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―― 若葉のきれいな季節に生まれて、フォリアと名付けられた女の子。母は貧しいお針子で、学生と恋に落ち、彼女を産んだ。
赤ちゃんのころから農村に預けられて育ち、黒い瞳の男の子に幼い恋をした。
別れは突然やってきた。街に暮らす母が迎えにきてくれたのだ。だが街のアパートは狭くて湿っぽく暗く、母は朝から晩まで働きづめで、ひとりぼっちで留守番の毎日。
農村と黒い瞳の男の子を思い出して、帰りたいと泣いていた。
泣かなくなったのは、泣いてもどうしようもないとわかったから。そのたび、母がつらそうな顔をするから。
そんな生活でも、喜びはあったから。母が編んでくれた手袋、お使いのおまけでもらう小さなお菓子、道端に咲くすみれ。
母と同じお針子になった娘は、毎日同じ道を歩いて同じ工房に通う。朝から晩まで、ひたすら刺繍をしている。目がかすんでくると、ほんの少し窓の外を眺める。
行き交う人はみんな自由なのに、生活のために同じ場所に閉じ込められている。
かわりばえのない毎日。
だけど最近、そうしていると、なぜかよく見かける。黒い瞳のあのひとを。
目があった? 気のせい? 違う? やっぱり ――
そわそわ浮き立つ心は、羽のように軽いスタッカート。声を腹筋で素早くキレよく切って、空の高みにあげていく。
歌に心を込めるのではない。
ブリジッタは、ただ、音の心に沿って歌う。
一音、一音、忠実に。音のつながりに込められた意味を、とりこぼさないように。
最後の一音まで、そのまま。余分な雑音を、はさまぬように。
彼女の人生を、歌いきる。
ラストは、優しく明るく、語りかけるように。
恋の始まりの歌は、まるで初夏のそよかぜのようだった。
ブリジッタが歌い終わったとき、娘は、目に涙を浮かべながら、微笑んでいた。
握っていた銀貨を、あらためてブリジッタに押し付ける。
「ありがとう、吟遊詩人さん…… ね、よくある、つまらない人生だったでしょ?」
「さあ、どうでしょう」
「母さんが、言うの。学生はやめときなさい、って。あいつらの愛は、資産家の娘と婚約するまでだって」
「わたしには、わかりかねますが…… でも」
これまでよく客に言ってきたことを、ブリジッタは娘にも告げた。
「いまの歌は、フォリアさんだけの歌ですし、とても美しかったと思いますよ」
良かったらまた来てください ――
ブリジッタは銀貨を受け取るかわりに、自分のパンを半分ちぎって娘に差し出した。
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