発 端

1/12
前へ
/99ページ
次へ

発 端

「おはようございます」 「あいおはよ~」 大輝(だいき)が出勤すると、漆谷(うるしだに)はスマホ画面に食いついたままで、条件反射のように返事をした。そのすぐ隣のデスクに荷物を下ろすと、同時に横から唸り声が聞こえる。 振り向くと、彼は難しそうな表情のまま短い指でコーヒー缶をつまみ、ズルズルと音をたてて中身を啜った。 貧乏ゆすりをする派手な靴下が、デスクの隙間でチラチラと揺れている。 漆谷は度々遅刻をするが、そうではない日はいつもこうして勤務前に動画を見ている。大輝にとっては見慣れた風景だ。そして彼が何を真剣に見ているのかも、だいたい検討がついている。 ふいに画面から視線を離し、体を小刻みに揺らした漆谷が、イーッと下品な笑顔を見せて振り向いた。 「つってぃ~、いやぁ、つってぃーがシフト入ってくれるようになって、ほんと助かってるよ~。ありがとねぇ」 土屋(つちや)という大輝の苗字を、おそらく『つっちー』と呼んでいるつもりだろうが、歯が足りていないのか、誰が聞いても『つってぃー』にしか聞こえない。 「……はい、よかったです」 適当に笑顔を返し、大輝は着席した。 それを見てどこか満足そうに頷いた漆谷は、体を丸く縮め、再びスマホ画面を真剣に見つめ始めた。どうせ競馬かパチンコの動画を見ているに違いない。 冷めた視線を向ける大輝を気にもしない彼は、今日もくたくたのTシャツに派手なハーフパンツを履いている。どう考えても、これから仕事をする装いだとは思えない。 いかにも社会と相性が悪そうなこの男こそ、半年ほど前から一緒に仕事をする大切な先輩だ。大輝は全ての仕事を彼に教わった。やる気や親切心などはあまり感じないものの、それでもそれなりに仲良くやっている。 そんな先輩の顔を覗くと、少し後退し始めた額にうっすらと汗が滲んでいた。 「もしかして暑いですか?」 大輝が声をかけると、顔を上げた漆谷はキョトンとした表情で首を振った。 「えっ(おで)? え? いや全然(でんでん)?」 「……そうですか」 どうやら汗ではないらしい。 これから始める仕事は、駐車場やマンションなどの電話受付の対応だ。とはいっても深夜番なので、よほど緊急な内容でなければとりあえず用件を聞いておくだけか、然るべき所に回すだけだ。 暇なうえに上司もいない。 元々大輝は週二程度の勤務だったけれど、稼ぎを考えて今はこの仕事をメインに生活している。おかげでどうしても夜型生活になってしまい、大学に通う彼女と過ごせる時間が随分と減ってしまった。 今の生活を選んで約ひと月、既に大きな後悔を感じている。 ————ジジッ 21時59分、今夜のもう一人のメンバーである青木(あおき)が、滑り込みでタイムカードを押した。他のバイト先ではウェブやデータで出退勤を管理するが、大輝はこの音とその作業が嫌いじゃない。 「ぅす……」 挨拶とは言えない程の短い音を出し、青木は二人を見もせず早足で自席へ向かう。見た目は格好良いが愛想はない。しかし不親切というわけでは決してない。大輝の後ろを通り過ぎたその金色の頭は、いつも古い油のような匂いがする。 夜間シフトはこの三人で回している為、全員揃うのは週に一度程だ。二人の時も三人の時も、青木は全く無駄話をしない。出勤するやいなや耳にイヤホンを挿し、いつも何かの勉強をしている。今日も彼はすぐにノートを広げ、そこに何かを熱心に書きつけ始めた。着信時に光るランプを器用に視界に入れているので、それでも仕事に支障は出さない。 彼が必死で学ぶ姿を見て、進学を諦めた大輝も考えさせられるものがある。
/99ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加