ありがとうね。

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「ありがとうございました……!」 ガタイの良い引っ越し業者二人が、帽子を取って勢いよくお辞儀をする。驚いてこちらもお辞儀をしようとゆっくり頭を下げたが、ほぼ同時に引っ越し業者さんの頭が上がった。稀に見るすれ違いを発揮し、呆気に取られた。  お辞儀するの、早いなぁ。そんな事を呑気に思っていると、引っ越し業者さんはトラックに乗り込んで去っていった。トラックの走る音はすぐに鳴り止み、生活音がない静寂な住宅街に戻った。 ……あ、引っ越し業者さんに飲み物とか買ってきた方がよかったかな……。むしろ、手伝った方が良かったのだろうか。なんか、大変そうだったし。いや、僕みたいなぼんやりしている存在は、何もしない方が良いだろう。 「安田くん、もう引っ越しは終わったのかい?」  背後から声をかけられたので、振り向くと腰を曲げた大家さんが、朗らかな笑顔で立っていた。 「あ、大家さん。今さっき、業者さんが帰ったところです。まだ、荷解きは残ってますが」 「そうかい、そうかい」  ゆっくりと頷きながら、笑顔を絶やさない大家さんに、何だか癒される。 「若い子がうちのアパートに暮らしてくれるなんて、嬉しいわぁ」 「こちらこそです。ご厄介になります」 「あら、しっかりしてる子だねぇ。大丈夫よ、私含めて二、三人……といっても、お仕事が忙しいみたいで、いるかいないか分からないぐらい家を空けることが多いから寂しくてねぇ。むしろ、ちょっとの厄介なら大歓迎よ」 大家さんはお茶目に笑うと、後ろを振り返り、小さな頭を精一杯伸ばして見上げた。僕もつられてそちらを見ると、所々赤錆びた二階建てのアパートが目に入った。僕が今日から新しく住むところだ。  確か、二階の奥側の部屋だったような気がする。一階が三部屋、二階が三部屋と確かに部屋数は少ないし、老朽化が進んでいるアパートだけれど、その分家賃は安いのだ。この春から大学生になる身としては、有難い。特に、僕の部屋だけは安くて……。 「あ、そうそう。安田くん、多分不動産屋さんに言われたと思うんだけど……」 「はい? 何ですか?」 あれ、不動産屋さんに、何か言われたっけ? 記憶がないなぁ。物腰柔らかに、駅近かつその他諸々の条件を満たした部屋を的確に教えて下さったぐらいしか、覚えがない。  何だったかなぁ、と思考の引き出しを何個も開けるが、特に何にも見つからない。 「――すだくん、安田くんやい」  ぼんやりと考えていると大家さんが声をかけてきた。 「あ、はいはい」 「今日、町内会の集まりがあったのすっかり忘れててね。ちょっと今から出かけてくるから」  あれ、不動産屋さんの話はいいのかな? 突然切り替わった話題に僕は首を傾げたけど、大家さんは支度があるから、と一階の奥の部屋へ歩いて行った。あそこが、大家さんの部屋なんだなぁ。階段側ではないから、二階に上がる時、歩く距離がなくて苦労しそうだ。  僕の部屋は、階段を上がって一番奥……大家さんの部屋の真上だ。家賃を振り込むときは、直接大家さんのところに行った方が良さそう……あ。  ふと、僕はかなり大事なことを思い出した。  残りの初期費用、払わないと。  大学を出たら一人暮らしするための資金を蓄えておいたんだけど、大学の入学費用込みで計算してなかったから、一括払いだと足りなかったんだ……。今までは、初期費用分割して、不動産屋さんが大家さんを通して渡してくれていたけど、あとちょっと初期費用は残っている。  あとは入居日に直接渡して下さい、と不動産屋さんに低い声で電話越しに釘を刺されたことを思い出した。 早めに渡しとこうっと。分割を快く請け負ってくれた優しい大家さんでも、さすがに渡し忘れたらまずいしね。  僕は、足をゆっくりと新居へと動かした。
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