不束者ですが

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今思い返しても頭を抱えたくなるのだが、俺と彼女の同棲の始まりは、一年前に俺が酒に酔って事に及んだという、土下座して謝まろうと(ゆる)されなくても仕方のない一夜に(さかのぼ)る。 だが、翌日大量の荷物と共にやってきて、「不束者ですがよろしくお願いします」と深々と頭を下げた彼女も、相当の天然だと思う。 実は、俺は密かに彼女に恋をしていたので願ったりだったのだが、そんな始まり方だったので、俺は彼女にプロポーズどころか好きだの愛してるだのの言葉も贈ったことはない。彼女の方も、にこにこと気立て良く、毎日朗らかに暮らしていて、特に不満があるようにも見えない。 …見えない、だけだ。ということくらい、俺も判っている。 彼女の笑顔が本当のものなのか。俺と共に暮らすのが、彼女にとって幸福なことなのか、俺は何も知らないままだ。 俺は、きっと怖れているのだ。いつか彼女が、あの始まりの日のようににこりと笑って「今までお世話になりました」とでも礼儀正しく言い出して、新しい生活を選ぶ時が来ることが。 俺の本当の心を、告げるべきだ。 だが、言いにくいものだと思った。怖じ気づいてもいたし、彼女と暮らす日々はあまりにも日常で、そこから一歩踏み出して、実は好きだ愛していると改まって告白するのは、今更気恥ずかしい。 臆病な俺は酒の勢いを借りたくなったが、それでは一年前の不誠実の二の舞だ。朝食の時間に彼女が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、さりげなく言ってみたのだった。 「…これからも、俺と暮らしてくれないか」 「はい、そのつもりです。急にどうしたのですか?」 「同じ生活を、お前は続けられるのか?お前は俺にとってただの同居人という同棲で、幸せだとでも言うのか?」 「はい。幸せです。私は貴方と暮らしたくてお引っ越ししてきたのですし、貴方は急に押しかけてきた私を追い出そうとはしなかったのですから」 天然でも急に押しかけた自覚はあったのか……初めて知った。 でも、追い出すなんて心にも無いことをするわけがない。一年ずっと幸せだったのは、俺の方なのだから。 俺は、幸せだと笑ってくれる、この花のような笑顔を愛した。これからも、そうであって欲しいと願う。だからこそ、本当のお前を知りたい。 「俺が、たったの一度もお前を好きだとは言った事がない、そんな同棲でもお前は何とも思わずに、一年幸せばかり感じていたのか?」 賭けだった。そんな科白(せりふ)を言うのは。 彼女が、俺を求めようとしない無邪気な笑顔で、迷いなく幸せだと言うのなら、俺の恋は破れ、俺はいとも簡単に傷付き、何事もなかったようにふたりで暮らすことなど出来なくなる。 そして… 俺は、賭けに、勝ったのかも知れなかった。お前が言葉に詰まり、綺麗な顔にそんなにも動揺の表情を浮かべるのなら。 黒い瞳が、俺を見つめていられずに、(つら)そうに逸らされたのなら。 もう、いつもの朝食の時間ではなくなった。日常は、こんなにも簡単に崩れ去る。俺の日常が、彼女が訪れただけで一気に(くつがえ)されたように。 「お前でも、そんな不安な顔をするのか。本当は、苦しい心を今まで隠していたのか?それでも、お前は幸せだと言うのか?」 「幸せ、です。私は、貴方の傍に置いて(もら)えたのですから。だって、私は、貴方を…」 「言うな」 俺は、(さえぎ)った。(さえぎ)られた彼女は茫然としたが、俺はすぐに続けた。 「先に言わせろ。お前が好きだ。愛している。だから、一生俺と暮らしてくれ」 俺は、初めて見た。彼女の潤んだ瞳から、ひとしずくの涙が伝うのを。 「…はい。私も、貴方が好きです。貴方を、愛しています」 そして、彼女は本当に幸福な笑顔で言ったのだった。 「不束者ですが、これからもよろしくお願いします」 end.
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