貴女しか見えない

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「私はとても優しいから条件を答えてあげよう。そこにある林檎を一度齧ればいいだけさ。但し、この私のエレガントな髭を触りながら、だけどね」 「……冗談でしょう」    少女は瞬きの間に椅子に座らされていた。机上には川に加えて、藍色の皿に載せられた等身大の林檎があった。周囲の極彩色の果実とは違い、見た目は世間一般に流通している赤と何ら変わりなかった。空は白く濁り始め、虚無だった温度に涼風が舞い込んできた。吐息に震えが嵩張る。  「私はここの支配人でね。概念も条件も全て絵画の様に台無しに出来るのだよ。通りたいなら無理にでも仲良くしとくのが賢明な判断さ」    終末を紡ぐこの刹那の逢瀬が、彼女にとって最大の試練である事は疑う余地も無かった。目的を達する為に少女は大女優になる必要があったのだ。重ね塗りする建前の化粧と華美なドレスで着飾った本音を同時に飼い慣らして進まねばならない。全ての幸福は最早背後の影には無いのだから。 「君は、どうして向こうに行きたいのかな」 「……友人に出会い直したいのです。私の人生は彼女が消えた時から潰れた卵の様になってしまった物で、もう一度出会う為なら、辺獄にも足を運ぶ覚悟です」 「潰れた卵……。栄養価が高そうで良さそうだけどね」 「そういう意味ではありません。雛にすら成れなかった哀れなケダモノという事です。決して勘違いしないで下さい」    男は欠伸を噛み殺しながら曖昧な頷きで茶を濁している。百八つの煩悩を慎重に取り除き、最後に練磨された宝石を優しく脳内で反芻する。花催いの空気を肺に取り込んで吐き出す時、二つの心臓を贅沢に浪費する時、傍らには必ず友人がいた。絵画の世界に耽溺していた友人は、作家の名前を暗証番号の様に諳んじる事が出来た。同じ女の子としての悩みも周りの環境に対する葛藤も、二人でなら何とか超えられたのだ。しららかな愛を浴びて育った友人への想いは、恋慕や親愛という言葉では到底収まりはしない。彼女だけの物には決して成り得ないが、離れれば所有権を思わず主張してしまう様な、同意の取れていない一方的な愛が確かに存在している。もう一度出会う為なら躊躇いなく全てを棄て去れる位に。
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