32人が本棚に入れています
本棚に追加
8
―― 裕福な侯爵家に生まれた少年は、期待を込めてエリオと名付けられた。幼い日々は厳しかった。誰よりも優秀であれ。周囲のおとなたちからは、求められ続けた。
一挙一動を監視される。おとなたちの気に入らなければ、叱られる。従わなければ鞭で打たれ、食事を抜かれる。
それが 『あなたのため』 。愛しているからこそ、だと。
本当に? 疑問を持つことは、許されない。
いつも、ひとり、見えない檻のなか。
だけど、あの少女が歌うときだけは、檻が消える。
『だれかのためなんかじゃないの』 と少女は言う。
『でも、もしあなたの心に響いたのなら、あなたの歌でもあるんだわ、きっと』
自分のためだけに歌ってほしい。
少年の願いは、きっぱりとはねつけられる。すこし困ったような、優しい顔で。
『歌は、そういうものではないのよ』
ならば、と、少女に古い歌を教える。
いまは使われていない言葉でつづられた詞の意味は、この心を捧げると愛する人に呼びかけるもの。
だが少女には、神に捧げる歌だと伝える。歌に夢中な彼女に、本当の意味は、なんだか伝えづらくて。
教えた歌は、少女の気に入った。
透き通った日の光のようなhiEが歌われるとき、少年はいつもそっと目を閉じる。
この歌だけは、自分のためのもの。そう、思い込もうとする。
彼女の歌は、彼が手にすることのできる、ひとすじの希望。
だが12歳のとき、少女は姿を消してしまう。
少女のことをきくと、両親は怒り出す。もう二度と口にするな、といまいましげに吐き捨てる。
『栄光ある我が家には、あの家はふさわしくない』
両親が新しい婚約者を連れてくる。
『家とおまえの将来に、ふさわしい娘だ』
新しい婚約者も、歌をうたう。あなたのために歌うわ、と言ってくれる。その歌は、彼の心に響いてこない。
栄光は、絶望に果てしなく似ている。
家を出た。使用人の服を着て捜索の手をのがれ、少女を探す。
街から村へ。村から、次の街へ。
行っても行っても、少女には会えなかった。
いつのまにか、何年もの年月が経っていた。
いつ終わるのかわからない旅。それでも彼は歩き続ける。
彼の歌をうたえるのは、あの少女しか、いないから。
そしていま、やっと、見つけた ――
ブリジッタのうたう歌はしだいに途切れがちになり、やがて、しゃくりあげる声に変わっていった。
最初のコメントを投稿しよう!