低音LOVERS

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低音LOVERS

音大に入学して二年、松川は夏休みを前に退学することになった。入学してすぐ行き詰まってしまったのだが、親や将来や今までの努力などを考えると、すぐに辞めるとは言い出せずにいた。 やっと告げた時には、もう説得も聞けないくらい気持ちを固めていたので、父と母の落胆は大きかった。 ごめん 松川は一言だけ残して、家を出た。 もちろん、これだけは手放せない、相棒のコントラバスを持って。 「俺、楽器をやめたいわけじゃなかったんで。だから、一緒に出てきちゃいました、それが今日の朝です」 そして今は、さっき会ったばかりの名前も知らない男と居酒屋にいる。 「そういうことか。いやぁ、びっくりしたよ、あんなアゲた音出してる目の前で号泣してんだもん。でっかい男がでっかいケース持ってさ、客ドン引きだよ」 「すみませんでした。なんか、衝撃的だったんで・・・感動しちゃって」 「あはは、そりゃありがとう。ねえ、君、名前なんていうの?」 「松川です」 「松川、なに?」 「たいよう、空の、あの、太陽です」 「俺、さじかずみち、よろしくね」 佐治 一路 彼は紙ナプキンを広げ、テーブルに備え付けてあるアンケート用のペンでサラサラと書いた。 丸っこくて愛嬌のある字が、佐治の性格をあらわしているようだった。 「俺このあとスタジオ借りててさ、一人なんだけど、良ければ一緒に来ない?」 「え?」 「それ、ちょっと聞いてみたい」 松川は紙ナプキンをポケットに入れ、佐治と一緒に席を立った。 「他の方たち、いいんですか?」 「ああ、俺ゲストだから。メンバーじゃないの。それに、スタジオ予約入れちゃってるし」 路上で一緒に演奏していたバンドメンバーに挨拶をして二人は店を出る。 佐治はバリトンサックスの大きなケースを抱えて前を歩いている。その後を人間一人分と同じくらい大きなコントラバスのケースを背負った松川が続く。二人とも身長が高いせいもあり、すれ違う人はその迫力につい振り返ってしまう。 スタジオに着くと佐治が慣れた様子でテキパキと手続きを済ませて、すぐに部屋に入った。 流石に大きな楽器と大きな男二人には狭く見えたが、練習に支障はない。 「俺さ、クラシックはよくわかんないんだ」 佐治の言葉を聞いて松川はチューニングしながら少し考えた。 「じゃ、知らない人とか、あとイベントとかでよくやるやつ、一曲」 松川は、すぅっ、と息を吸ってから太い弦に指を置き、弓を滑らせた。 『いつか王子様が』 溶けたバターみたいに濃くゆったりとした弦の音が、狭いスタジオの中に充満する。弓の滑らかな揺れを見ながら、そばで聞いていた佐治はその音に飲み込まれ、気を抜くと溺れてしまいそうだった。 それは、ずうっ、と耳の奥まで満たしていた。 「・・・すん、げぇ、音・・・」 佐治はしばらく、松川の海に漂っていた。 「ねえ、音大、辛かったの?」 「俺、中学の時からやってて、高校も音高で、でも正直、これで食って行けるほど、飛び抜けてるわけじゃないし、だからって、上に行けるように人生賭けてまでがむしゃらになれるかって言ったら、そこまでの情熱は持てなくなってて。なんか、飽きちゃったのかなって。でも、楽器はやりたいんですよね。俺、コレ、好きなんで」 「そっか。ねぇ、さっき、なんであんなに泣いたの?」 「・・・わかんないです。でも、なんか内臓を掴まれたみたいになっちゃって、あんな演奏、初めて聞いたから。バリバリ!って、あの音。なんか目の前の世界をビリビリ破いて、全部ぶっ壊してくれたみたいで、そんなの初めてだったんで」 そうしてまた松川は泣いた。 「これ、オーケストラにはいないもんね」 「はい、楽器はもちろん知ってたけど、あんな音出す人もいないんで。先生に怒られそうだし」 「さっきのはファンクね。その、太陽の楽器でも、色々できるよ」 「あんなバリバリしたやつ?」 「うん、バリバリっていうか、バチバチ。それに、楽譜通りじゃない演奏も。自由に、目の前の人間も自分も高ぶらせる音、踊らせる音」 「こんなゆったりした弦で?」 「ジャズやファンクはさ、特にベースが重要なの。太陽くらい深い音出せるなら、目の前の人間を狂わせて、踊らせて、腰振らして、イかせる。全部できる」 そう言われても、実感はなかった。 佐治の言葉は理解できる。さっき、自分が体験した。しかし、そういう音を自分が出せるかといえば、それは違う。選ばれた人間にしか出来ないと思っていたから。 「太陽、さっきの、『いつか王子様が』、あれ、もう一回やって。ジャズでもね、あの曲けっこうやるんだよ。俺とセッションやってみようよ」 テーマやって、アドリブは、そうだな8小節じゃ短いか。16小節、で、テーマに戻る。 簡単にはそんな感じで。 「アドリブ?譜面無しでやったことないよ」 「大丈夫、使える音の範囲内なら飛び抜けないから、コードの中で遊んでみな。根性見せろ元音大生。音は全部おまえん中に入ってんだろ?」 備え付けのキーボードでテンポだけループさせて、佐治は鍵盤でイントロを弾いた。 二人でテーマから入る。 バリトンサックスの地響きのような力強さと、コントラバスの海の底のように包み込む音が合わさる。 地球の大陸移動の音がもし聞けるのなら、こんな音かもしれない。スタジオの中はたっぷりと満たされた。 そして、アドリブ。 佐治のバリトンは、沈黙の後、一定だったリズムを、キック。そして、深く落ちてから、一気に跳ねる。 楽譜に写し取れないくらい暴れて、でも、ちゃんと収まって誰も迷子にしない、聞く人間に優しい暴れん坊の佐治。 ラストは松川が入りやすい音まで戻してくれて、行儀よくバトンタッチした。 松川は、さっき言われたことを忠実に守り、使える範囲内の音を気持ちよく並べていく。でも、まだ踏み出せない、飛び込めない。 氷の上で戸惑っているペンギンみたいだ。 (もう一回やれ、太陽、まだ終われないぞ) 佐治は合図を出して、もう一回松川にアドリブソロを託す。 松川は戸惑いつつも、このまま負けたくない悔しさだけで必死に食らいつく、 (もっと!もっと!引き裂いてぶち壊せ!) 佐治がバリトンサックスで煽り、氷の上から松川を海に突き落とす。 (もう、訳わかんねぇ。俺は俺のしたいようにしたい。自由に弾けって何なんだよ。めちゃくちゃ苦しいじゃんか。なめやがって、俺だって今まで必死にやってきたのに。クソが!もう、これで最後でもいい、どうにでもなれ!) 松川は佐治のバリトンに煽られながら、必死にジャズの海でもがく。佐治の余裕のある間を取った演奏とは違い、音の隙間をどんどん埋め、松川のありったけをぶつけている。ジャズとは言えないが、いっしょうけんめいな音の動き、ぎこちなくてくすぐったいような嬉しい音。それは今までで一番、濃厚かつ官能的な響きで、一層スタジオ内の密度を濃く深くしていった。 佐治は松川の出す濃密な音を全身に浴びて、初めて聞いた時より、さらに深く沈み込んで埋もれてしまう。 心地よい圧迫感で、ビリビリと響いて、もう、体が溶けてしまいそうだった。 そしてそれは松川も同じだった。自分の中を剥き出しにして、溜め込んでいた全てを放出した。 アドリブが終わり、テーマに戻る。最後はまた行儀よく綺麗に合わさって、丁寧にやさしくお互いに全身を撫でるように、二人で終わる。 ドサッと、二人とも脱力し椅子に腰を落とした。 肩を大きく上下させ、佐治の顔は満足そうに上気している。一方で松川も、まるでコトを終えた後みたいに、コントラバスを抱くように脱力していた。 「太陽、大丈夫?」 「・・・うん、大丈夫」 「いきなりムチャさせてごめんね」 「うん」 「どう?嫌になっちゃった?」 すう、と松川は息を吸った。 「すげえ、気持ちよかった」 「ぶはっ。なにそれ」 「佐治さん、ありがとう」 「その顔、やめろ」 「え、かお?」 「その、イキ顔やめろ、襲うぞ」 「ふふ、なんだよ、佐治さんだって」 スタジオを出て駅まで歩く。 大きな楽器を背負った大きな男、二人。 「太陽、家出ちゃってどうすんの?」 「友達のとこか、こいつと泊まれるところを探そうと思ってる」 「まだ決まってないの?」 「これから探す」 「だったらさ、ひとまず、来る?うち。部屋見つかるまでいて良いよ」 その提案に松川はすぐに答えた。 「だめ」 佐治は、まさか断られると思わなかったようで、少しムキになってしまう。 「は?なんでヨ」 「なんでも」 「だって、そんな大きいの持ってちゃカプセルとかも無理だよ?金もかかるし、バイトとかしてないんでしょ?どうすんの?」 すると松川は大きな体をモゾモゾとして小さい声で言った。 「知らない人について行っちゃいけないんだよ」 苦し紛れの言い訳をした松川の本心を悟って、佐治は笑ってしまった。 「じゃあ、もうちょっと俺のこと、教えてあげようか?それなら知らない人じゃなくなるでしょ?」 「う、うん」 End
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