100回目のエイプリルフール

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「で? あれはどういう意味?」  僕が学校に行くと、既に伊東の姿はあった。いつものポニーテールを、退屈そうに弄っていた。一番後ろの席を堂々と陣取る伊東に話しかけながら、僕は伊東の前の席に腰掛ける。 「やあやあ三神くん、随分と重役出勤じゃないの。それで、あれとは?」  わかっているだろうくせに、鼻を膨らませてしらばっくれる伊東に、僕は言い募る。 「だから朝のメッセージだよ、エイプリールフールがどうとかっていう。17回目のエイプリールフールならわかるけどさ、100回目って」 「ああ、あれのことか!」  伊東は大袈裟に目を丸くしてみせた。 「どうもなにも、そのまんまの意味だよ」 「はあ?」 「17回目なんて冗談じゃない。私は2024年の4月1日を、100回繰り返しているんだよ」  今度は僕が目を丸くする番だった。 「だから、私には今日の三神に何が起こるのか、すべて言い当てることができるのだよ」  伊東は仰々しくそう言って、得意げに胸を張ってみせた。 「……ええ……?」  あまりに突飛すぎる伊東の台詞に上手い反応を返せずにいると、伊東はその小作りな唇の口角を緩く歪ませて、やがて愉快そうにくつくつと笑い出した。  今日がなんの日かを思い出して、揶揄われた、と気づいた時には、既に委員長が号令をかけだしていた。しまった、やられた。伊東め。 「起立、礼、お願いします」  礼をして、座りながら振り向きざまに伊東を睨むと、伊東はノートを横向きにして、大きく書き込んだ文字列を僕に見せていた。  一瞬のことで、よく見えなかった僕が再び振り向くと、伊東はノートの一枚を丁寧に折りたたんで、僕によこした。  切れ端を開く。そこに書かれた文章を見て、僕はぴんときてしまった。 『これから三神は、委員長を驚かせるよ』  伊東はおそらく、エイプリルフールにかこつけて、僕を揶揄い続ける魂胆なのだろう。  後ろに振り返って伊東を睨むと、未だに愉快そうにしていて、悔しいことに可愛いな、と思ってしまった。  そう、可愛いのだ、伊東は。  つるんとした色白の丸顔に、小作りな唇とすらりとした鼻が乗り、吊り目がちな猫目が愛らしさを醸し出すのに一役買っている。真っ直ぐで艶のある黒髪は、後ろで一括りしていて、左右にさらさらと揺れるのに目を奪われてしまう。  多分、うちのクラスの女子の中でも、相当可愛い部類に入ると思う。  だから当然、伊東は男子からモテるし、本来ならば僕みたいな、いわゆるインキャには全くお近づきになんてなれないはずの存在なのだ。  現に、去年の秋、同じ委員会に入るまでは、僕は伊藤と話したことなんて一度もなかった。ましてや、委員会活動の間だけであったとしても、気楽に話せるようになれたのはつい最近だ。  それだけでも僕は、つまらない学校生活が、なんとなくきらきらと瞬きだしたように感じたのだ。  猫のように気まぐれな伊東のことだ。僕に対して特別な気持ちなんて一欠片もないことはもちろんわかっている。僕の方も、別に伊東のことが特別に好きなわけではない。そう思っておかないとならない。  だけどやはり、可愛くて人気者の女子と話すことができるのは嬉しいのだ。  とは言っても、断っておくが、僕と伊東が特別親しいなんてことは全くない。三軍男子の中では快挙、というだけの話だ。  誰とでも仲良くなれる伊東だ。僕よりも親しい男子なんて、いくらでもいる。だから、僕は勘違いでいい気になったりしない。伊東ともっと親密な関係になりたいだなんて烏滸がましいことを、思ったりもしない。もちろん、伊東のことを特別に好きになったりもしないのだ。  週一回、たまに行事前の休日、ほんの少しの時間だけ、伊東と親密な間柄のような気分になれる、それだけで僕は幸運な学校生活を送れていると言える。  だから正直、エイプリルフールにかこつけて伊東に揶揄われることも、満更でもないのだ。それどころか、役得とまで言える。  伊東はこれから、どんな悪戯をしかけてくるだろうか。後ろから突然脅かしてくる、とかそんな感じだろうか。いや、流石にそれは安易すぎるだろうか。  そんなことを考えると、なんとなく心が浮き立つのを感じる。僕はなんて容易い男なんだろうか、とも思う。  すると不意に、こつりと何かがぶつかったような違和感を踵から感じた。  消しゴム、と呟く声が後ろから微かに耳に届く。どうやら僕の踵の違和感の正体は、転がった伊東の消しゴムだったらしい。  僕は自身の踵の裏にある伊東の消しゴムを拾ってやろうとした。それは反射のように身体が動いたからで、それゆえに伊東の行動を気にするという発想はなかった。だからだ、と言い訳させて欲しい。  あ、と口に出そうになったのを、すんでのところで堪えた。  ふと顔を上げると、伊東が近かった。伊東の目は近くでよく見ると淡く茶色がかっていて、本当の猫の目みたいだな、と場違いにも思った。  僕は座ったまま体を後ろに曲げて、伸ばした手は伊東の落とした消しゴムに触れようとしていた。伊東はしゃがみ込んでいて、やっぱりそのしなやかな腕は消しゴムへと伸びていた。お互いが消しゴムを拾おうとしてかち合ってしまったのだな、と遅ればせながらも気づく。  伊東の吐息が近かった。伊東の猫みたいな目が緩やかに弧を描き出す様子が、スローモーションみたいに思えた。僕は、伊東に見惚れていた。  自分の喉が、意図せずに上下するのを他人事のように感じた。  伊東は消しゴムに伸ばしかけた腕にゆっくりとこちらに伸ばして……、  不意に、頬がふに、としか感触を得た。僕はそれが、まるで自分の身体の一部とは思えなかった。伊東の人差し指が触れているのが、僕の身体の一部とは、到底。 「三神、かわいい」  悪戯っぽく笑って、そう呟く伊東の囁き声を耳が受け取る。全身の血液が一気に身体中を駆け巡るのを感じた。びりびりとした感覚。  がたん  気がついたら、僕は直立していた。委員長の驚いたように僕を見る顔をみて、我に帰る。伊東の言った通りに、なってしまった。 「ご、ごめんなさいっ」  縮こまって座りながら、そろりと後ろの伊東を盗み見ると、伊東は先ほどよりももっと愉快そうに目を細めていた。  やられた、と思った。伊東にとってあれは、少し度を越したただの悪戯だったのだ。  だがしかし、伊東に悪気はないだろうが、僕にとっては困ったことになりそうだ。  伊東のことだ。エイプリルフールという日にかこつけて、この後も悪戯をしかけてくることは想像に難くない。  そうなるとまずいぞ、と密かに思う。僕のなんとか保ってきた感情の防波堤が壊れることがあれば、それは大変なことだ。  なんとか、今日という1日、僕の防波堤を守り続けるしかないぞ、と思った。どういうわけか、伊東に悪戯はやめてくれ、と言う気にはとんとなれなかった。
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