大人になる洗礼

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大人になる洗礼

***  鼻の先でモサモサした何かが動いている。  こそばゆい。それ以上にまだ眠い。  けれどモサモサはこちらの眠気など我関せずといった具合に眠りを妨げてくる。エアルは鈍い手つきで鼻の上からそれを追い払おうとした。  そんなエアルの手を軽くかわし、モサモサは「チリリッ」と高く鳴くとエアルの鼻の下へと瞬時に降りた。  モサモサが飛び降りた際、鼻の穴に細かい毛が入ったらしい。猛烈に鼻の中がむず痒くなり、エアルは盛大にくしゃみをしながらベッドの上で飛び起きた。 「あ~……びっくりした」  ふと横を見ると、白黒の小鳥が窓の縁を止まり木にして小さな爪を引っ掛けている。エアルが毎朝餌をあげているエナガだ。ちなみにエアルの目覚まし代わりでもある。こちらをじっと見つめる黒い瞳は、早く餌をくれと訴えていた。  エアルはベッドから降り、棚上のかご編みからいびつな形をしたアケビを一つ手に取った。  宮廷庭師からもらった出来の悪いアケビは、収穫してもすぐに捨てられてしまう。干せば保存食となるし、こうしてエナガの餌にもなる。エアルは百五十年ほど前から、アケビなどの果物から野菜まで、王族に出せない食材を菜園担当の庭師から横流ししてもらっているのだ。  アケビを果物ナイフで半分に割る。中からたっぷりの果汁とともにゼリー状の果肉に包まれた種が溢れ、木目調のまな板に染みを作る。エアルはまな板から果肉たちを滑らせて木の小皿に盛ると、窓際にいるエナガの前にコトンと置いた。 「ほら、たんとお食べ」  エアルの声を合図に、エナガは小さな(くちばし)で種をつつき始めた。  フリューゲルは動物や植物といった、自然の声が聞こえるわけではない。ただこの数百年、人間という生き物を近くで嫌というほど見てきて思ったのは、きっとフリューゲルである自分の感覚は人間のそれよりも遥かに優れているということだ。  ゆえに人間の声はわかりやす過ぎる。どんなに五感を鈍らせたとしても、彼らの声は雷や嵐に揉まれる木々より断然うるさく感じるのだった。 「ここは静かだな」  エナガの食事風景を眺めながらぽつりとつぶやく。キリリッとエナガが返事する。エアルはフッと微笑み、エナガの黒い縦縞に囲われた白い頭を撫でた。  エアルの住まいがあるのは、王族が住むローデンブルク城の広大な敷地内にある森の中。樹齢数百年になるどっしりと幹が太めのケヤキの上に建てた小屋で、エアルは寝泊まりしている。太い枝を土台に建てられた小屋は、一人分のベッドと必要最低限の食器、そして本と少量の食材を置く木棚しか置いていない。  数百年前、当時のアリック王にザウシュビーク国へと連れてこられたエアルは、最初に城の地下牢屋へと幽閉された。  与えられるのは、最低限の水と乾燥したひとかけらのパンのみ。陽の光を浴びることさえ許されなかったエアルは、劣悪な環境の中でみるみるうちに弱っていった。  当時は魔力を体内に蓄えておくキャパシティーのない子どもだった。やがて自分に対して回復魔法の呪文を唱える体力も底をついたある日。地下牢の冷たい床で寝ていると、アリック王がエアルの牢の前に魔導士を連れてやってきた。  どんな見た目をしていたかは、遠い昔のことなので覚えていない。黒いローブを纏っていた女の魔導士だったことは覚えている。  これから何をされるのかわからず、エアルは狭い牢屋の四隅に逃げた。低い天井をなんとか突き破りたくて、枯渇した魔力を使って炎や氷、雷の攻撃魔法を放出しようと必死に抗った。 「やめてっ、怖いよっ。僕をここから出して、お願い……っ」  逃げられないと悟ってからは、アリック王と魔術師に向かってひたすら土下座した。  だが人間の大人の耳に、フリューゲルの子どもの叫びは届かなかった。「構うな。やれ」とアリック王が命じると、魔術師は魔導書を開き、髑髏(どくろ)が先端にあしらわれた杖の先をエアルに向けて呪文を唱え始めた。  次の瞬間、髑髏の口から飛んできた禍々しい色の煙のようなものが、自身の背後に向かって放たれた。目には見えないが、自身の翼に鍵がかけられていく音が次々に背後から聞こえてきた。  同時に翼の重みが倍になり、エアルはその場で立っていられなくなった。床に手をつき、なんとか上半身を起こそうとしたが、重たくて無理だった。  試してみなくたって、すぐに自分にかけられた呪いの正体に勘付く。魔術師はエアルに逃避抑制魔法――つまりザウシュビークから逃げることのできない呪いをかけたのだ。  当時は自身にかけられた呪いに絶望し、舌を噛み切って死んでやろうかとさえ思ったこともある。  けれど皮肉なことに、この呪いのおかげで地下牢から脱することができたのもまた事実だった。  重い枷を翼に携えたエアルを待っていたのは、王族として生まれた子どもたちの世話係だった。おまけに城の敷地内とはいえ、自然豊かな森の中に小屋も与えられた。  底辺を知ったあとの地上には、驚くほど快適な環境が揃えられていた。過ごしていくうちに城内の人間は泥臭くて面倒だということを知ったが、地下牢に閉じ込められていたときに比べたらなんてことはない。  今は自然豊かな場所に建てられたこの小屋があるし、食料を調達できるルートが確保されている。自分の手から餌を待つエナガもいる。  環境を整えることが、『逃げる気力』という名の翼を()ぐための本当の策だったのだろう。早々にアリック王の真意に気づいたが、実際その策に反発するほどの反骨精神がエアルには湧かなかったのだ。  フリューゲルの気質なのか元々の性格なのか。エアルは整えられたぬるま湯に浸るうちに、どんなに嫌なことがあっても、死のうとまでは思えなくなっていた。翼に課された鎖の重さに、少しずつ慣れさせられてしまった。  そうこうしているうちに、小皿をつつく目の前のエナガが三羽に増えている。あっという間に餌は空になり、さて自分も水でも飲もうかと思った、そのときだ。  小屋の下から、馬の走る軽やかな足音が聞こえてきた。無駄が無く、蹴られる大地にも森に潜む動物たちにもストレスを与えない足音だ。そんな音を馬に奏でさせることができる人間は、エアルの知る限りこの国には一人しかいない。  足音が小屋のちょうど下で消える。窓の外に顔を出して見下ろすと、黒い短髪がちょうど馬から降りようとしているところだった。ローシュ王子だ。  レースアップシャツの上に、深緋色のベストが引き締まった上半身を包んでいる。軽装ではあるが、普段リネンのゆったりとしたシャツばかりを好んで着ている王子にとっては、かなり正装寄りの恰好だ。  エアルの視線を察したらしい。ローシュは毛並みのいい黒馬・ゼリオスの縦長な鼻梁を撫でながら、こちらに目線を上げた。
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