三分の一の嘘

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①美咲さんは僕のことが好き ②今度の日曜日の正午に、美咲さんが駅前で待っていてくれる ③①または②が嘘  ①から③のうちどれか一つが嘘だと、美咲さんは最後に付け加えた。4月1日、エイプリルフールでのことだった。 「その『①から③のどれかが嘘』ってのが嘘じゃないの?」  僕は平静を装いつつ、そう指摘した。 「そんな訳ないでしょ。そんなずるいこと考えつくの、清志君くらいだよ」  自分では嘘をついておきながら、よく人のことをとやかく言えるものだ。僕が文句をつけようとすると、彼女は急に真面目な顔をして首をこくんと傾げた。何か思いついたらしい。  美咲さんには考えごとをする時、首を左右に振る癖がある。まるでリスや兎のような仕草だが、小柄な彼女にはよく似合っていて悔しいくらいに可愛い。  やがて考えがまとまったのか、美咲さんはこちらに目を向けて先生みたいな調子で言った。 「『①から③のどれか一つが嘘』が嘘だとしたら、どうなる?」 「どうなるって、『①から③まで全部本当』じゃないの?」 「それだったら①か②の内容が③と矛盾するでしょう。だけど他にも、『①と②だけが嘘』とかが残るよね?」 「ちょっと待って」  理系の美咲さんと違ってこっちは文系の人間だ。「残るよね?」と言われても、まずそれ以前の段階でつまずいているのだから返答に困る。  頭を抱える僕に、美咲さんは呆れたようにため息をついた。 「まあ清志君なら仕方ないか。じゃあとりあえず『全部本当』の場合から見ていこう。③はどんな内容だった?」 「『①または②が嘘』」 「そう。じゃあもし全部本当だったとしたら、まず①と②は当然本当だよね。なのに③ではそれを嘘だって言ってることになるね?」 「なるほど」  さすがに今回は理解できた。だが僕はあえて彼女の真似をして首を傾げながら、「それで①はどんな内容だったっけ?」ととぼけてみせた。すると美咲さんは急に声を荒らげ、僕を「馬鹿」と𠮟りつけた。 「そのくらい覚えてろ」  さすがに目の前で二度も「好き」と口にするのは恥ずかしいらしい。美咲さんは「明日までに思い出しなさい」と言い放ち、教室から出て行ってしまった。僕は夕陽の射す教室の真ん中に一人、ぽつんと残された。    実のところ僕は①も②もしっかり覚えている。「ずるい」と言ってきたお返しに、もう一度「好き」と言わせてやろうと思っただけだ。  とはいえ正直なところ、本人の口からもう一度聞きたいという気持ちもあった。  明日また忘れたふりをしてやろうか。あんまりからかうとまた怒り出すから、適当なところで真面目な顔をして思い出してみせるのも楽しいだろう。  そんなことを考えていると、頬が自然に緩んだ。エイプリルフールだと前置しながらも「君のことが好き」だと語る美咲さんのしおらしい眼差しを思い出すだけで、胸が一杯になる。  美咲さんと初めて会ったのは確か小学三年生の時だった。当時はもっと大人しくて、あまり喋らない子だったように思う。「男子から身長の低さをからかわれる」と相談を受けることも多かった。  けれど中学、高校へと進学するうちにだんだん立場が変わっていき、高3になった今ではむしろ僕の方が彼女にからかわれるようになった。  一番の転機になったのは美咲さんが中学校で生徒会に入ったことだろう。上級生や先生たちと向き合って意見を出していく中で、彼女は次第に大きな声ではきはき喋るようになっていった。僕にはそれが頼もしくもあり、寂しくもあった。    ただどちらにしても、彼女と当たり前のように話ができるのはたぶん今年が最後だ。僕は進学先を県外の専門学校に、彼女は県内の大学に決めている。お互い順調にいけば、来年からほとんど会えなくなるだろう。  もちろん彼女もそのことを分かっている。はっきり言葉にしなくても、ちょっとした言い回しや視線から寂しさや別れの予兆を感じることがある。  せめてこの一年はからかい、からかわれ、笑い合いながら悔いなく過ごしたい。エイプリルフールに乗じて美咲さんがおかしな嘘をついてきたのも、同じ思いの表れだと僕は思っている。   「結局昨日のってどう考えればいいの?」  翌日の放課後、僕は美咲さんにしつこく解説を求めた。 「君は数学をもう一回最初からやり直した方がいいね」  彼女はしょうがないといった様子でペンを手に取り、ルーズリーフに数学の用語を書き始めた。「ド・モルガンの法則」だの「ベン図」だのと、だいぶ前に習った語句がどんどん並べられていく。どうやら本気で基礎の復習をしていくつもりらしい。  それならそれでせっかくの機会だと、僕は彼女の向かいに座って解説を真面目に聞いた。どのみち共通テストまでにはちゃんと学び直さないといけない内容だ。美咲さんは説明が上手だし、たまに質問や雑談を交えてくれるから集中もあまり途切れない。  それにしても、あの内気な子がずいぶん堂々とした字を書くようになったものだ。迷いのない筆致もまっすぐに引かれた線も、彼女の自信をそのまま映し出しているかのようだ。いつも周りの様子を窺ってばかりいた子がここまで変われるんだな、と見ている僕の方が誇らしくなってくる。 「だいたい今必要なのはこんなところかな」  一通り説明し終えたらしく、美咲さんはシャーペンの先を机に押しつけた。気づけばもう窓の外が暗くなっている。教室には僕らの他に誰も残っていない。  彼女は「質問とかない?」とこちらにシャーペンの頭を向けた。 「うん。特にない」 「じゃあ復習。昨日の③ね。『①または②が嘘』の否定は?」 「①も②も嘘じゃない。つまりどっちも本当」 「よくできました」  大袈裟に拍手して、彼女は「やればできるじゃん」と僕を褒めてくれた。この「①も②も本当」が正解だったならどんなに嬉しいだろう。 「じゃあ昨日の続きね。まずは①がどんな命題だったか、言ってみなさい」  彼女は子供を諭すような口調で、しれっと僕に命じた。その小憎らしさは上目遣いと相まって、挑発的な響きを含んでいた。僕は僕でとぼけるように天井を見上げつつ、こう返した。 「『美咲さんは僕が好き』、だったかな?」 「じゃあ②は?」 「『今度の日曜日の正午に、美咲さんが駅前で待っててくれる』」  僕らは間を置かず、流れ作業のように話を進めていった。一度も視線をかわすことなく、淡々と折り重ねられていく質問と答え。その息苦しいまでのもどかしさに、だんだん体が火照ってくる。 「じゃあもう一回聞くけど、もし①から③まで全部本当だったとしたらどう矛盾するか説明できる?」 「さあ」 「『さあ』じゃないんだよ」  シャーペンの先でコツコツと机を叩き、彼女は吐き出すように言った。あっちはあっちでだいぶ茹(う)だっているようだ。 「昨日も言ったけど。全部本当だったら①も②も『真』なのに、③では『偽』ってことになるでしょう。こういうのを何と言いますか?」 「『嘘』?」 「『矛盾』だ馬鹿。あんたはもう小学生からやり直しなさい」  まださっきの問答を引きずっている僕を怒鳴りつけ、美咲さんはシャーペンを筆箱に収めてしまった。顔が真っ赤なのは怒っているからか、それとも僕と同じ気持ちだからだろうか。 「一つだけ教えて。『①から③のどれか一つが嘘』っていうのは間違いないんだよね?」  僕は念のため、彼女が「嘘」に付け足した条件について尋ねた。頭がうまく回らないが、それだけは確かめておきたい。 「だから最初からそう言ってるでしょうが」  きっぱり言い放ち、美咲さんはバッグを持って立ち上がった。そうしてドアの傍にまで行き、こちらを振り返って「またね」と手を振った。 「またね」  僕も同じように返し、笑顔で手を振った。靴音が教室からどんどん遠のいていく。  また怒らせてしまった。もう少し話していたかったのに。    結局今日も肝心の「①から③のうちどれが嘘か」については少しも聞けなかった。もっとも美咲さんのことだから、聞いても教えてくれないだろう。とはいえ僕の中ではもう答えは決まっている。  もしも①が嘘だったなら、②と③が本当ということになる。つまり僕のことは好きでないが、駅には来てくれるということだ。実のところ、これが一番つらい。  しかも③には①と②の片方だけが嘘の場合も含まれるから、「①だけが嘘だ」とすれば辻褄が合ってしまう。②が嘘だった場合も同じことだ。  やはり③が嘘であってほしいのだが、「ではどうして③か」と聞かれたら説明に困る。①から③のどれを嘘にしても、理屈としては矛盾しないように思えるからだ。  結局のところ何が正解かではなく、僕がどうするかということだろう。だとしたらもうとっくに決まっている。きっと美咲さんがどうするのかも。    日曜日の街は賑わっていた。天気もよく、空が日の光をまっすぐ注いでくるようだった。見慣れた建物の色がいつもより鮮やかに見える。石畳に映えた光が眩しい。  駅は人で溢れていた。この町を離れ、また帰ってくるための場所。美咲さんはその正面に立っていた。  彼女は一度こちらを向いたが、僕と目が合うとすぐに視線を逸らした。恥じらう横顔に、柔らかい笑みがふわっと浮かんだ。  僕はぐんぐん彼女に近づいていった。美咲さんはその場にじっと立っていた。雑踏の真ん中で僕らは向き合った。 「意外と時間通りに来るよね」  強がるように僕を見上げ、美咲さんが言った。前から考えている台詞を読み上げているのが丸分かりで、僕はまた意地悪をしたくなった。 「美咲さんは何時間前に来たの?」とでも聞けば、きっと怒り出すだろう。怒鳴ってあれこれと反撃してきて、そうしてにっこり笑ってくれるだろう。きっといつも通りの自然な笑顔を見せてくれるに違いない。  だけど今はこの緊張感にもっと浸っていたい。声を上擦らせてぎこちなく笑う美咲さんと、強張りを共有していたい。僕は「まあね」と素直に頷いた。 「もうちょっと早く来てもいいと思うけどね。暑いし」  彼女は小憎らしいことを言って、さっと目を伏せた。 「で、どれが嘘だかちゃんと言える?」 「たぶん」 「たぶん?」 「どれが嘘でもおかしくはないかなと思って」  弱気なことを言う僕に、彼女は落胆したような眼差しを向けた。僕は弁解するように「だから」と彼女の目を見つめた。 「どれを嘘にするかは自分で選んだ」  今度ははっきり言い切った。美咲さんは顔を伏せつつも口角を上げ、「そっか」と返した。雲を晴らすような弾んだ声が心地良い。 「大正解。どれが嘘でも矛盾はしないんだよ」 「何だよその問題は。そんなずるいこと、よく考えつくね」  僕がこの前の仕返しとばかりに言うと、彼女はぐっと顔を上げてこちらの目を覗きこんできた。僕は息を呑んだ。 「ありがとう。来てくれてほんとに嬉しいよ」   光溢れる街に、美咲さんの笑顔がひときわ明るく輝いた。煌めく瞳は僕の胸の内まで映しているようだった。    それから僕らは歩き出した。互いに一言も声をかけなかったが、それでも足取りや方角は揃っていた。  駅から離れるほど人通りが疎らになり、喧噪も遠のいていった。かすかに触れた美咲さんの手を、僕はぐっと握った。彼女も握り返してくれた。  温かい。美咲さんの脈動を手の中に感じる。些細な身のこなしに、弾んだ声の余韻が響いている。今はこの喜びをただ噛み締めていたい。  やっぱりこの選択は正しかった。僕が横を向くと美咲さんが満面の笑みを返してくれる、この今だけが。  ふと、「エイプリルフールの嘘は当日まで」というルールがあったのを思い出した。もう4月1日はとっくに過ぎている。どれが嘘だったのか、今なら正解を聞いてもいいはずだ。  だけどその必要はない。美咲さんはわざわざ時間をかけて「①または②が嘘」の否定が何なのかを僕に分からせてくれた。彼女のとった行動が、僕の選択をそのまま肯定している。  バトンの受け渡しのような阿吽の呼吸、それは繋いだ手の揺らぎからも感じられる。脈動の重なりからも。それが嬉しい。  どこまで歩いていくか、いつ休むか。いつまた一緒に歩き出すか。全部同じように、僕らは二人で決めていくだろう。無言のまま、言葉のない約束を交わしながら。 「実は今日家に誰もいなくてね」  やがて美咲さんが甘えるような声で言った。細めた目には悪戯っぽい光をたたえている。 「そうなんだ」  僕はわざと素っ気なく応じることにした。 「寂しいなあ」 「電話しようか?」  ぬらりくらりと、彼女の誘惑をかわしていく。「家に誰もいない」なんて十中八九嘘だ。「薄情者」と詰る言葉も、そのふてくされたような表情も。そして彼女自身、僕が嘘を見抜いていることを知っている。  お互いに嘘だと分かった上でとぼけ合い、見え透いた嘘を共有する。これだって言葉のない約束だ。彼女が押せば僕は引く。引いて受け止め、押し返す。 「じゃあ今日泊まりに行こうかな」  僕はぼそっと呟くように言った。彼女はすかさず「嘘だよ」とこちらを睨みつけた。 「僕のも嘘」  しれっと返す僕の肩を、彼女は猛烈に叩いた。やっと調子が戻ってきたようだ。 「エイプリルフールの仕返しだよ」  僕の言葉に、彼女は声を荒らげて「遅すぎるでしょ」と文句をつけた。 「来年まで待ちなさいよ」  そう口にした途端、美咲さんはまた黙り込んでしまった。さっきまでとは違い、もう明るい声の余韻が感じられない。彼女は沈痛な面持ちで視線をアスファルトに向けた。  僕もそれきり言葉を見失った。来年のことについては、嘘も冗談も言えない。だけどいつかは言葉にして、ちゃんと向き合わないといけないのは分かっている。  僕らはまた手をつないで歩き出した。  温もり、汗、重み、沈黙、足音、歩調。本当の言葉、嘘の眼差し。どれも僕らの思いだ。正解しかない道の上を、これからも二人迷いながら歩いていきたい。  美咲さんが物憂げな眼差しをこちらに向けた。僕は小さく頷いてみせた。彼女は薄笑いを浮かべ、また前を向いた。  これが正解だと思いたい。彼女も同じように感じていると信じたい。今のこの道を、彼女と一緒に歩いていきたい。これが僕の、僕らの選んだ道なのだから。
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