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吾輩は
吾輩は猫である。
とかなんとか、そんな小説あったよね。
でも実際、俺は、今、猫である。
(なんでだ?)
「にゃー」
俺の記憶はあまり多くない。だけど、たぶん人間だったはずだ。誰かと話したり、ドキドキしたり、そんな感覚が少しだけある。
でも、ちゃんとは思い出せない。
(ここ、どこだよ。すげぇ、寒いよ)
「にゃーん、にゃーんにゃぁーん」
俺の口からは、にゃぁーしか出てこねえ。
誰か助けて。
寒い。
「おい、猫。ねーこ、なにしてんの?迷子?ひとり?どうしたの?」
「にやー」
その男は大きな手で俺を抱っこして、なんか袋みたいなところに入れた。暖かくて柔らかくてゆらゆらゆらゆらして。眠くなる・・・
気付くと、白くモクモクして湿ったところにいた。
これ、知ってる。好きだったと思う、これ。
「ちょっとさあ、お風呂いれるから、怖くないからね。きれいにするよ」
そうだ、お風呂。知ってる、好きだから。
俺の体小さいんだな。あわあわのからだを撫でられて、温かいお湯で流されて。その間ずっとおっきい手の中にすっぽり入ってる。
(すげ、キモチイイ)
「ニャァ・・・」
俺は全身やさしく洗われて、ふかふかのタオルにくるまれていた。
それから男は、俺用のご飯と水を用意してくれて、一緒に晩飯を食べた。すぐに眠たくなり、ベッドに潜り込んで男の隣で朝を迎えた。
吾輩は、まだ猫だった。
昨日寝たベッドの中だった。あの男はいない。ガランとした部屋に俺だけがいる。急に不安になって、部屋の中を探した。
おーい、おーい、いないのー?どこー?
「にゃー にゃー、にゃぁあん」
どっか、行っちゃった。
俺捨てられちゃったのか?
俺はニャアニャアと涙を流して泣いて、あの男の匂いのベッドの中にもぐりこみ、いつの間にか寝てしまった。
ガチャリ
音で目が覚めた。
男が帰ってきた。なんだ、捨てられてなかった。良かった。
「ねこ、ただいま」
「にゃぁ」
(どうした、なんかしょんぼりしてるぞ、どうしたの?)
「にゃぁー、にゃぁにゃー」
「ねこぉ、お前が人間だったらなぁ・・・」
俺は男の手をペロペロ舐めた。猫にはこれくらいしかできない。ホントは手で撫でたり抱きしめたりしてあげたいけど。
顔をなめたら、しょっぱかった。男は泣いていたから、涙が口に入った。
俺はいっしょうけんめい舐めてあげた。
(俺が人間だったらなぁ)
それから少しして、部屋に知らない髭男が来た。髭は、男にベタベタ触って、俺を寄せ付けない。髭が触ると男は嬉しそうな顔をする。嬉しそうな声を出す。
俺は部屋の隅で一人で寝るようになる。
髭は意地悪で、俺を嫌ってた。
でも、男が幸せそうだから、俺は部屋を出た。
猫の成長って早いんだって。
子猫だった俺は1年くらいたつとまあまあ大きくなってた。もう、大人らしい。
俺は適当にご飯をもらいながらあのアパートの近くをウロウロしながら生きていた。縄張りとか、色々あって、迂闊に遠くにはいけないみたいだ。
だから男の部屋に髭が来なくなっていたこともちゃんと知ってる。また、行ったら俺を飼ってくれるかな。
最近、体がムズムズしておかしい。もう、人間に戻らないんだろうな。記憶もあんまり残ってない。俺はこのまま猫として生きるんだ。
ニャアニャア泣きすぎて声も枯れてる。
俺は本当にこのまま、猫として生きるのか?
ニャアニャアニャアニャあぁ・・・
(たすけてよ、俺をたすけて)
「ねこ?ねえ、ねこでしょ?おまえどこ行ってたの?」
男はまた俺を見つけた。そしてまた、ゆらゆらゆらゆらして、お風呂に入れてくれて、ふかふかのタオルで拭いてくれた。体を撫で回して、匂いを嗅いで、顔を近づけて、何度も何度も、ねこ、って呼んでくれた。俺はお返しにペロペロ舐めて、顔や手や首や耳や口の周りも全部。嬉しすぎてガブガブしたら、笑いながら痛い痛いと言っていた。
その日、また一緒に寝た。だけど・・・
夜、急激な震えが来て、飛び起きる。体がブルブルして、心臓がズキズキと痛くなる。男が慌てている。なにかたぶん病院かどこを探しているっぽい。
(死んじゃう!もっと、ちゃんと抱っこして!)
「にぁ゙ぁ゙ぁ゙!あァァァ!」
「ねこ!ねえ、ねこぉ」
男は泣きながら俺を抱っこしている。
体がビクビクと痙攣すると、窓からさす月明かりで床に落ちる俺の影が、ぐんぐんと形を変えているのがわかった。
俺は慌ててベッドから飛び降りた。
月を背負った男の顔は暗い。
猫の目だった俺は暗い中でもそれがよく見えた。
驚きと恐怖の顔。
そんな顔しないでよ。
俺を嫌いにならないでよ。
だから男に背を向けて、俺は自分の体が変わる影を見ていた。めりめりと骨と筋肉が伸びて、数十倍のスピードで成長しているみたいだ。関節も筋肉も膨張して、全身に激痛が走る。
痛い痛い痛い痛い痛いいたい
腕を噛んで必死に声を殺す。四つん這いの俺は、耐えられず頭を床につけ腕を噛み続けている。
何度も痙攣するたび背中が限界まで反る。気絶しそうになるのを耐える。いっそ殺してくれたら楽なのに。
やっと少し痛いのがなくなったけど、これ、尻尾、残ってる。
そう思ったすぐ後に、後ろからなにかが挿さるような鈍い感覚を覚えた。
(しっぽが・・・)
ゆっくりと、どっしりと鈍い感覚を受けながら、床に突っ伏して、身を任せた。もう手をつくこともできない。
腕はまだ噛み続けている。少し血の味がした。
ズゥゥゥ・・・
と、体の底に深い痛みと初めて受ける快感が走る。
同時にまた、体が大きく震え、やっと、俺は止まった。
ゼーゼーと、およそ猫でも人間でも出さないような声で、俺は呼吸をしていた。
「ねこ、なの?誰なの?」
俺は力尽きて、気を失った。
明るい日差しで目が覚める。
あ。
体を触った。
ツルツルした肌を、爪の尖っていない指を、耳を、お尻のところにあったピンと伸びていた尻尾を、探しても探しても見つからない。
俺は皮膚をむき出しにしてベッドの中にいた。
俺の目の前には人間の腕が見える。頭を動かしてみるとつるつるの体、手で体中を触ると、頭にいっぱい毛がある。顔も首もつるつるだ。それを触っているのは、つるつるの手だ。
「ああぁぁぁ!うぅぁぁぁぁぁぁ!ああぁ!」
人間だ。
どう発音していたかなんて、忘れていたから、とにかく、喉から音を出すことしかできなかった。
「大丈夫、だいじょうぶだよ、ねこ、大丈夫」
男が側にきて抱きしめてくれた。大丈夫だよ、と言い続ける男にしがみついて俺は泣き続けた。
吾輩は、猫じゃなかった。
俺は、やっぱり人間だった。
ちょっと遠いところに住んでいて、一年ちょっと前に突然行方不明になった大学生だった。名前は覚えてなかったけど、男が調べてくれて、家に連絡を取ってあった。
三池 義太郎 21歳
それが俺だった。
ひとまず家に返されて、病院とか警察とかに行くらしい。男は、ねこの話はしないように、と言っていた。たぶん病院から出てこれなくなるかもしれないから、と。
俺は男の服を借りて、親に引き渡された。記憶にない、俺の肉親、俺の親。
しばらくすると、人間だった頃の記憶も少し戻ってきていた。行方不明になった理由はわからずじまいだけど、記憶喪失など総合的に診た結果、ストレスによる一時的なものではないかということで片付けられた。いい加減にもほどがある。
だけど俺はそんなことどうでも良かった。とにかくあの男のところに戻りたかった。会いに行きたかった。
だけど、遠くに行こうとすると親がとても心配する。またいなくなったら、と。
もう、誰とも口を利きたくない。
また、猫になりたい。
俺を戻して。猫に戻して。
俺は部屋に閉じこもった。
見かねて、周りの大人が許可を出してくれた。
名前と住所を書いてもらって、行きの電車の中、スマホで地図を確認する。見覚えのある風景が出てきて、嬉しくなった。
猫として生きた一年ちょっと、俺はそれなりに楽しかったんだな。
その地に降りて、少しだけ、ねぐらのあった場所や、よく隠れていた草むらや、喧嘩した餌場をまわってみんなに挨拶した。
もう猫の言葉はわからないけど、みんなは俺のことをわかったみたいだった。もしかしたらこのなかにも、俺と同じやつがいたかもしれない。
みんなに別れを告げ、男の家へ向かう。
あの日以来、2ヶ月ぶりくらいだろうか。
部屋の前に立って、インターホンをならすと、男がいた。
「おかえり、ねこ」
「ただいま」
「どろんこになってるぞ」
「うん」
「おまえ、また泣いてんのか?」
男はあの日みたいに、また俺をきれいに洗ってくれて、ふかふかのおおきなタオルでくるんでくれた。
「ねこ、大きくなったね」
「あんたが泣いたら、抱きしめてあげられる」
「泣いてる時だけ?」
「いや、嬉しいときもいつも、してあげる」
男は猫の俺にしてたみたいに、頭をやさしく撫でてくれた。男の手は前と変わらず大きくて温かかった。だから俺は猫の俺じゃ出来なかったことを、たくさんしてあげた。
男の口からは、まだ聞き慣れない、俺の人間の名前がずーっと聞こえていた。
End
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