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密事
僕の家の近所に『春さん』という青年が住んでいたんです。十九か二十か、そのくらいの歳のそれはそれはとても凛々しい方でした。
その頃、僕はまだ子どもで、お恥ずかしい、まだほんの十一だか十二くらいの、ほんのこどもでしたよ。
僕はその『春さん』が大好きで、というのも、彼は昼間から、絵やら歌やらを気ままにしているんです。仕事や学校というようなところへは行ってなかったようで、ずっと家にいるんです。
だから良く、遊んてくれました。はい、板塀の影から覗くと、「みっちゃん、こちらで遊んでおいでよ」と、家へ上げてくれたのです。
絵を教えてもらい、一緒に歌い、美味しいお菓子を食べさしてくれる。とても優しいお兄さんでございました。だから、僕は、彼のことがとても好きなのでした。
ただ、当時は父や母から、あのお宅へは行くな、と、言いつけられておりまして、今なら理由はわかるのですが、その頃はまったく理解しておりませんで。
理由を聞いてもはぐらかされるばかりで、でもキツく言われておりましたから、親の目を盗んでこっそり遊びに行っていたのです。
屋敷へもそうっと脇の門扉から入って、春さんの部屋のある屋敷の裏手へ回るようにしておりました。
ですから、ほんの半時かそこらしか居られませんので、短い時間で、今日は絵を描き、今日は歌をやりと、あとは、春さんとのお話を楽しみに過ごしておりました。
ときどき、お菓子を食べながら、将棋やかるたなどもいたしました。
そんなふうにして、2年ほどたった頃でしたか。僕は今で言う中学に通っておりましたので、前よりも少し忙しくしておりました。
その日はいつもの時間に春さんのとこへは行けませんで、それでも、僕はどうしても、顔を見たくて仕方がありませんでした。
ちょうど父も母も、親戚の家の用で家にいない日でしたので、僕はこっそり、春さんに会いに行ったんです。
しかし、いつもの脇の門扉も、正面の門扉も閉まっていて、まあ、当然といえば当然です。もう夕刻でありましたから、薄暗くなっておりましたし。
ふと、人の気配がしましたので、僕は塀伝いに屋敷の裏へ回りました。そうです、春さんの部屋の方へ、塀伝いに。
板塀とはいえ、外からでは声も微かにしか聞こえません。耳を澄ますと春さんと誰かが話しているような、泣いているような、そんなふうに聞こえました。
どうしても気になって、僕はつい、板塀の下の隙間から、覗いてしまいました。
本当に、つい、覗いてしまったのです・・・
春さんには・・・あの、お相手の方がおりまして・・・、それは、そのお宅の旦那様でありました。
旦那様は色の白い小柄な、年頃は春さんより十も十五も上のようでした。その方が、その、春さんに、まるで女のように、その、はい、されているのです。
部屋に灯りも付けず、日暮れの、薄暗くて、まだ少し暑かったので、障子が半分開いていて・・・
僕はとても驚きまして、見てはいけないと思ったのですが、その場から一歩も動けずにおりました。
それは、怖くて動けなかったというより、反対の、もっと不純な理由からでした。
父と母があの家には行ってはいけないという意味が、なるほど、その時わかったのです。
春さんは所謂お妾さんでした。まあ、女が普通なのでしょうが、その旦那のお宅には、男のお妾さんの、それとも情夫というのか、春さんがいたと言うわけです。
僕ですか?その後は、これがまあ、予想通りといえばそうなんですが、時々、同じ様に父と母がいない日は、春さんの部屋を覗きに行っておりました。
もちろん、昼間の、ああ、いつものお絵描きや歌や、お話とお菓子の時間もですが、そちらも続いております。
それはもう、僕だけ、そりゃあドキドキして、覗きがバレやしないか、もう来るなと言われやしないかと、そんなふうに過ごしていたのです。
そして、その後ろめたさが僕をさらに揺さぶりました。
と、ひと月か、ふた月ほどたった頃、ふいに春さんが言ったのです。
「なあ、みっちゃん。光信くん。君はなぜここへ来るんだい?」
「何故って、そりゃ楽しいからさ、歌や絵や、色々教えてくれるだろう」
「じゃあ、ときどき、裏手で私達を見てるのは、何故だい?」
そりゃもう驚いて、心臓が口から飛び出すんじゃないかと思うくらい、僕は慌てて、手に持っていたグラスをひっくり返してしまいました。
中身が、バシャーっとなって、本当に慌てましたよ。そのこぼしたものが、畳にジワジワと染み込んでいくのが見えました。
「光信くん、何故だい?」
「そ、それは、ただ見たいだけさ、悪いかっ」
「何故、見たいんだい?」
「何故って・・・」
そんなことを聞かれたって、本当のことを言えるわけございません。だって、そうでしょう。まさか、自分が、自分があの旦那様のように、同じ様にしてもらいたいだなんて、口が裂けたって言えやしませんよ。
だけど春さんは、そんなこと、ハナから承知だったようです。
だって、僕が覗きに行くときは、決まって障子は半分だけ、開いていたのですから。
「みっちゃん。こっちにおいで」
「だ、だめ、駄目です」
「そうかい、ならば私が行く。光信」
「だめ、です。春さん、だめ」
「宗春、だよ。むねはる、そうお呼び」
「む、宗春さん、僕はいけない子です」
「そうだね、光信は私に惚れちまうなんて、イケナイ子だね」
「宗春さん、僕のこと嫌いになる?」
「いいや、ずうっと、光信は僕のお気に入りだ」
「でも、あんなこと、旦那さんとみたいなことはしなかった」
「そうだね、君は子どもだから」
「今は?」
「今も、子どもだよ」
「違うよ」
「そう、かな」
そうして春さんは僕の唇に、あの、はい・・・。それから、首や耳や肩や、腕や、胸や、春さんは僕を、そりゃあもう念入りに・・・
とはいえ、いつものように半時ほどしかいられないので、当然、旦那様と同じ様にはなりませんでした。
だけども、僕はすっかりボーッとしてしまって、恥ずかしいことに、ナニも、その、形を変えてしまい。本当に、恥ずかしくて恥ずかしくて仕方がありませんでした。
ハハ、その後はもうバタバタして、上着で隠して、慌てて飛び出して、どのように帰ったか思い出せない程です。帰り際に春さんは、またね、と僕に言いました。
その晩は、当然、寝られませんでした。そして、その日初めて、僕は、自分で・・・はい、初めて自分の手で、果てたのです。春さんのあの唇や、やさしく僕を撫でる手を思い出して。
それからしばらくは、学校や家の都合もあり、春さんのところへは行けませんでした。
もっとも、すぐに顔を合わせられるほど、大人でもありませんでしたから、どうしようかどうしようかと、毎日悶々としていたのです。
すると、ある日近所の大人たちがあのお宅の話をしているのを聞きました。旦那様が何やらして、もうお屋敷は引き払うのだの、売っぱらうだの、あの小姓だか書生だかはどうするのだとか、話していました。
ええ、春さんの、宗春さんのことでした。
僕はすぐに走っていきました。もう心臓が、はち切れそうで、爆発するんじゃないかというくらい、早鐘のように打っていました。
屋敷の前に着くと、人が何層かになっていて、隙間から見えたのは玄関から出る宗春さんの姿でした。
僕は必死で大人たちの隙間を縫って、なんとか門扉の前までたどり着いた頃には、宗春さんは車に乗せられるところで、僕は思わず、宗春さん、と名前を呼んでいました。
人がガヤガヤとうるさく、野次馬ですが、僕の声はかき消されてしまったのですけど、宗春さんは僕に気づいたんですよ。それはもう、嬉しくて、でも、野次馬が多くて、宗春さんも車に押し込まれる寸前で、手すら届きません。
たった数歩の距離が、遠く遠く、遥か向こうに感じました。
すると、春さんは、宗春さんは、車の扉が閉まる直前に、いつも懐に入れていたハンカチを、こう、ポトリと落として、僕を見て笑ってくれたんです。
走る車を見送って、すると、後ろの窓から宗春さんは手を振ってくれまして、僕は、見えなくなるまでそれを見つめていました。
そして野次馬が散り散りになるドサクサに紛れて、ハンカチを拾いました。
僕は、すぐに帰ることは出来ずに、もう、死んでしまいたと思うほどでしたので、お屋敷の裏手に、そうです、初めてアレを見たあの場所に行きました。
お屋敷の裏に家はありませんので、草が生えて、人がいてもわかりません。僕はそこで、宗春さんのハンカチを握りしめて、赤ん坊のように泣いておりました。
ふと、前に覗いていた場所から、板塀の、下のね、隙間から中を見ると、塀の柱の根本のところへ手紙が置いてあり、上から重石をしてありました。
宛名に「みつへ」と書かれていて、すぐに僕宛だとわかりました。
中に、春さんの写真が一枚と、さようなら、と書かれた紙が入っていました。
僕はまた、それを握りしめて、オイオイと泣きました。一生分泣いたと思います。それ以来僕は、ほとんど泣いたことはありませんでしたので。
これが、僕のたった一つの秘密の昔話です。
たった一つの誰にも話したことのない思い出です。
もうすぐに、この世とはお別れです。どうしても、誰かに聞いておいてほしくて、僕の一番の大切な、遠い遠い記憶を。
妻はもうおりませんし、ましてや子どもたちに言うわけにもまいりません。
ですので、貴方に、僕の最後を見てくださった貴方に、話しておきたかったんです、先生。
春さんの?ああ、写真ですか?はい、そりゃ今も大事に持っていますよ。そこの引き出しに、はい、それです。ねえ、そうでしょう。貴方に本当にそっくりなんですよ。
偶然ですけど、僕は神様がそうしてくれたと思っています。
今までありがとう。
宗春さん、僕はもう、いきますよ・・・
また来世でお会いしましょう。
「ああ、光信くん、おやすみ。また、会おうね」
二〇二四年 五月某日
長谷川光信 享年九十七歳
End
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