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矢島が本気で突くときは
家から二駅先にある『ビリヤード&ダーツ バー A's(エース)』
矢島は今日もここにいる。
よっぽど残業で遅くならない限り毎日。
アルバイトの月島幸雄という大学生に、週に何日かビリヤードを教えている。きっかけは、気まぐれに言った矢島の一言からだった。
「ど真ん中まっすぐを突くことが出来れば、この店に来ているほとんどの人間に勝てるよ」
だったら、と幸雄は矢島に迫った。
「だったら、矢島さんが教えてよ」
(めんどくせぇな)
その時は少し後悔したのだが、幸雄の練習を見ていると、だんだんと後悔は消えていった。
「ユキ、結構うまくなってきたね」
そうやって少しでも褒めると、幸雄はとても嬉しそうに全身で受け止める。その仕草が見たくてときどきちょっとだけ褒める矢島だった。
「ちょい、左」
気になったフォームを直すのに、つい、手を出してしまった時があった。幸雄の腰を軽く支えて、ちょっとだけ動かした。
カチッ
キューが空振りする。
「急に、触るから」
チクっ
と、静電気のように、何かが体の中心を走る。
矢島はそれを無視してフォームを直していった。
幸雄は飲み込みが早い。教えればすぐに伸びる。伸びる幅はテクニックの種類にもよるが、今は真っすぐを確実に突くことだから、単純な繰り返しを飽きずに続けられる幸雄は上達が早いのだ。
矢島はそんな幸雄を見るたび、自分の能力も可視化されて、さらに評価されているようで、一層指導に熱が入るのだった。
「先生の教え方がうまいからね」
そう、幸雄が言うのを、なんでもないふうに聞いているが、その実、矢島が一番喜んでいる。でもそれは、「教える」ということに限ってだと、信じていた。
だからいつものように、フォームを直していたのだけど。
横について右手で幸雄の肘をつまんで位置を固定する。つい入れ込んでしまう右の腰をもう一度開く。羅紗に左手をついて幸雄と目線の高さを合わせた。二人は並んで、半分重なっている。
「この位置が正解だから。このまま振れ」
ビタっ
と、的球にあたった白い手球は止まり、その先でストンと八番がポケットに入った。
矢島は思わず左手でガッツポーズをした。
自分の教えた通りきっちりと仕事をした幸雄を、それを導いた自分を、ともに称賛した。
と、ハイタッチの後、幸雄が急に抱きついたので、矢島はびっくりした。
「いいじゃん、ご褒美だよ」
幸雄がケラケラと笑ってそういうから、なんとなく返事をしてごまかした。
だけど、今まで見ないようにしていた自分のドロリとした部分を、その時、はっきりと自覚してしまった。
幸雄のバイトがある日は店員として接しているので、あまり話す時間はない。
しかしバイトが終わるとすぐに幸雄は矢島のいる台へ来る。
こうして教えている限り、幸雄を自分の手の中で思い通りにできる。
自分には無縁だと思っていた「独占欲」が、少しずつ矢島の中心で大きく重く育っていった。
幸雄はすぐに上達し、真っすぐのロングショットが安定してきた。そろそろ次の段階へ進もうと考え、幸雄の成長を見ながら矢島は少しうかれていた。
その矢先。
「どうした?」
ある日幸雄が難しい顔をしてキューを握ったままカウンターにいた。
良く来る苦手な客とゲームをすることになり、かろうじて勝てたものの、スッキリとは終われなかったそうだ。
「まあ、勝てたんなら大したもんだ。そいつさ、捻ったりやたらバンクして、やりにくい客だよね。蘊蓄ばっかでめんどくさそうなやつだろ?よく頑張ったな、ユキ」
「うん」
幸雄は目を合わせずに言った。
帰り道、幸雄は急に泣きだしてしまった。
「なんだよ、泣くほど嬉しかったのか?」
「ちがう」
幸雄は苦しそうな顔をして、声を震わせた。
「手加減されたんだよ。たぶんわざと負けた、あいつ。なんかいつも触ってきて、キモくて、今日も、断れないのわかってて、僕を台に入れたんだ」
「何それ、マジ?おまえさ、なんか勘違いさせるようなことした?」
「してない、そんなこと!するわけ無いじゃん!」
幸雄は矢島を睨んだ。
そのときの声は、矢島が初めて聞く幸雄の怒りの声だった。
「そうか、そうだよね。ごめん」
「こっちこそ、ごめん、急に。怒鳴ってごめんなさい」
「ちゃんと店長に言えよ。あぶねぇよ。帰りもなるべく一人になるなよ」
「わかってる」
(男に触られたら、そりゃぁ嫌だよな…)
あのとき幸雄が自分に抱きついたのは、やっぱり大した意味はないんだと、改めて認識した。そして、自分がその男と同類だと自覚した。
さらにそれを、幸雄に知られる事がたまらなく怖かった。
それから何日かして、少し遅い時間に店についた矢島は、入店後すぐ呼び止められた。
「今日、一人相手してもらっていいですか?」
矢島はときどきこうして一人客の相手を頼まれることがある。店に人がいればスタッフが対応するが、何人かの常連がその役をやることもある。
「いいですよ、どれ?」
「あれ」
店長はフロアを指さした。
そこには例の男が、台で球を組んでいた。
「矢島さん、本気でやっちゃって良いよ」
店長は男を睨むように見ながら矢島に言った。
多分店長はあの事を承知しているのだろう。
バイトの日だったが幸雄の姿はなかった。
矢島はハウスキューを取り、男と握手をした。
「お兄さんの、何度かやってるの見たことありますよ。高そうなキューですよねそれ。いやあ、久々に上手い人とやれて嬉しいなぁ。よろしくお願いしますね」
相手の男は「上手い人」という言葉に気を良くしたのか、店に来る理由を話し始め、幸雄の名前を出してきた。
「あの子のこと、教えてますよね。なんかさ、いい役だね。このゲーム勝ったら、その役さ俺に頂戴よ。俺が幸雄に教えるよ」
矢島は自分の中に青く静かに火がつくのを感じた。
「良いですよ。じゃあ、負けたらこの店、出禁にしますか。俺、負けたら、役も渡しますし、ここにも来ないんで、どうですか?」
男はペラペラと蘊蓄を並べながら、ありったけのテクニックを披露していく。矢島はニコニコとして、おだてながら相手にポケットを許していく。
1ゲーム目は男が取った。男の機嫌は上々だ。
「それ、キューさ、自分の使えば?なんか、俺が勝っても道具のせいとか言われそうじゃん」
ニヤニヤしながら男はすでに勝つ気でいるようだった。
矢島は冷めた表情で球を組んだ。その表情は一見、負け試合に意気消沈しているようでもあった。少なくとも男にはそう見えていたかもしれない。
しかし、2ゲーム目から、矢島が淡々と落としていく。ときどき男の番に渡っても、的球に当てるのがやっとの位置だ。
渡す、と言っても矢島は、シャチが獲物をなぶり殺すように、まるでオモチャみたいに転がしているだけだ。
それは端から見ていてもわかる程だった。
矢島は薄く鼻歌を歌いながら、男を2-1に追い込んだ。
いつの間にか幸雄がカウンターの中にいた。店長に言われて事務所に避難していたのだが、様子を見に来たようだ。
矢島はそれを見つけると、男に声をかけ、二人分の飲み物を取りに行った。
カウンターで、幸雄が心配そうに言った。
「矢島さん、なにしてるの?」
「鬼退治、ま、鬼ほど強くねぇけどな」
「一本取られてるけど」
「ああ、あれ?取らしてやったの、わざと。はじめにいい気持にさせてから、登った瞬間一気に叩き落とす方が面白いでしょ?俺、あいつマジで嫌いだわ」
そう言った矢島の目は、今まで見たことのない、暗い色をしていた。
「もう少し遊んでやろうかと思ってたけど、ムカつき過ぎて無理っぽい。ユキ、すぐ終わらせるから、そこで見てな」
幸雄の顔は血の気が引いたように見えたが、矢島はもう一人の自分を隠すことはできなかった。
それからあっという間に、本当にものの数分で、最後のゲームを片付けてしまった。
男はブツブツと言い訳しながら悔しそうにしていたが、店の隅で店長が少し声をかけると、慌てて頭を下げ、小さくなって帰っていった。
「矢島さん、変なやつ押し付けてごめんね。これが最善かなって思ってさ」
「いいよ、店長、俺、久しぶりに思いっきりやったよ」
矢島の目はまだ少し暗かった。
帰りは店長から頼まれて矢島が幸雄を送ることになった。
「あいつさ、ゲームに勝ったら俺の役よこせって言ったんだよ」
「役?」
「俺がユキに教えてるの知ってたよ。見られてたんだな、お前、ずっとあいつに」
「うん。誰も見てないときに、近寄ってきてた。触ったりとかも、言うほどじゃないくらいの感じで、だからあんまり言えないっていうか、困ってて」
「『いい役だよね、それ頂戴』って、『幸雄は俺が教える』って言ったんだよあいつ。だから腹立って。ただ勝つだけじゃ足りないなと思っちゃって」
「ありがとう矢島さん。まあ、ちょっと目とか、すごかったね、なんかいつもと違ってた」
「怖がらせてごめんね。俺はさ、俺は、あいつと同類だった。ムカついたんだよ死ぬほど。誰かがユキを、そういうふうに見てるってだけで、こんなんなるんだから、同類だろ?最悪だよ」
矢島は幸雄を見た。
喉の奥が詰まって、苦しかった。
「こんなこと。ごめんね。でもちょっと俺、最近なんか変なんだわ」
後を向きかすれた声でやっと絞り出した矢島の背中に、幸雄はピッタリとついて腕を回した。
「変じゃないよ、ぜんぜん変じゃない」
矢島に回した幸雄の手がぎゅっと強くなる。
「・・・なにしてんの?」
「矢島さん、どんだけ鈍感なの?」
「嘘でしょ?」
「マジで気付かなかったの?」
幸雄の今までの行動を思えば、簡単なことだったのに、矢島は今やっと気がついたのだ。
矢島は少し笑って向き直り、幸雄の肩ごと上半身をすっぽりと、自分の腕の中にしまった。
「ねえユキ、俺、明日会社行けない・・・」
「え?」
「手ぇくっついちゃった、どうしよう」
「は?ジジイ調子に乗んな、離せ」
「無理、取れない」
「ばか」
人気の無い平日午前0時の小さな交差点。点滅している信号よりテンポの早い二人の鼓動が、重なりあって響いている。
End
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