ありがとうね。

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野良猫が茶封筒を見つけてくれたあの日から、数週間経った。僕はあの時のお礼を、野良猫に言えずに、少し悶々としていた。  あの時から、野良猫に会わないもんなぁ……あ、ちょっと語弊があるかもしれない。確かにあの時の野良猫は会えてないけれども……。 「おい、やすだー。もう授業終わったぞ〜」 友人の間延びした声で、僕は我に返った。授業という緊迫の糸が一気に緩んだせいか、ざわざわと生徒達の話し声が耳元をさらう。 「あ、ごめんね。ボーっとしてた」 「またかよ、お前。入学式の時からずっとぼんやりしてるな」 「うん、そうみたい。普段なら、一日に一回ぐらいなんだけど、ここのところ頻繁で」 「重症じゃん。なんかあったの?」 「えっと、僕の部屋が……」 「ん? ああ、あそこだよな。意外と俺の家の近くにあったとこに住んでんだよな、お前」  それが、どうしたんだ? と、愉快そうに言葉を弾ませながら尋ねてくる彼に、いや、別に話す事の程じゃ……と、ちょっと渋ってしまった。   本当に話すような事ほど重要なことじゃないと思うし、簡潔に話して伝えるという能力が低い方だからというのもある。事情を一度話し始めると、内容が中弛みしてしまってイヤに冗長的な話し方になってしまうのだ。  そんな風に言ったら、いつもと変わらないだろ、とバッサリ切られた挙句、 「また入学式の時みたいに、ボーっとしたお前が激突してきて仲良く転倒、みたいな事したくない」 だから話せ、と半ば強引に言われ、渋々話し始めた。    あの日から、僕は窓を開けっぱなしにしていた。あの時の野良猫に、お礼を言いたい一心で。猫相手に何を、と思うかもしれないが、感謝の念は猫でも人でも忘れたくない。  僕が部屋にいる内は窓を開けて、あの時の野良猫が来るのを待っていた。しかし、待てど暮らせど、来ることはなかった。部屋が見えやすいようにカーテンを端に寄せても、子猫用のミルクを窓際に置いても、毛玉の一つも姿を現さない。  それならば、と休みの日に外に出て野良猫を探した。僕の引っ越した先の地域では、野良猫が頻繁にいる、と大家さんに聞いた。だから、もしかしたらあの時の野良猫に会えるのではないかと考え、住宅街へと頻繁に赴いた。  けれど、見つからなかった……しらみ潰しに探すって、すごい効率が悪いんだなぁ。  僕は小さい頃から動物に好かれる気性らしいから、野良猫自体はすぐに見つかったけれど、猫違いばかりだ。  半ばあきらめかけていたある日、野良猫が僕の部屋に来た……違う野良猫だったけれど。多分、窓の中に入ってきたのだろう。黒く、しなやかな猫だった。一見野良猫に見えそうになかったが、病的に痩せ細り、足を引きずっていた。  黒猫は牙を見せ、毛を逆立てていた。喉奥から警戒の音を発し、僕と距離を取っていた。最初はどうしたらいいか戸惑ったけれど、痩せ細った姿があまりにも痛々しくて、何かしたい気持ちに駆られた。足の方は外傷ではなさそうだったし、素人が無理に手当して逆に悪化させてしまったら怖かったから敢えて手を触れられなかったけれど……。  棚から猫用の缶詰を餌皿に入れ、黒猫の前に差し出した。どちらもあの時の野良猫用に多数買って置いたものだ。  最初は黒猫が無事に食べられるか見守っていたが、威嚇の態勢が緩まなかった。もしや、僕が居ない方が良いのでは……? 考えに考えた結果、僕は押し入れに身を隠した。二段構造となっており、僕用の布団が上に積まれ、下は空だったから、隠れる事は容易だった。  押し入れに隠れて襖を細く開け、黒猫の様子をじっと見た。威嚇の姿勢は鳴りを潜めたものの、警戒心は剥き出しなようで、指の第一関節ぐらい毛を逆立てている。黒猫はそのまま部屋をうろうろと巡回し始めた。  僕は押し入れに息を潜めて、細く開けた襖からじっと様子を見ていた。  人がいたら、食べづらいよね。僕は君が餌を完食するまでここにいるから、大丈夫だよ。思いっきり食べなね。  そういった念を込めて、僕は黒猫を見つめ続けた。  それが届いたのか定かではないけれど、黒猫はこちらを見てフンと鼻で息を吐き、餌の方へのらりくらりと向かっていった。そして、餌皿に近づいて匂いを嗅いだ後……食べ始めた。  やったぁ! 食べたぁ!  思わず声をあげそうになり、両手で口を押さえた。黒猫はこちらをチラチラと見ながらも、餌を食べ続ける。たんと食べておくれ、とおばあちゃんが孫に語りかけるような形で、黒猫の食べる姿を見守った。  どれぐらい経っただろう。ピチャピチャと皿の底を舐める音が響き渡り始めた頃ぐらいだった。  もう一匹、猫が来た……部屋の中から。  中から? いや、確かに窓から来たわけではなかった。だって、黒猫が入ってきた時は確実に窓だったんだけど、それは今出てきた方と反対側にあるはずだから。  どういうこと……?   有り得ない事象に、頭の中が大きく揺れた。また一匹、一匹と、猫が増えていく。滑らかで、溶けそうな鳴き声を発しながら。僕はそれに充てられたように、視界がゆっくりと霞んでいった。  待って、猫ちゃんたち……。多分、一個の缶詰じゃ、足りないよ……。  気づいたら、僕は押し入れの中で猫みたいに丸まって寝ていた。あまりにも暗くて驚き、頭や体を強かに打ち付けながら、押し入れから何とか出た。  部屋には、もう猫たちはいなかった。残ったのは空になった餌皿と、夕焼け空に染まった窓から入り込んできた風が、カーテンを柔く巻き上げていた。
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