1日目

1/4
12人が本棚に入れています
本棚に追加
/50ページ

 1日目

「先生?」  玄関を開けた時、家の中が暗かった。酷く嫌な予感がした。あの人は夜に出歩くことなんてほとんどない。  動揺しながらリビングのおおよそを占領したアトリエに飛び込み電気を点ければ、大きなバツが乱暴に刻まれたキャンバスが目に入る。益々胸騒ぎがしてスマホをコールすれば、すぐ近くのサイドテーブルから聞き慣れた着信音が聞こえた。スマホの隣の小さな書き置きが目に入る。 『気晴らしに海を見てくる』  そしてその後に淡々と続いた文字に動揺する。  海。  こんな時間にスマホを置いて?  家を出たのはどのくらい前だ。ここから海まで電車でおよそ30分程。樺島(かばしま)は免許を持っていない。この家の駐車場に置きっぱなしの車に飛び込み、一路海を目指す。  柔らかな振動が鼓動の速さと同期し、ますます不安が煽られた。手におかしな汗をかいている。ここのところ樺島の様子は特におかしかった。毎日のように描きかけの絵にバツが入れられていた。描けないと苛ついた声でつぶやく姿はいつもよりさらに不安定に感じた。  日は既にすっかり落ち、夜の闇に次々と現れては消え去る街灯の光の連続にスピードを出しすぎていることに気づく。頭は冷静になろうと努めても、気は焦るばかりだ。  樺島が自殺する。  樺島がいなくなる。そんな嫌な想像ばかりが湧き上がる。ずっと予兆はあった。車外の闇が一層冷たく感じられる。湾岸道路に差し入り、左手に昏い海が現れる。この道は神津(こうづ)湾の長い海岸線に沿って続いている。  樺島なら、どこにいるだろう。頭を必死に働かせた。  海。樺島が行きたいと行っていた海。 「また来ようよ」  記憶の中の樺島がそう言ったのは確か去年の夏だ。暑い夏だった。サーフィンに行こうと言われてついていった。あれからもう1年と少しが過ぎた。記憶を辿って駐車場に車を停め、砂浜をザリザリと踏みながら樺島の名を呼ぶ。その声は冷たい波が寄せる音に打ち消される。焦りをつのらせながら左右を見渡す。暗い。ひょっとしたら違う場所かと考えた矢先、波間に何かの影が目に入る。 「先生!?」  思わず叫んだ。慌ててスマホのライトを向ければ闇の中に淡く浮かぶシルエットは樺島のようで、大柄な体の腰丈まで海に浸かりながらぼんやりとその先に広がる黒い海を眺めていた。その姿は何故だか妙に綺麗で儚く、そのまま夜に飲まれて今にも消えてしまいそうな恐怖に襲われる。だからザブリと冷たい波間に足を差し入れるのに躊躇はなかった。
/50ページ

最初のコメントを投稿しよう!