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4ヶ月前
小さく粗い樹の呼吸はきっと、いつかの海で水に落ちた時と同じ速さだ。樹は俺の中のいろいろな記憶を引きずり出して、その姿を完成させている。その手のひらが俺の表面に触れ、俺の手のひらに重なる。
樹が発するはずのない言葉があぶくのように浮かび上がる。答える前に、再び唇が重なる。
「目を閉じて」
何故だか樹はいつも俺にそう言う。きっと俺が、樹を直視したくないからだ。
相変わらず、俺は樹に触れることはできなかった。ただ、樹は俺に触れることはできた。そんな妙な、関係。
しばらくして、少しだけ冷静になる。そうして少し、罪悪感を感じる。
蜃気楼は俺の妄想だ。俺が見たいように現れる。この樹が本来の樹と離れて俺の前に存在しているのは、きっと本体の樹とは無関係だからだろう。前にこの樹が言ったとおり、樹が家にいるときに樹の姿で存在するのは、きっと蜃気楼というものが誰かを起点に発生するからで、俺の近くにいるのがたまたま樹だったから、というただそれだけの問題だ。
俺はそんなふうに折り合いをつけることにした。
他の同居人のときに現れなかったのは何故。その疑問については考えないようにした。俺は誰かと住んでいるときはたまにナンパして、それで上手くやっていた。今は樹とつきあってることにしたから、その手段がとれないってだけだ。それに、この蜃気楼の樹が現れ始めたのは、恋人のふりをするって話がでたからだ。
「そろそろ朝ご飯を作らないと」
再び唇が触れた。樹はそのまま体を俺に預ける。その感触がある。その背中に触れようと手を宙空に彷徨わせても、触れることはできない。ただ、わずかにその感触を感じるだけだ。
「幽霊みたいだ」
「くっきり見えるのにね」
くっきりみえるだけだ。蜃気楼とはもともと目の前には存在しないもの。だからそういうものだろう。
この奇妙な生活はそれなりに安定していた。きっとそれはこの蜃気楼の樹のおかげだと思う。この樹がいてくれるおかげで、今も生活に過不足がない。蜃気楼の樹は、ただ、そこにいるだけだった。いつもしていた恋愛みたいに、何かを求められたりもしない。本物の樹より少しだけよく話すけれど、本物の樹よりさらに話題がない。それはきっと、中身が何も無い蜃気楼だからだ。
ただ光が屈折してただけ。
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