【2】正義

1/1

4人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ

【2】正義

僕は温室に居ると言うことが恥ずかしくて、『自分の部屋』と答えた。 アリスは『そうなんだ。僕も』と答えて、深く追求して来なかった。 その夜は他愛のない話で終わった。 アリスは、自分は春休みを利用して、うちの近所に静養に来ていると言った。 静養と言っても、春休み直前にインフルエンザに感染し、症状が重かった為、東京のど真ん中にある自宅よりも、少し郊外で自然があるところでのんびりさせたいという両親の意向でやって来た程度だから心配ないよ、とも。 次の夜、温室で勉強している僕の携帯が振動した。 アリスからのメッセージで、僕は嬉しかった。 僕からもメッセージを送ろうかなと思っていたから。 アリスのメッセージは昨夜と同じ、『レン、今何してる?』から始まった。 僕も昨夜と同じように『勉強』と答えた。 アリスは『レンは勉強が好きだね!』というメッセージと、パンダが笑っているスタンプを押して来た。 僕も『そうだよ』と答えて、メッセージアプリに初めから付いているウサギが笑っているスタンプを押した。 その時、僕はふと思った。 なぜ、今まで疑問に思わなかったのだろう。 なぜアリスは『アリス』という名前なのかと。 確かにアリスは非現実的な美貌を持っているけれど、生まれたばかりの男の子の赤ちゃんに『アリス』と名付けるだろうか?と。 アリスの親は、いわゆるキラキラネームを付けるような人達だとは思えない。 アリスは美しいだけではなく、少年ながらに品格があった。 それは同じ少年の僕が分かる程に。 だからつい訊いてみた。 『アリスって何でアリスっていう名前なの?』と。 アリスは答えた。 『母親が僕を生むのを嫌がったんだ。 母親は重い精神病で、薬を飲んでいれば普通だけど、それでも症状がひどい時は、お祖父さまの言うことしか聞かなくなるんだ。 しかも僕を妊娠して薬を止めなくちゃならなくて。 それでお祖父さまは、母親が自分を傷つけて孫を失うことを恐れて、お腹の中には母親の大好きな小説の不思議の国のアリスのアリスがいるから、頑張って産もうって説得したんだよ。 だから無事に生まれた僕は、自動的にアリスになったわけ。』 僕は子供ながらに言葉を失った。 それは同情でも何でも無く、こんなに悲惨な身の上話をサラッと僕に打ち明けてくれたアリスに感激したからだ。 そしてアリスは、『レンは何でレンなの?』と訊いて来た。 僕の瞳から涙が溢れた。 僕は生れて初めて、自分も母のお腹の中にいた時から嫌われていて、名前を付けることすら面倒だった父母は、たまたま僕が生まれた時に病院の窓から見えた蓮の花を見て『蓮』にしたんだと『人』に説明した。 弟妹にも話したことは無い。 アリスの反応は、パンダがコロリと転がって『へー!』と言っているスタンプ一つだけだった。 その薄い反応に、僕はまた感激して泣き笑いしてしまった。 アリスは母親から産むことすら嫌われていることなんて、全然気にしていないんだと、『疎まれている子供』の直感で分かったからだ。 僕は父母を憎むよりも、『罰』が怖くて行動していたが、あんな父母に嫌われているのはむしろ嬉しかった。 ベタベタと可愛がられる弟妹を気の毒に思うくらいには。 幼い弟妹は、父母の悪魔のような本性を知らない。 僕は父母に触られるくらいなら、無視されていたい。 父母に触られたら、そこから腐るような気がする。 それはドロドロとした感情だけど、アリスは違う。 アリスは清々しいまでに気にしていない。 祖父を『お祖父さま』と呼ぶのに、母親は『母親』なのだ。 いわば、記号。 当時、そこまでは気づかなったけれど。 それから僕らは毎夜メッセージをやり取りしていた。 本当はアリスに直接逢いたかったけれど、門限を破れば『罰』があるし、僕は習い事も複数させられていて、それらも成果を上げないと『罰』を与えると脅されていたので、中々時間が取れずにいた。 それでも僕とアリスは、僕が父母に毎晩のように温室に行かされ、時には朝まで過ごさせられ、そこで将来の為に必死に勉強していることを話すぐらい親密になっていた。 アリスは僕の話を聞いても大袈裟に驚いたりしない。 いや、そもそも驚かない。 ただ『聞いているよ』という合図のように、アリスのお気に入りのパンダのスタンプを押して来るだけだ。 そして僕は、アリスに自分の置かれた状況を伝えることで、自分が父母に『嫌われている』のでは無く、『愛されていない』のだと、初めて自分自身で認めたのだった。 そうして五日も経った頃、アリスがビデオ通話しようとメッセージを寄越して来た。 僕はもう、アリスは僕が温室にいることを知っているのだから、いいよと答えた。 画面で見るアリスは美しかった。 僕の心臓が早鐘を打つ。 アリスは画面に映った途端、クスクスと笑い出した。 僕が「どうしたの?」と訊くと、アリスは「レンのお父さんとお母さんって甘いね〜!」と言った。 僕は不思議だった。 こんな残酷な仕打ちを僕にしている父母が甘い? アリスは煌めくように笑い、続ける。 「だってさあ、鉢植えがみんな枯れてる! レンが神童で気まぐれだからって、こんな枯れた花に囲まれた不気味な温室で過ごしたがるかなあ? レンは気まぐれな神童かも知れないけれど、常識はあるよ。 それは日頃レンに接してる大人なら誰にだって分かるよ。 誰かがこの温室に入ったら、異常な状況だって分かっちゃう。 僕なら蘭を完璧に育てるね!」 僕はハンマーで思い切り頭を殴られた気分だった。 僕は父母を狡猾な悪魔だと信じていた。 それこそ『完璧な悪魔』だと。 だけど、違った。 それは真っ暗だった僕の目の前に一筋の光が差した瞬間だった。 次にアリスは、「レンに与える罰って何?」と微笑みながら訊いて来た。 僕の背筋に悪寒が走る。 すると突然アリスがその場で立ち上がり、バレリーナのようにクルリと回った。 アリスの艷やかな長い髪が揺れる。 アリスは悪戯っ子のように笑い、「レンが教えてくれるまで回り続けるよ!」と言うと、本当に三回、四回と続けて回り出した。 携帯の中のアリスと背景がクルクルと回転してゆく。 唖然と見ている内に、僕はアリスが倒れてしまわないかと不安になった。 そして、僕も立ち上がり、叫んでいた。 「混ぜるな危険!」 アリスがピタリと止まる。 息も乱さずアリスがにっこり笑う。 「レンをギリギリ息の出来る水の張った浴槽に寝かせて、『混ぜるな危険』の洗剤を混ぜる。 それから…そうだなあ…15分くらい放置する。 監視付きでね。 正解?」 「せ、正解…。 どうして分かったの?」 「アメリカなんかじゃ広く知られている幼児虐待の手口だから」 アッサリと言ってのけるアリスに、僕はヘタヘタと座り込んだ。 「レンは賢いから、逆にそこを利用されたんだ。 『混ぜるな危険』の意味を良く分かっていたから。 絶対に顔が水に浸らないように頑張ったんだね」 やさしいアリスの声に、僕は嗚咽して何も答えられなかった。 不様に泣く僕に、アリスが、やさしい、本当にやさしい声で、ポツリ、ポツリと質問をしてくる。 僕は嗚咽が収まると、それでも泣きながら必死で答えていた。 なぜならそれが、僕の地獄を理解してくれるアリスだけが、僕の『正義』だと思ったから。 そして二日後、何とかアリスと会うことが出来た。 場所は、初めてアリスと出逢った川沿いにある遊歩道。 時間は15分くらいしか取れなかったけれど、アリスは十分だと言ってくれたし、僕もアリスに会えるなら、それだけで十分だった。 アリスは初めて会った時のように、遊歩道から川を見ていた。 僕が「アリス!」と声を掛けると、アリスが振り返える。 アリスの美しい姿に僕は見惚れた。 アリスの持つ凄まじい透明感のせいか、アリスの履いている真っ赤なスニーカーがやけに目についた。 アリスはニコニコと無邪気に笑うと、突っ立っている僕に、一歩一歩近付いて来た。 そして、か細く白い人差し指で僕の頬をスッと撫でると、アリスはあの独特のやさしい声で言った。 「消してあげるよ」 僕は確か、何を?とか、何が?とか訊いたと思うが、覚えていない。 ただ、ただ、アリスに再び会えた喜びで胸が一杯だったから。 アリスがやさしく微笑む。 少し冷たい春の夕風が、アリスと僕を包む。 「レンの不幸を全部消してあげる」 「…どういうこと…?」 僕が何とか絞り出した声に、アリスは小首を傾げてフフッと笑うと、「今夜も温室からビデオ通話しよう!」とだけ言うと、欄干に立て掛けてあった真っ赤な自転車に飛び乗った。 僕は突然のことに何が何だか分からなかった。 僕が呆然としている間に、アリスは自転車に乗って振り向きもせず、去って行った。 僕はもっと直接話したかったが、今夜もまたビデオ通話出来るんだと、嬉しかった。 そして今夜は、アリスになぜ髪を伸ばしているのか聞いてみようなどと呑気に考えながら帰宅した。 その夜だ。 母が一家心中を決行したのは。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加