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三度目に訪れる三叉路までの道のりは、陽の下では夕心にまた別の顔を見せていた。
真夜中は気にも留めなかった躑蠋の花が斜面に咲き誇り、荷台にチャイルドシートを乗せた電動自転車が何台も夕心の脇を通り過ぎていく。
毛並みの良い犬を連れた老人や、どこからともなく小さな子どもたちの笑い声や泣き声が、風に包まれて夕心の元までやってくる。
春の陽気も相まってか男の住むその街は、長閑、という言葉が妙にしっくりくる。
「ありがとうございましたー」
途中でコンビニに立ち寄り、ふたり分のサイダーとおにぎりや菓子パンを買う。
規則的で不規則な坂を上り下りを繰り返し、人の通りが格段に落ちたところでようやく三叉路に辿り着く。
昼間に見るY字の窪みにある小山のてっぺんには小さな鳥居が見えた。その奥には心ばかりの祠と古びたベンチがあって、そこに続くまでの階段は丸太でできており、あちこちに雑草が生い茂っていた。
左の急勾配の細道を登り、街灯を二つ過ぎた先にある門扉の前に立つ。その奥には庭付きの平屋がある。
── しんと静まり返ったその家に、椿はひとりで暮らしているという。
「椿ー」
門扉の前で、夕心は無遠慮に彼の名前を呼ぶ。
三叉路のこちら側の道には、椿の家と、すでに廃屋となった古民家が一軒あるだけで、あとは雑木林が周囲を覆っている。
反応がないのでもう一度呼ぼうかと、夕心がひんやりとした空気を吸い込んだ時、縁側のカーテンが開き、和服の椿が現れた。
薄鈍色の着物を着た彼は、門扉の前にいる夕心に気がつくと、広縁の掃き出し窓を開ける。
「どうしたの?」
椿はいきなりの来客に、驚いたような顔で首を傾げる。
夕心は特にそれには言葉を返さず、「開けて」と腰のあたりの高さの錆びた門扉を指差す。
図々しい夕心に、椿は困ったように苦笑しながらも、沓脱石に置いてあった草履に足を滑らせ、夕心の元にやってくる。
「鍵なんてないんだから自分で開けられるでしょう?」
くすくすと笑いながら、椿は門扉を開ける。
「いらっしゃい」と椿に迎え入れられた夕心は、思いの外それを照れくさく感じて、誤魔化すように肩をすくめてみせる。
「勝手に開けて入って泥棒だと思われたら嫌だから」
「家に盗むものなんてないから大丈夫だよ。そもそも通る人すらいないんだから」
先を歩く椿の後に夕心は続く。夕心は黙って彼の後ろを歩きながら、濡鴉色の髪の下、着物の襟から覗く細い首を見下ろす。
木漏れ日が差し込む裏庭は時が止まったように、しんと静まり返っていて、この家だけが世界から切り取られたかのような錯覚に陥る。
「きみがせっかく来てくれたのに申し訳ないんだけど」
先を歩きながらずっと黙っていた椿が、沓脱石で草履を脱いで縁側に上がりながら、観念したような面持ちで言う。
「おもてなしできるものが何も浮かばない」
うーん、と眉間に皺を寄せながら告げる椿は、どうやら夕心が勝手に押しかけたにも関わらず、その彼をもてなすための来客用の品が、家の中にあったか必死に考え込んでいたらしい。
「椿が買ったことなさそうなもの買ってきたから大丈夫」
そう言って夕心も椿に倣って、沓脱石でスニーカーを脱ぎ捨てて縁側に上がる。
コンビニの袋を椿の前に晒すと、夕心の言葉に好奇心を煽られたのか、椿が素直に袋の中を覗き込んでくる。
それから気泡の立つペットボトルといくつか軽食を見ては、椿は顔をあげて目尻を垂らして笑う。
「きみは私をなんだと思ってるの。私だって炭酸くらい買うよ」
椿の笑みに釣られて夕心の口端も上がる。
それから夕心は目の前の椿の表情を、意外に感じる。まだ二度しか会ってないが、夕心の中の椿はもう少し人形じみていたのだ。
ただ、昼間に見る椿は、目の下に隈を作っていた。白皙ゆえに悪目立ちするその隈は、到底一日二日でできたものとは思えない。
「椿には刺激が強すぎるかと思ったんだけどな」
カーテンで陽の光が遮られていた縁甲板は、ひんやりと冷たい。
椿が縁側のカーテンを開けるのを横目に、夕心は開け放たれた障子の奥に続く部屋を眺める。
客間なのだろうか、畳の部屋には彫刻の入った座卓と赤い座布団が置いてあるだけで、あとは支柱を隔てて奥に廊下が続いている。
「私はきみよりずっと年上なんだけどな」
椿の声に釣られて夕心は振り返る。縁側に差し込む陽の光が微細な埃を、斜に映し出す。
「椿っていくつなの?」
夕心の問いに、椿は「えっとね」と目線を斜め上に持ち上げる。数を数えるように瞬きが繰り返され、「三十三」と思い出したように笑う椿はすでに夕心の隣に立っていた。
「へえ、椿って三十超えて……えっ、三十三?」
夕心の声は驚きのあまりひっくり返る。それから、驚きの目で隣の和装の男を注視する。
日本人男子の平均身長に、不健康極まりない華奢な体型と中性的な顔立ち。白皙で艶のある黒髪。猫のような目尻にかけてわずかに引き締まった大きな目。
その目が、夕心をじっと見つめている。
「いや、椿、冗談はいいって」
夕心は椿の言葉よりも、自分の目を信用することにした。
隣で椿が「えっ」と驚愕の声を上げるのも構わず、夕心はバグを起こした脳を落ち着かせるために、縁側に寝転んだ。
背の高い夕心は沓脱石に足を放り出す。
「冗談なんかじゃないよ。本当に私は三十三で、」
椿は夕心に必死に言い募りながら、彼の元に座布団を運んでくる。
「ありがとー」と夕心はそれを二つ折りにして頭の下に入れて枕代わりにする。
年季の入った縁甲板は陽の光を吸い込んで、じんわりと夕心の背中を温める。
それに加えて窓から差し込む自然光が、ぽかぽかと気持ちよく、夕心は思わず身体の力を抜き切るような息を溢す。
「椿のこと、もっと教えて」
まだ隣で三十三説を唱え続ける椿を見上げ、夕心は緩み切った声で言う。
十以上離れた年上の男だと知った今も、夕心は彼のことを「椿」と呼んだ。
そしておそらく最初から、夕心が自分よりもずっと年下の青二才だとわかっていながら、椿も呼び捨てを咎めることはなかった。
「私のことなんていいから、きみの話をしてよ」
夕心は顔を斜めに向け、椿を見上げる。
座布団に姿勢よく正座した椿は、開け放たれた窓の向こうにある裏庭をぼんやりと眺めていた。踏み込めない一線を優しく引かれて、夕心は縁側の木目へと視線をずらした。
「……猫は?」
今日ここに来てからまだあの猫に会っていない。野良だと言っていたから、今頃は別のところで日向ぼっこでもしているのかもしれない。
「いつも気まぐれだから」
話を逸らした夕心に、椿は常に同じようにゆったりとした返事をする。
椿という人間は知ろうとすればするほど遠くなる。
一定の距離を飛び越えることはできず、それなのにやたらと無防備だから、一方的に近づけたと錯覚さえしてしまう。
夕心は、寝転がったまま、屋根の下に見える流れる雲をゆっくりと視界から消えるまで追いかけていく。時折、鳥が鳴く。風に揺れて木々がざわめく。
「二十二歳、大学四年、絶賛就活生。B型。身長百八十一。体重はたぶん六十前半。居酒屋でバイトしてる。彼女はいない。セフレはいる。顔の左にだけやたらとほくろがある」
夕心は、いま黒目で追いかけている雲が流れ切る前に淡々と言い切った。
名前は言わなかった。それだけが夕心の意地だった。
聞く必要などないと言い切った椿への。
「ほくろ?」
椿は首を伸ばして、夕心の顔の左側を覗き込もうとする。こういう無邪気で無垢なところがずるい。
寝転がる夕心に覆い被さるように真上にやってきた椿が、正面から見えるように、夕心は顔を左に向ける。
「あ、本当だ。北斗七星みたいだね」
ふ、と椿が目を細める。
隈のできているというのに、ふっくらとした涙袋が人好きする表情を滲ませる。
椿の丸い頭に自然光がぶつかって、真っ黒な髪がほんのりと青く見える。
夕心が無意識のうちに、その髪を梳こうと手を伸ばしかけたところで、夕心の顔のほくろを数えていた椿が「そういえば」と夕心の目を見る。
「誕生日はいつなの?」
椿の問いに、彼へと伸びかけていた夕心の腕はだらりと床の上へと落ちる。
春の微睡から途端に真っ暗な荒波に放り出されたように、夕心の笑みが渇いたものへと変わる。
「一月三十一日。でも今すぐ忘れて」
笑顔を浮かべたままそれに不釣り合いな言葉を紡ぐ夕心を、椿は黙って見下ろす。
誕生日を聞かれることなんてザラにあって、その度に夕心は適当にのらりくらりで躱してきた。本音を告げた先で、理解も同情も別に欲しくなどなかったから。
「嫌いなんだ。自分の誕生日」
それなのに、なぜかこの全てを諦めたような凪いだ目をする男には、夕心は不可抗力のもとに素直を吐露してしまう。
椿と目があって、夕心はにっこりと笑って見せてから、その笑顔も続きそうにないと悟って、寝返りを打って横向きになる。
視界の先にあった赤い座布団と薄鉛色の着物をじっと見つめる。
不貞寝を始めた夕心の頭に、そっと温もりが重ねられた。
「きみのほくろ、北斗七星にも見えるけど、泣いてるようにも見えるんだね」
どこまでも柔らかな椿の声は、ちゃんと耳をすませていないと風に攫われてしまいそうなほど繊細で。
夕心の頭を撫でるぎこちない手つきは思っていたよりもずっと暖かくて。
「……ごめんね」
懺悔のような囁きに、夕心は温もりに身体を委ねきった先で、
「……椿だからいいよ」
なんて、年上相手にえらそうな態度をとってすぐ淡い眠りに落ちたのだった。
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