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7
初営業の翌日。
ブリジッタが円形広場で歌っていると、幾人もの男がやってきて 「歌をやめろ」 と怒鳴りだした。そろいの黒いマントはたしか、街の自警団。
おそらく昨日のあの ―― 人生の歌を聴くのに耐えられずに逃げ帰ったボクちゃんは、街の有力者の息子だったのだろう。父親に頼んで自警団を動かし、ブリジッタを追い出しにかかっている、というわけだ。
「こら、そこの女! すぐに歌をやめるんだ!」
口々に怒鳴られても、ブリジッタは、歌い続けた。客が聴いているから、というだけが理由ではない。
歌うとき、ブリジッタは、己が意思のない道具になっている気がする。
足は大地に深くつながる根。体幹は、空へとつづく螺旋階段。肩と腕は翼。飛び立つためではなく、声を操り、遠くへ届けるための。
人の身体は最高の楽器だ。
それを奏でるのは、人ではなく、人を超えた、なにか ――
歌いきるまで、やめられるわけがない。
なにが、あっても。
「こら! 聞いているのか!」
自警団を無視しているとしか思えないブリジッタの態度に、イライラがつのったらしい。屈強な男たちのなかでも、ひときわ身体の大きいひとりが、警棒を振り上げた。
ブリジッタに向かって、容赦なく振り下ろす。
「待ってください」
当たる寸前で警棒を止めたのは、そばにいた青年だった。長い旅の途中であるらしい。清潔にはしているが、髪も服装も、どことなく荒れてくたびれた感があった。
青年は振り上げられた腕をつかむと、難なくねじ伏せる。
「私の順番が、まだなんです」
淡々とした物言いが、かえって恐怖をあおったらしい。自警団の連中は、いまいましげに舌打ちをしつつ去っていった。
「ありがとうございます。おかげで、最後まで歌えました」
「あなたなら、殴られても歌い続けただろうね、ブリジッタ」
「え…… まさか……」
ブリジッタは、息をのんだ。
何年も前に別れた彼に似ているとは、ひとめみた瞬間に思ったこと。
だが、本当に、彼が目の前にいるだなんて。とても、信じられない。
―― だって、彼は、王宮で家柄と才能にふさわしい要職につき、新しい婚約者と結婚して、順風満帆な人生を送っているはずなのだ。
かつて婚約者だった、歌にしか夢中でなかった女の子のことなど、すっかり忘れているに、違いない。
なのに……
「私の人生を歌ってくれるかい?」
翡翠の瞳に懐かしい光をたたえ、彼はそう所望した。
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