婦は犬の後ろで立ち止まったまま、前方を見据えました。茂みや木々を叩く音が、次第に大きくなりました。それと共に、叫び声や話し声が聞こえてきました。妻は犬をつないでいるリードを持つ手に、力を込めました。  視界に現れたのは、五、六人の男の子でした。手には木の棒を持っていて、左右に振り回していたり、互いに棒を当てて歩いていました。これから山頂を目指して、山を登っていくのでしょうか、急ぎ足で進んできました。 「こんにちは」  夫は声を上げました。友達同士でチャンバラごっごをしていた男の子達は、やっと夫婦の存在に気付きました。振り回していた棒を下げて、静かになりました。 「こんにちは」  夫が再びいいました。 「こんにちは」  男の子達は一列になって、夫婦とすれ違いました。下り坂は二、三人がすれ違う程度の道幅しかなかったのでした。男の子達とのすれ違いが終えると、妻は安堵の吐息を付きました。 “バアン、ガサガサ”  夫婦の背後から、激しい音がしました。男の子達が、再び木の棒を叩いたのでした。犬はこの騒音に驚いて、駆け出しました。 「あっ!」  リードを思い切り引っ張られ、妻の上体が前のめりになりました。妻は両手を地面につき、ひざまずいてしまいました。握っていたリードはその手を離れ、犬は茂みの中へと消えていきました。夫は妻の元に駆け寄りました。 「大丈夫か?」  妻は呆けた表情をしていました。犬がいなくなった茂みに目をやり、そばにいる夫に視線を移しました。 「怪我はないか?」  夫は妻の上体を起こして、手の平を見ました。地面についた手の平が赤く腫れていましたが、出血はありませんでした。リードを持ったままでいたら、引きずられていたことでしょう。夫は妻の手の平に付いた泥を払って、彼女をゆっくりと立たせました。 「お父さん、サトーさんが行っちゃった……」  妻は我に返って、夫にいいました。 「大丈夫、すぐ戻ってくるよ」  夫がいいました。 「そうね。あの若者達が居なくなれば、私達の所に戻ってくるわね」  妻が後ろを振り返って、男の子達が去っていった方を見つめました。 「日が暮れるまでには、まだ時間があるから」夫は周囲を見回しながらいいました。「しばらく、この辺りで休んでみよう」  夫と妻は木陰に腰を下ろして、犬が戻ってくるのを待ちました。茂みや木の葉が揺れる音を耳にする度、犬の名前を呼びましたが、犬は現れませんでした。  夫婦は仕方なく、下山する事にしました。 十七.サトーさん、夫婦の元に戻る  夫婦が今夜宿泊する山荘に着いたのは、すっかり日が暮れてからでした。山荘の周囲は暗闇に包まれ、雨雲が山頂一帯に立ち込めていました。  夫がすぐさま、山荘の主人に事情を話しました。 「大切なお客様が迷子になっているのでしたら、早いとこ探しましょう」  主人が行方不明になった犬の捜索に、協力してくれる事になりました。捜索の準備をする為に、主人は奥の方に行ってしまいました。残された夫婦は、山荘一階の食堂で待ちました。 「椅子に座って、体を休ませて下さい」  主人の奥さんがやって来ていいました。そして、持ってきたカップをテーブルに置きました。カップにはホットミルクが注がれていました。 「ありがとうございます」  夫婦はとりあえず、テーブル前の椅子に座りました。夫は出されたカップを手にして、一口飲みました。妻は視線を窓外に向けていました。  いきなり激しい雨が降り出しました。雨粒が窓に当たっては、滝のように流れ落ちました。それを見ていた妻の表情が険しくなりました。 「サトーさん、どこに行ってしまったんでしょう。帰って来れますよね?」  妻が震えた声でいいました。しばらくして、山荘の主人が食堂に戻ってきました。 「家には雨具用のカッパと懐中電灯はありますが……こんな天候では、お客さんの捜索は困難かと思います」山荘の主人が重々しくいいました。「山中のどこを捜索したらいいのか分からないし、呼び声もこんな雨や風でかき消されてしまうから、明朝天候が回復するのを待ちましょう」  夫が妻の顔色を伺い見ました。妻はうな垂れて、膝の上に置いた両手を硬く握り締めていました。 「食事はお持ちしますので、部屋で休んでいて下さい」  主人の奥さんが遠慮がちにいいました。 「明日のこともあるから、ここはひとまず部屋に行こう」  夫がリュックサックを持って、椅子から立ち上がっていいました。妻は後ろ髪が引かれる思いでしたが、静かに立ち上がりました。主人の奥さんの案内で、夫婦は予約した部屋に通されました。  部屋にはテーブルとベッドが置いてあり、ベッドのそばに今朝方預けたバッグがありました。夫婦はテーブルを挟んで、椅子に座りました。 「大層心配だと思いますが、大丈夫ですよ。きっとどこかの木の下か、茂みの中で雨宿りしてますよ」  主人の奥さんがそういって、去っていきました。夫は閉められたドアに向かって、お辞儀をしました。妻はカーテンが開かれた、窓の外を眺めていました。夫は部屋の中の静けさにいたたまれなくなって、備え付けのテレビの電源を入れました。 “それでは、天気予報をお伝えします”  ちょうど、天気予報を始めるところでした。夫はテレビに見入っていました。明け方には、雨は止みそうでした。  しばらくして、山荘の奥さんがカートに載せて、夕食を運んできました。妻はほとんど食べませんでした。 「お腹が空いたら、また口にすればいいよ」  夫が妻を気遣っていいました。食事を片付けに来た山荘の奥さんには、妻の分は部屋に残して置くように伝えました。  夫婦は明日に備えて、早めにベッドに横になりました。しかし、二人とも寝つけられませんでした。ぼんやりとしたまま、朝を迎えました。 「わん、わんっ」  彼方で、犬の鳴き声がしました。妻はうつらうつらしていました。再び犬の鳴き声が聞こえました。  妻は慌てて、ベッドから飛び起きました。室内用のスリッパを履いて、部屋の外に出ました。妻の突然の行動に、夫も目を覚ましました。廊下を進む妻の足取りが、次第に速くなりました。つまずきそうになりながらも、山荘の玄関にたどり着きました。  妻はドアノブを回してドアを開けようとしましたが、開きませんでした。 「ちょっと、待ってて下さい」  妻の背後から、声がしました。妻が振り向くと、山荘の主人が歩み寄ってきました。山荘の主人は妻の脇に立ち、ドアの上下部に設けられた鍵を回しました。 「さあ、どうぞ」  山荘の主人がドアを開けました。開け放たれたドアを前にして、妻は躊躇しました。 「わんっ」  犬が鳴きました。妻は反射的に駆けて、山荘の外に出ました。朝日が山荘を照らす中、玄関の外でお座りしている犬がいました。 「サトーさん」  妻の口からもれました。妻はひざまずいて、犬を抱きました。犬は昨夜の雨でびしょ濡れでしたが、妻はそのまま抱いていました。 「サトーさん」妻は泣いていました。「お帰りなさい」  駆けつけた夫は妻のそばに立って、この光景を見守りました。 「怖かったね」妻は犬の顔を見つめていいました。「もう独りで、何処にも行かないで」  犬は妻の顔をペロペロ舐めました。  昼前に、自宅に着きました。 「ただいま」  妻は誰に言うでは無しにいいました。妻と犬が先に家の中に入っていきました。夫はバッグとリュックサックを持って、後から続きました。 「無事に戻って来れたね」  リビングに着いた妻は、犬の頭を優しく撫でました。犬は尻尾を振りました。 「ちょっと待っててね」  妻はそういうと、キッチンに向かいました。そして、犬のおやつを持って戻ってきました。 「はい」  妻は犬のおやつを手の平に載せて、犬の口元に持っていきました。犬は彼女の手の平を見て、手の平を舐め始めました。妻の手の平には昨日転んだ跡があり、まだ赤く腫れていました。 十八.サトーさん、ハトを追いかける  公園の砂場で、犬が穴掘りをしていました。そのそばで、妻が犬を眺めていました。犬は掘った穴に鼻を突っ込んで匂いを嗅いでは、懸命に穴掘りを続けました。 「んっ、どうしたの?」  妻が首を傾げました。犬の動きが止まり、耳だけが左右に動いていたからでした。  数羽のハトが公園に舞い降りました。犬はゆっくりと顔を上げ、体を低くして向きを変えました。ハト達は水溜りにくちばしをつけていました。  犬は駆け出して、一直線にハトに突進していきました。 「あっ!」  突然の行動に、妻は持っていたリードを離してしまいました。犬は一斉に飛び立つハトに飛び掛っていきました。犬の牙は空を切りました。  ハト達は公園にある遊具、ブランコの方に降りました。犬は再びハトに向かって走っていきました。ハトは飛び立って、公園の隅にあるシーソーに飛び移りました。犬はすぐにその後を追いました。犬は獲物を狩る仕草で、ハトを追い続けました。  妻は両手を胸元に当てて、犬を見守っていました。やがて、ハト達は住宅の屋根の上に移動しました。犬は公園を走り回ってから、妻の元に戻りました。 「サトーさん」妻が犬を抱きました。「もうそんな事をしなくても、いいんですよ」  犬が野犬だった頃、エサを取る為にやっていた事だと、妻は感じました。他にも、早めに収集場に出されたゴミ袋に、散歩中の犬の足が向いていたのを、妻は気にしていたのでした。 「サトーさんは、今はもう私達の家族の一員なんだから、昔のような事はしなくてもいいんですよ」妻は犬に聞かせました。「だから、大丈夫です」 十九.サトーさん、散歩中に倒れる 「サトーさん、散歩に行こうか?」  妻がいいました。リビングのソファのそばで寝ていた犬が、顔を上げて妻を見ました。 「お散歩、行きましょう」  妻がソファから立ち上がりました。犬もすぐに起き上がりました。尻尾が激しく揺れていました。  妻が玄関へと歩いていくと、犬も後から連いていきました。妻は靴を履き終えて、犬の首輪に付けられたリードを持ちました。妻は玄関のドアを開けて、犬を外に出しました。 「ちょっと、待っててね」妻はドアに鍵を掛けました。「じゃあ、行こうか」  妻は犬と共に、表の通りに出ようとしました。先を進む犬が、二、三歩ふらついたかと思うと、ばたりと地面に倒れ込んでしまいました。 「どうしたの、サトーさん?」  妻が血相を変えて、犬の元に駆け寄りました。犬は口元から舌をだらんと垂らして、尿を出していました。妻は無意識の中に、犬の胸元をさすりました。 「サトーさん、サトーさん」  妻が犬の名前を呼び続けました。しばらくして、犬が意識を取り戻して、上体を起こしました。 「大丈夫? 立てる?」  妻がいいました。犬は妻に目をやって、ゆっくりと立ち上がりました。そして、歩き出しました。 「抱っこして、今日は帰ろうか」  妻は犬の横に並んで、犬を抱きかかえようとしました。しかし、犬が嫌がって暴れました。 「はい、わかりました。自分で歩きたいんだよね」  妻はふと吐息をつきました。仕方なく、妻は犬の背中を心配そうに見つめながら、後に連いていきました。今回は、いつもの散歩道の半分を歩いただけにしました。 “フェラリアを発症してしまった犬は、心臓にダメージを負い、日常の生活や運動に支障をきたします”  妻の脳裏に、獣医からの言葉が浮かんできました。 「サトーさん」  妻が思わずつぶやきました。犬は振り返って、妻を見ました。妻は無理に笑顔を作りました。 二十.サトーさん、我が家に来て一年経つ 「誕生日、おめでとう」  妻がそういって、ドッグ用のケーキを犬の前に置きました。犬は尻尾を振りながら、早速ケーキを食べ始めました。 「サトーさんの本当の誕生日は分からないけど、我が家に来てちょうど一年が経つのよ。だから、家に来た日が誕生日」妻は犬のそばにしゃがみ込んでいいました。「それでいいよね、サトーさん」  夫はソファに座って、目を細めながら妻を見つめていました。 二十一.サトーさん、満月の下散歩する  満月の下、妻と犬は散歩をしていました。秋の到来の兆しをみせたそよ風が、妻の髪を撫でていました。犬は突然倒れたりしますが、よたよたとゆっくりと歩いていました。  犬が立ち止まると、後ろを歩いていた妻も立ち止まりました。妻は月を見上げました。 “サトーさんが穏やかな日々を送れます様に”  妻は心の中で願いました。 「サトーさん、今日はもう帰ろうか」  妻が犬の背中に向かっていいました。犬はその場にお座りをして、首を回らせては妻を見つめました。妻は犬の隣にしゃがみ込んで、犬の頭を撫でました。 「また、今度がありますよ」  妻は犬の背中に手をやって、そっと犬を抱きしめました。 「サトーさん、私の為に長生きして下さい……私達を見守っていてね、チーちゃん」 二十二.犬の譲渡会の担当者が話す 「この犬は以前飼われていた様で、こちらで保護した時には首輪をしていました。でも、野犬としての生活が長いのか、それとも飼われていた環境によるものか分かりませんが、大変人を怖がっていました。臆病で人の気配を感じると、すぐに逃げ出していました」 「保護した時も、尻尾を丸めながらも激しく抵抗しましたが、人に噛み付く事はしませんでした。毛は季節で抜け変わっていましたが、泥にまみれて汚い状態でした。獣医に診てもらったところ、年齢は推定七歳でオス。去勢はされていましたが、フェラリアにかかっていました。食べ物はゴミ捨て場にある残飯とか漁っていたのでしょうか、かなりやせ細っていました」 「犬の譲渡会に来られる方々で、この犬でもいいと言って下さる方もいらっしゃいましたが、今までの事情を話しますと、遠慮される結果になりました。保護されて約一年が経とうとしていますが、人に慣れず、芸もできず、病気持ちという事で、今後の世話も大変になるでしょう」  夫婦が訪れた犬の譲渡会の担当者がいいました。 「ですから、この犬の為にも、もう一度ご検討されてみてはと思っています」  夫は話を聞いている間、妻の横顔を見つめていました。妻はうつむいて、話に耳を傾けていました。 「私は、この犬がいいんです」  妻がつぶやきました。それは、強い思いが込められた一言でした。 二十三.サトーさん、飼い主に捨てられる 「お前は連れていけないんだ」  男が犬にいいました。犬は言葉の意味も分からずに、飼い主に尻尾を振っていました。  家の前に停められたトラックの荷台には、全ての家財が載っていました。 「元気に生きろよ」  男が犬の頭を撫でました。家の庭先に停めていた車から、男の妻と子供が玄関にいる男を見つめていました。 「これが最後の食事だから、味わって食べろよな」  男は持っていたお皿を犬の前に置きました。犬は男を見上げてから、お皿に顔を近づけました。 「次の家はペット飼育不可なんだ」男はそういって、玄関から離れました。「それに、トリミング代やら病院費用とか高いんだよなぁ」  男は家族が乗る車のドアを開けて、運転席に座りました。男はエンジンを掛け、さっさと車を走らせました。 「バイバイ」  子供が犬にいいました。玄関口で食事をしていた犬が振り向きました。通りに出た車の窓から、子供が手を振るのが見えました。車とトラックはスピードを上げて、家から遠ざかっていきました。  犬は飼い主達がいつもの買い物に、出掛けたのだろうと思いました。そして、いつもより早い時間に、いつもと違う場所でドッグフードを食べました。お腹を満たした犬は、玄関口で体を横たえて、飼い主達の帰りを待ちました。  夕方になっても、夜になっても、飼い主達は戻ってきませんでした。それでも、犬はずーっと、玄関口で待ちました。  通りを歩く人がふと家の方を見て、体を丸めた犬の存在に気付きますが、そのまま素通りしていきました。犬はお腹を空かしても、喉が渇いても、家から離れようとはしませんでした。昼間は太陽が照りつける玄関を避けて、家の裏口で過ごしました。  とある日、犬が家の裏口で寝ていると、玄関ドアの開く音がしました。犬は耳をそば立てると、すぐに起き上がりました。尻尾を激しく振りながら、玄関口へと駆けていきました。  車が一台庭先に停まっていましたが、犬はそれに気付かずに、開けられた玄関に入っていきました。玄関を駆け上がって廊下を進み、居間やキッチンを走りました。  犬が開け放たれたドアから家中を見て回っていると、突然見知らぬ人とばったり会いました。その人も犬の出現に驚き、口をぽかんと開けました。 「こっ、こらぁ。勝手に上がり込んでいるんじゃない。家が汚れるだろうが、この野良犬!」  人は大声を上げて、犬に向かっていきました。犬は慌てて家の外に逃げ出しました。そのまま通りに出て、走り続けました。  犬が家の中で目にしたものは、コタツやテーブルといった家具一切が無くなった、ガランとした室内でした。そこには、犬が家族と過ごした形跡もありませんでした。  それ以来、犬は二度とその家に戻る事はありませんでした。 二十四.幼い娘が犬を飼いたがっていたこと  妻が犬を散歩に連れ出していました。 「私ね、子供の頃犬を飼っていたの」妻が犬に話し掛けました。「その犬も、家に来た初日の夜は鳴いていたのよ」  妻が思い出し笑いを浮かべました。 「だから、私はそばに居てあげたの」  犬は先頭を歩いては、道路脇の草むらの匂いを嗅いでいました。 「サトーさんも、これからもずーっと一緒に居てね。約束だよ」  犬は散歩に夢中でした。 「あの娘も、犬を飼いたがっていたのよ。同じ一人っ子だから、考える事も同じで、寂しかったのかしら?」妻はほほに手を当てました。「でもまだ幼かったから、犬を飼うのは来年ねって言っていたの」  妻は苦笑いをしました。 「言う事を聞かないで泣きじゃくっていたけど、やっぱり生き物を飼うのであれば、私が子供の頃していたように、ちゃんと世話をしてもらいたかったから」  妻は言葉を止めました。そして、つぶやきました。 「だから、これでいいんです。今がいいんです。ねえ、サトーさん」  犬はふと立ち止まって、妻を振り向きました。 二十五.サトーさん、よたよた散歩する  犬が妻の前をよたよたと歩いていました。 「サトーさん、大丈夫? 歩ける?」  妻が犬に聞きました。犬は足元をふらつかせながら、散歩をしていました。昔であれば、道端の草むらや茂みに顔を突っ込んで、いろいろな匂いを嗅いでいたりしましたが、今では歩くのがやっとでした。 “がんばれ、がんばれ”  妻は心の中で応援しました。  いつもの公園に立ち寄っては、妻はベンチに座って、犬はその足元に伏せて休憩を取りました。子供達が砂場で小山を作っていたり、ブランコをこいでいたりしていました。そよ風が心地よく、髪を撫でていました。 「さあて、帰りましょうか」  妻が地面に伏せていた犬にいいました。犬は大儀そうに立ち上がって、公園の外に向かって歩き出しました。途中、犬は幾度も立ち止まっていました。 「ごめんなさいね」  妻は犬の後ろ姿を見守っていましたが、立ち止まった犬の横にしゃがみ込みました。両手を差し出して、犬を抱きかかえました。犬は少し暴れました。 「じっとしていて、サトーさん。これでお家に帰りましょう」  妻はそういって、しっかりとした足取りで歩き始めました。犬は大人しくなって、前方を眺めていました。  やがて、家の近くまで来ると、再び犬が妻の腕の中で暴れ出しました。 「はいはい、分かりました。自分の足で歩きたいんだ、それがいいのね」  妻は苦笑しながら、犬を道端に下ろしました。犬はよたよた歩きで、家にたどり着きました。 「よくがんばったね、サトーさん」  妻は犬の頭を撫でました。犬は舌を出して、妻を見上げました。 “僕はまだ、大丈夫”  犬の目がそう語っていました。 二十六.それぞれの思い “お母さん、ごめんなさい。また、悲しませてしまうね”犬はそう思いました。“でも、お母さんには悲しんで欲しくない。いつも、笑っていて欲しいんだ”  ケージから出したベッドがリビング中央に置かれ、犬がその中で横になっていました。もう動く事すら出来ず、ベッドに寝た状態でした。 “僕は何も出来なかったけど、お母さんはいつも僕を見守ってくれていたね。人に捨てられた野犬の僕だったけど、そばに居てくれてありがとう。たくさんたくさん伝えたい事があるけど、言い表せないよ。お母さんに引き取られた、子供でよかった。本当にありがとう”  妻は犬が寝ているそばに座って、犬の背中を優しく撫でました。 「サトーさんが家に来てから、私変わったのよ」妻がつぶやきました。「娘の千里を亡くして悲しみにくれていた私を、サトーさんが元気付けてくれたのよ。ぽっかりと空いた心の穴を埋めてくれて、乾き切った私の心に水を注いでくれた。再び喜び楽しさを与えてくれたのよ」  妻は目を閉じて、思い出にふけりました。 「だから、これからも私は泣かないから。サトーさんを笑顔で見送っていたいから、安心してね」妻は微笑んでみせました。「だって、サトーさんが私にくれたプレゼントだから、大切にするね。ありがとう、サトーさん」 “私は、貴方がいいんです”  夫はリビングのソファに座って、犬の背中を撫でている妻を見つめていました。 “気分を紛らわせると思って犬の譲渡会に連れていったけど、君は強くなったよ。ずーっと君の事を心配していたけど、犬を気遣ってくれて、大事にしてきたね。ありがとう” 完
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