矢島が本気で突くときは

1/1
前へ
/15ページ
次へ

矢島が本気で突くときは

家から二駅先にある『ビリヤード&ダーツ バー A's(エース)』 矢島は今日もここにいる。 よっぽど残業で遅くならない限り毎日。 アルバイトの月島幸雄という大学生に、週に何日かビリヤードを教えている。きっかけは、気まぐれに言った矢島の一言からだった。 「ど真ん中まっすぐを突くことが出来れば、この店に来ているほとんどの人間に勝てるよ」 だったら、と幸雄は矢島に迫った。 「だったら、矢島さんが教えてよ」 (めんどくせぇな) その時は少し後悔したのだが、幸雄の練習を見ていると、だんだんと後悔は消えていった。 「ユキ、結構うまくなってきたね」 そうやって少しでも褒めると、幸雄はとても嬉しそうに全身で受け止める。その仕草が見たくてときどきちょっとだけ褒める矢島だった。 「ちょい、左」 気になったフォームを直すのに、つい、手を出してしまった時があった。幸雄の腰を軽く支えて、ちょっとだけ動かした。 カチッ キューが空振りする。 「急に、触るから」 チクっ と、静電気のように、何かが体の中心を走る。 矢島はそれを無視してフォームを直していった。 幸雄は飲み込みが早い。教えればすぐに伸びる。伸びる幅はテクニックの種類にもよるが、今は真っすぐを確実に突くことだから、単純な繰り返しを飽きずに続けられる幸雄は上達が早いのだ。 矢島はそんな幸雄を見るたび、自分の能力も可視化されて、さらに評価されているようで、一層指導に熱が入るのだった。 「先生の教え方がうまいからね」 そう、幸雄が言うのを、なんでもないふうに聞いているが、その実、矢島が一番喜んでいる。でもそれは、「教える」ということに限ってだと、信じていた。 だからいつものように、フォームを直していたのだけど。 横について右手で幸雄の肘をつまんで位置を固定する。つい入れ込んでしまう右の腰をもう一度開く。羅紗に左手をついて幸雄と目線の高さを合わせた。二人は並んで、半分重なっている。 「この位置が正解だから。このまま振れ」 ビタっ と、的球にあたった白い手球は止まり、その先でストンと八番がポケットに入った。 矢島は思わず左手でガッツポーズをした。 自分の教えた通りきっちりと仕事をした幸雄を、それを導いた自分を、ともに称賛した。 と、ハイタッチの後、幸雄が急に抱きついたので、矢島はびっくりした。 「いいじゃん、ご褒美だよ」 幸雄がケラケラと笑ってそういうから、なんとなく返事をしてごまかした。 だけど、今まで見ないようにしていた自分のドロリとした部分を、その時、はっきりと自覚してしまった。 幸雄のバイトがある日は店員として接しているので、あまり話す時間はない。 しかしバイトが終わるとすぐに幸雄は矢島のいる台へ来る。 こうして教えている限り、幸雄を自分の手の中で思い通りにできる。 自分には無縁だと思っていた「独占欲」が、少しずつ矢島の中心で大きく重く育っていった。 幸雄はすぐに上達し、真っすぐのロングショットが安定してきた。そろそろ次の段階へ進もうと考え、幸雄の成長を見ながら矢島は少しうかれていた。 その矢先。 「どうした?」 ある日幸雄が難しい顔をしてキューを握ったままカウンターにいた。 良く来る苦手な客とゲームをすることになり、かろうじて勝てたものの、スッキリとは終われなかったそうだ。 「まあ、勝てたんなら大したもんだ。そいつさ、捻ったりやたらバンクして、やりにくい客だよね。蘊蓄ばっかでめんどくさそうなやつだろ?よく頑張ったな、ユキ」 「うん」 幸雄は目を合わせずに言った。 帰り道、幸雄は急に泣きだしてしまった。 「なんだよ、泣くほど嬉しかったのか?」 「ちがう」 幸雄は苦しそうな顔をして、声を震わせた。 「手加減されたんだよ。たぶんわざと負けた、あいつ。なんかいつも触ってきて、キモくて、今日も、断れないのわかってて、僕を台に入れたんだ」 「何それ、マジ?おまえさ、なんか勘違いさせるようなことした?」 「してない、そんなこと!するわけ無いじゃん!」 幸雄は矢島を睨んだ。 そのときの声は、矢島が初めて聞く幸雄の怒りの声だった。 「そうか、そうだよね。ごめん」 「こっちこそ、ごめん、急に。怒鳴ってごめんなさい」 「ちゃんと店長に言えよ。あぶねぇよ。帰りもなるべく一人になるなよ」 「わかってる」 (男に触られたら、そりゃぁ嫌だよな…) あのとき幸雄が自分に抱きついたのは、やっぱり大した意味はないんだと、改めて認識した。そして、自分がその男と同類だと自覚した。 さらにそれを、幸雄に知られる事がたまらなく怖かった。 それから何日かして、少し遅い時間に店についた矢島は、入店後すぐ呼び止められた。 「今日、一人相手してもらっていいですか?」 矢島はときどきこうして一人客の相手を頼まれることがある。店に人がいればスタッフが対応するが、何人かの常連がその役をやることもある。 「いいですよ、どれ?」 「あれ」 店長はフロアを指さした。 そこには例の男が、台で球を組んでいた。 「矢島さん、本気でやっちゃって良いよ」 店長は男を睨むように見ながら矢島に言った。 多分店長はあの事を承知しているのだろう。 バイトの日だったが幸雄の姿はなかった。 矢島はハウスキューを取り、男と握手をした。 「お兄さんの、何度かやってるの見たことありますよ。高そうなキューですよねそれ。いやあ、久々に上手い人とやれて嬉しいなぁ。よろしくお願いしますね」 相手の男は「上手い人」という言葉に気を良くしたのか、店に来る理由を話し始め、幸雄の名前を出してきた。 「あの子のこと、教えてますよね。なんかさ、いい役だね。このゲーム勝ったら、その役さ俺に頂戴よ。俺が幸雄に教えるよ」 矢島は自分の中に青く静かに火がつくのを感じた。 「良いですよ。じゃあ、負けたらこの店、出禁にしますか。俺、負けたら、役も渡しますし、ここにも来ないんで、どうですか?」 男はペラペラと蘊蓄を並べながら、ありったけのテクニックを披露していく。矢島はニコニコとして、おだてながら相手にポケットを許していく。 1ゲーム目は男が取った。男の機嫌は上々だ。 「それ、キューさ、自分の使えば?なんか、俺が勝っても道具のせいとか言われそうじゃん」 ニヤニヤしながら男はすでに勝つ気でいるようだった。 矢島は冷めた表情で球を組んだ。その表情は一見、負け試合に意気消沈しているようでもあった。少なくとも男にはそう見えていたかもしれない。 しかし、2ゲーム目から、矢島が淡々と落としていく。ときどき男の番に渡っても、的球に当てるのがやっとの位置だ。 渡す、と言っても矢島は、シャチが獲物をなぶり殺すように、まるでオモチャみたいに転がしているだけだ。 それは端から見ていてもわかる程だった。 矢島は薄く鼻歌を歌いながら、男を2-1に追い込んだ。 いつの間にか幸雄がカウンターの中にいた。店長に言われて事務所に避難していたのだが、様子を見に来たようだ。 矢島はそれを見つけると、男に声をかけ、二人分の飲み物を取りに行った。 カウンターで、幸雄が心配そうに言った。 「矢島さん、なにしてるの?」 「鬼退治、ま、鬼ほど強くねぇけどな」 「一本取られてるけど」 「ああ、あれ?取らしてやったの、わざと。はじめにいい気持にさせてから、登った瞬間一気に叩き落とす方が面白いでしょ?俺、あいつマジで嫌いだわ」 そう言った矢島の目は、今まで見たことのない、暗い色をしていた。 「もう少し遊んでやろうかと思ってたけど、ムカつき過ぎて無理っぽい。ユキ、すぐ終わらせるから、そこで見てな」 幸雄の顔は血の気が引いたように見えたが、矢島はもう一人の自分を隠すことはできなかった。 それからあっという間に、本当にものの数分で、最後のゲームを片付けてしまった。 男はブツブツと言い訳しながら悔しそうにしていたが、店の隅で店長が少し声をかけると、慌てて頭を下げ、小さくなって帰っていった。 「矢島さん、変なやつ押し付けてごめんね。これが最善かなって思ってさ」 「いいよ、店長、俺、久しぶりに思いっきりやったよ」 矢島の目はまだ少し暗かった。 帰りは店長から頼まれて矢島が幸雄を送ることになった。 「あいつさ、ゲームに勝ったら俺の役よこせって言ったんだよ」 「役?」 「俺がユキに教えてるの知ってたよ。見られてたんだな、お前、ずっとあいつに」 「うん。誰も見てないときに、近寄ってきてた。触ったりとかも、言うほどじゃないくらいの感じで、だからあんまり言えないっていうか、困ってて」 「『いい役だよね、それ頂戴』って、『幸雄は俺が教える』って言ったんだよあいつ。だから腹立って。ただ勝つだけじゃ足りないなと思っちゃって」 「ありがとう矢島さん。まあ、ちょっと目とか、すごかったね、なんかいつもと違ってた」 「怖がらせてごめんね。俺はさ、俺は、あいつと同類だった。ムカついたんだよ死ぬほど。誰かがユキを、そういうふうに見てるってだけで、こんなんなるんだから、同類だろ?最悪だよ」 矢島は幸雄を見た。 喉の奥が詰まって、苦しかった。 「こんなこと。ごめんね。でもちょっと俺、最近なんか変なんだわ」 後を向きかすれた声でやっと絞り出した矢島の背中に、幸雄はピッタリとついて腕を回した。 「変じゃないよ、ぜんぜん変じゃない」 矢島に回した幸雄の手がぎゅっと強くなる。 「・・・なにしてんの?」 「矢島さん、どんだけ鈍感なの?」 「嘘でしょ?」 「マジで気付かなかったの?」 幸雄の今までの行動を思えば、簡単なことだったのに、矢島は今やっと気がついたのだ。 矢島は少し笑って向き直り、幸雄の肩ごと上半身をすっぽりと、自分の腕の中にしまった。 「ねえユキ、俺、明日会社行けない・・・」 「え?」 「手ぇくっついちゃった、どうしよう」 「は?ジジイ調子に乗んな、離せ」 「無理、取れない」 「ばか」 人気の無い平日午前0時の小さな交差点。点滅している信号よりテンポの早い二人の鼓動が、重なりあって響いている。 End
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加