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 新居に入る時って、どんな挨拶が良いんだろう。ドアノブに手を掛けながら、暫くボンヤリと考えていたが、特に何も思い浮かばなかった。  無難に「お邪魔します」の方が良いかな……いやでも、「ただいま」って言った方が新しい家に帰って来た感があって……あ、待って、そもそも「ただいま」って、住んでから言う言葉なんじゃない?   じゃあ、これか。 「お邪魔します」  言葉に出してみて、何だか他人行儀みたいで距離を感じた。玄関に踏み入れたら、それはもっと強くなった。  廊下には、未開封の段ボール箱と家具を覆うブルーシートが視界いっぱいに埋め尽くされていたのだ。  んー、ここから初期費用が入った茶封筒を見つけるのは、骨が折れるなぁ……まあ、何とかなるよね。焦っていても仕方ないから、のんびり行こう。  僕は靴を脱いで、部屋へと上がった。床は靴下を履いているというのに、ひんやりと外気が素足を貫通してきた。チクチクと痛みを卑しく攻めるような寒さではなく、包まれるような優しさに触れたみたいで心地が良い。  僕は、さっそく玄関に入ってすぐに置いてある、段ボールに手をかけた。もしかしたら、ここに入っているかもしれない。しっかりと箱を閉じているガムテープを、こじ開けた。無理矢理取った後、段ボールの裏地が剝き出しになっていった。  ……うーん、ないなぁ。別のところなのかな。  物が雑多に詰められた段ボールを無造作に漁ったけれど、茶封筒は見つからない。こうなったら仕方ない。すぐ隣にある段ボールに手を伸ばして、開けてみるけれどもやはりない。その隣も、そのまた隣も……と手を伸ばしていくうちに、部屋にある段ボール全てが万歳のポーズをしていた。  見つからなかったなあ、どこに行っちゃったんだろ……。  行き詰まってしまった僕は、形だけ首を傾げる事しかできなかった。 「ミャア」  そう、本当にミャアな状態……ん?   足元から、猫の鳴き声がした。高めなか細い声だから、子猫っぽい……?  そう思って足元に視線を落とすと、やっぱり子猫だった。毛並みはところどころ絡まっているようで、身体の至る所に毛玉がこさえられている。元の色が分からないぐらい泥や煤で汚れており、全体的に埃くさかった。  野良……かなぁ。凄くやせ細っているし、何処となく目に光が宿ってない。僕の地元にも野良猫がいることは日常茶飯事だったけど、ここまで、その、痛々しい様子の野良猫は見たことなかった。  ん? でも、猫はどこから入って来たのかな? 辺りをきょろきょろと見渡すと、ふとそよ風が僕の髪を一撫でした。風が来た方向に目をやると、カーテンがふんわりと穏やかに舞い上がっていく様子が目に入った。  あ、そうだ。引っ越し業者さんが汗びっしょり流すから、暑いのかなって思って、窓を開けたんだ。それで野良猫が入ってきちゃって……。  窓の側に大きな木もそびえたっているから、それを伝って窓の中に入るのも野良猫なら容易いことだろうし。 「ミャア、ミャア」  ぼんやりと考えていると、僕の足に頭を摺り寄せてきた。人懐こいんだね、可愛いなあ。  野良猫がついている毛玉が揺れる度、暖かく、ほわほわとした気持ちに包まれる。愛おしいという感情で全て包み込んで、抱きしめてあげたい。  そう思って手を伸ばすと、野良猫はさっと飛び退いた。伸ばした手は空を掴み、その拍子にバランスを崩して床と顔が近づいていく。 「わっ、あぶな……!」 言い切る前に、床と顔がぶつかって火花が散った。鈍い痛みが一拍遅れてじわじわと広がり、顔だけ床と離した。未だ、身体は床についているけれど、起き上がれる気力は今のところない。  痛みに唸りながら、野良猫が何処に行ったか目で探ってみると、手を伸ばせばすぐ届く距離にある段ボールの側に、ちょこんと座っていた。 「ミィミィ」 と、可愛らしい鳴き声を上げながら、ダンボールの角を爪で引っ掻いている。  あ、ダンボール傷ついちゃう。ダメ……。 「ん?」 野良猫を注意しようとした言葉を押し除けて、怪訝な声が喉から出てきた。  野良猫が引っ掻いているダンボールに、何かある……よくよく目をこらすと、今まで探していた茶封筒が下敷きになっていた。  手を必死で伸ばすと、野良猫は少し退いて満足そうに笑った……ような気がした。だけど、僕は野良猫の対応より先に、その茶封筒を倒れたまま段ボールの下から引っ張り出し、中を見る。  皺くちゃのお札が、何枚か出てきた。ちょうど、残りの初期費用と一緒の額だ。 「わぁい、見つかった」  俺の頬が緩むとほぼ同時に、「ミャオン」と、満足そうな猫の鳴き声が聞こえた……気がした。 あくまでも、気がしたんだ。  野良猫の姿は、いつの間にかいなくなっていたから。
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