100回目のエイプリルフール

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 気がついたら、空は真っ赤だった。今日という1日が、2024年のエイプリルフールが、伊東と過ごせる幸福な一日が、終わろうとしている。そして、伊東の顔をこんなに近くで見れる幸福な一日は、今後訪れることはないだろう。  そう思うと、微かな哀愁に心が押しつぶされそうな心地がするのはどうしてだろう。いや、その理由を、僕はもう知っている。 「三神、時間とか大丈夫?」  僕の想いを知ってか知らずか、伊東は無防備に僕を下から覗き込んでくる。 「別に僕は何時でも大丈夫だけど……」  もしかしたらまだ伊東と一緒にいれるかもしれない、という淡い期待が勝手に返事をした。まだ一緒にいたい、とは決して言えなかった。 「じゃあ、ちょっとだけ話さない? そこのベンチで」  伊東は予言をしなかった。先ほどまでは、僕の返事を待たずに予言という体で無理矢理、僕を引っ張っていったのに。 「ほら、今日ももう終わっちゃうし……」  また、愚かな期待が僕の中を一瞬かすめた。もしかしたら伊東も、僕と別れるのをほんの少しでも惜しいと思ってくれているのかもしれない、なんて。そんなはずないのに。 「うん」  僕はこの気持ちを悟らせないように、せめてもの抵抗で、曖昧に頷くだけに留めた。伊東は、僕の色眼鏡に反射して、ほっとしたような顔をしたように見えた。 「じゃあ三神、こっち」  伊東は僕の制服の裾をそっと引っ張って、ベンチに誘導した。それだけで胸の奥にずしっとしたきらめきが宿るのだから、伊東は本当に酷い奴だと思う。  伊東は僕の横にそっと腰掛けた。一人分の隙間。その隙間を埋めようと踏み出す勇気が、僕にはどうしてもない。  真っ赤だと思っていた空は、いつの間にか夜の匂いを纏い始めていた。夕暮れの空の色が移り変わるのは、あまりに早い。紫色の空の下で、しん、とあたりは静まっていた。  何分か無言の時間が過ぎた。  伊東は何度か口をまごつかせて、ようやく口を開いた。 「今日の三神のことはなんでもわかるの」  勿体ぶって言ったが、今日、何度も聞いた言葉だ。 「出た、予言」  僕が茶化しても、伊東は笑わなかった。 「だからね、だから……、三神は、私を好きなこと、知ってるよ?」  伊東は声を張って、自信満々に言った。  息に呑む。数秒。  僕がどうしても認めたくてなくて、気がつきたくなくて、何度も胸の奥の柔らかい部分に押し込んだことを、伊東はいとも簡単に言う。自信満々に、自分のことが好きなんだろう、なんて僕には絶対に言えないのに。やっぱり僕と伊東の世界は違いすぎるのだ。  悔しくて、素直に頷きたくはなかった。こんな告白の仕方はしたくなかった。でも、好きじゃないとはどうしても言えなくて、口を噤む。  僕が何も言えずにいると、伊東は再び口を開いた。 「三神、三神は……、三神は私のこと、好き、なんだもんね……?」  その声は震えていた。僕ははっとして伊東の顔をみた。伊東の顔を、正面から初めて見た。  伊東の目は伏せられて、長い睫毛が小刻みに震えていた。その奥に隠された瞳は不安定に揺らいでいて、小作りな唇は固く閉じられていた。  僕は初めて、伊東のことを僕と同じ人間だと思った。伊東も不安なんだって、初めて気がついたのだ。  どんなに可愛くたって、どんなに人気者だって、伊東はなにもかも思い通りになるだなんて本気で思っているわけはないし、ましてや今日という日を何度もやり直して、なんでも予言できるなんてことはない。何もかも不透明で本当は不安なのだ、伊東も僕と同じように。 「ごめん三神、変なこと言って。……帰るね」  伊東は勢いよく立ち上がって、身を翻した。  伊東が行ってしまう。会おうと思えば、また新学期に学校で会えるはずなのに、なぜか伊東をここで逃したら、もうおしまいなような気がした。始まった想いを終えるチャンスも二度とないような気がした。それじゃあ駄目だ、と身体全身が僕を奮い立たせる。  気がつけば僕の身体は動いていた。 「……伊東!」  衝動の赴くままに、伊東の身体を後ろから捕まえる。勢いのまま抱きしめた伊東の肩は、思っていたよりもずっと細くて、小刻みに震えていた。温かい滴がしたたって、僕の腕を濡らす。 「……三神?」  後ろから抱きしめた格好では、どうしても伊東の顔は見えなかった。もしかしたら、嫌悪にその猫みたいな瞳を歪ませているかもしれない。しかし僕には、その声は期待しているようにも聞こえた。それはきっと、僕の音色眼鏡のせいではないはずだ。 「僕は……伊東が好きだ」  伊東がはっと息を呑む声が、さっきよりも鮮明に聞こえた。1人分空いた距離が、やっと埋まった。埋められる勇気が、やっとでた。  言ってしまった。やっと、言えた。二つの思いが拮抗する。  一瞬の緊張。それを破るように、伊東はしゃくり上げだした。  伊東の猫みたいな瞳から溢れる涙が、先ほどよりも量を増していくのがわかる。僕は一瞬どきっとした。  もしかして、あまりにも僕が気持ち悪すぎて、伊東は恐怖のあまりに泣いているのでは? という後ろ向きな思考が脳を過ぎる。 「伊東、ごめっ」 「三神……っ!」  伊東から離れようとした腕が、無理やりその場に留められる。そのまま、その柔らかな手のひらが僕の腕にそっと触れた。 「私も……っ、ひっく、私も、三神が……っ、好き……!」  伊東は喉の奥の声を全て絞り出すようにして言った。  僕はしばらく、伊東の言葉の意味がわからなかった。伊東の言葉だけ、なんだかよくわからない外国語のように聞こえた。 「……え、あ、すき?」 「うん、……三神のことが好きなの」  そう言って笑った伊東の顔は、今日の中で、いや今までの中で、一番可愛かった。 「私たち両想いだね、付き合おう、ね?」  伊東は僕のことが好き。「好き」の意味が正しく体内に染み込んでいく。伊東は、僕のことが、好き。 「……うん」  頭の中がパンパンで、うん、としか言えなかった。  伊東と僕が付き合う? 夢じゃないかと思う。伊東の唇から歓びに満ちた微笑みが溢れだす。なんて可愛いんだろうか。  僕のことが好きな伊東、そう思うと今までよりもずっと魅力的に映る。  伊東がそっと僕の手を触れた。  それから先、僕の意識は曖昧だった。だけど、なんて素敵な夢なんだろうか、と思ったことだけは覚えている。  
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