最後の味覚

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最後の味覚

ああいい匂い。芳しい。これはニンニクを炒める匂いかな。 食事を待ってる間のこのそそられる感じは久々。 自宅じゃとんと味わえない。 独身じゃないけど味わえない。もし何か言ったら、じゃ、自分で作ればいいじゃん、と言われるだけだ。 妻の料理は、当たり外れが激しい。外れることの方が多い。味見をしないからだ。みそ汁だって毎日濃かったり薄かったり。俺の方が料理がうまいのは知ってるけど、仕事から疲れて帰ってきて、専業主婦の妻の分の食事まで作りたくない。 そこは勘弁願いたい。 そんなわけで俺はさっきからこうして、奥様の作ってくださる料理の匂いに魅了されているのだった。 三十路に足を踏み入れたばかりの営業部平社員の俺が、まさか南野社長のお宅に食事に招かれるなんて思いもしなかったのだ。仕事は人並み程度、際立った業績もない俺が今、邸宅のダイニングで社長の前に座り、高価なワインをご馳走になっている理由はただ一つだった。 「わはは。中島君のデスクの上にあの水筒を発見したときはホントに驚いたよ。「花色三番地」のファンがこんなところに」 「こちらこそ光栄です。社長もファンだとは思いもよりませんでした」 「花色三番地」は地下アイドルグループだった。社長の言う水筒、つまり、ステンレス製のウォーターボトルは、ファンクラブに入会したときにもらえる特典だ。地味なデザインだし、ばれないだろうと、それを会社に持参して使用していた俺は突然社長室に呼ばれ、今日のライブに誘われたのだ。 今日は土曜日だった。さっきまで社長と俺は「花色三番地」のライブを一緒に楽しんでいたのだ。あ、奥様。 「ごめんなさいね、中島さん、主人のわがままに付き合っていただいて。せっかくのお休み、奥様に怒られないかしら」 「大丈夫です。家内も今日は友達と出かけてます」 「そうなの、ならいいですけど。さて、そろそろお食事お出ししていいかしら。中島さんのお口に合えばいいですけど」 そうおっしゃっている奥様。 でも、出てきたのはこれは立派なイタリアン。 トマトスープに、チーズとニンニクのパスタ。サラダに、香辛料と一緒に焼いた鶏肉。おいしそう。 俺は社長に促され早速パスタからいただいた。 「おいしいです。もう、これは。ちょっと言葉にできない」 それは誇張ではなかった。チーズの味にニンニクの風味が絡み絶妙。こんなにおいしいパスタを俺は食べたことがなかった。 「あはは。そう言ってもらえるとうれしい」 「社長はこんなお料理を毎日食べてらっしゃる。うらやましいです」 「ははは。確かに妻の料理はうまい。控えめに言って最高だ」 「はい」 「でも、いつも最高のものを食べているのはどうかと思ってね、僕は」 「は?」 社長の顔に今日初めて仕事人としての表情が浮かび、俺は緊張した。 「僕にはいろんな味覚に対する感受性がないといけない。仕事柄」 「はい」 「中島君もだよ。我が社の社員として」 南野社長は、「南野食品」の社長だった。 社長は席を立ち、戸棚から小瓶を取り出すと僕に渡した。中には、濃い灰色の粉末が入っている。 「これは一体?」 「ま、いいから。ちょっとそのパスタにかけてみてくれませんか」 「あ。はい」 「あ。いきなり沢山はだめだよ。ちょっとずつ量を加減しながら」 「はい」 俺はパスタの端に少しだけそれを振りかけ、試してみた。 あれ? さっきほどおいしく感じられない。気のせいだろうか。これ、何の粉だろう。 「じゃ、もう少し量を増やしてみて」 「はい」 俺は、三振り四振りと瓶の中の粉を振りかけ、その部分を食べてみた。 わ、なんだこりゃ。ドブか? 「まずいでしょ」 「いえ。あの、その」 「まずいはずです。どうですか?」 「あの。はい。まずいです」 社長は突然愉快そうに笑った。 「これはね。うちの社の開発部が作った製品です」 「え?」 「意外にもこれが大変な発見らしくてね」 「はい?」 「これが第六の味覚。まずみ、です。まず味」 「まず味?」 「うん。人間が知覚できる最後の味覚です、おそらく」 「そうなんですか」 「これは新製品のまず味調味料」 社長は人間の舌が知覚できる味覚について説明してくれた。 人間の舌は、五つの基本味を感じることができる。甘味、酸味、塩味、苦味、そして、うま味。このうち、うま味は、1900年代の初め、日本人の研究により発見されたものだった。うま味は、昆布、鰹節、シイタケ、トマトなどに含まれ、主に出汁の味として人間の舌全体に知覚される。 今回のまず味調味料は、社長の号令によって開発部が研究して作ったものらしかったが、それは意外にも、うま味以来の新たな味覚の発見となったらしい。人間にはまずさを感じる独自の受容体があるのだ。 まず味という命名は社長によるものだった。 「でも社長、こんな商品が売れるものでしょうか」 「ははは、中島君。人はゴーヤを食べるよね。苦い」 「あ。はい」 「苦みを感じるということは、それはそもそも人にとって食べてはならない、という注意信号。でも、そんな苦みまでも食に取り入れてきたのが人間だよ」 「じゃあ、社長はまず味も」 「そう。人間は克服し、楽しんで食べていくものだと思っている」 こうして社長と俺は、微妙な表情でこちらを見つめる奥様をよそに、まず味調味料をおいしい料理に振りかけながら食べたのだった。 ああ、勿体ない。奥様に申し訳ない。 やっぱり、まずいものはまずかったのだ。 まずいことがおいしいと思えるようになる日は本当に来るんだろうか。 次のライブも一緒に行くことを約束して社長宅をお暇したけれど、帰り道、お土産にもらったまず味調味料を眺めながら、俺がこれを家で使うことは決してないだろうな、と考えていた。 あれ以上まずくなってはかなわない。
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