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〈そういや板垣(いたがき)採用決まったってよ〉  参考書を見るように企業のホームページをスクロールしていたところに、末永(すえなが)から連絡が入る。  いくつかのやりとりをして、今度内定祝いで飲みにいくことを決めて切り上げる。  スマホから顔を上げると、電車には夕心の他にもリクルートスーツに着られた若者が数人いた。どれも似たり寄ったりで、夕心も御多分に洩れず就活生に擬態する。 《電車をお降りの際は、足もとにご注意ください》  蟻の行列よろしく黒い集団がビルの中に吸い込まれていく。書類選考及び試験を終え、これから一次の集団面接が行われる。  緊張した面持ちが連なる中で、夕心は落ち着き払っていた。 ──……  習慣とは恐ろしいもので、潜在化されたものほど人間が無意識の際に表面化する。  夕心は面接終わりにそのまま椿の家に向かっていた。ワイシャツのボタンを外し、ネクタイを緩めながら、履き慣れない革靴で坂を上っていく。  春風が去ると、今度は湿度が街に篭るようになる。まだ梅雨の訪れは先だが、灰色続きの空に朝夕構わずに振り続ける雨も、張り付くような独特の蒸し暑さも、それら全てが苦手な夕心は、その気配がちらつくだけでうんざりしていた。  それなのに、面接終わりに、夕心はわざわざ椿の家に足を運んでいる。  夕心はあれから宣言通り椿の家に通い続けている。  椿は夕心が来るたびに困ったように笑いながらも拒むことはなかった。  そのうちに夕心が椿に関して知り得たことといえば、あんな繊細な見た目をしていて実にガサツで大雑把なこと、基本的に引きこもっていること、飯をすぐサボること、  人間の食料より猫の餌の方が豊富にあること、あの家は叔父のもので他界した時に夕心が土地ごと譲り受けたということ、加えてあの家は電波が雑魚過ぎること、  椿は昼間はそれなりに喜怒哀楽があるけれど、夜になると罪人のようになること ── おそらく不眠症であること。  あの家にひとりぼっちだということ。  三叉路にたどり着いた時には、夕心はじんわりと汗ばみスーツのジャケットを腕に引っ掛けていた。 「椿ー」  夕心はいつものように門扉の前で、椿が縁側から降りて迎えに来てくるのを待とうとした。  けれど、珍しく縁側の掃き出し窓が全て開け放たれていて、いつもふたりが出入りする沓脱石の上の縁側から、だらり、と裏庭に向けて腕が飛び出していた。 「え……」  "生"という活動をやめたような細く白い腕は、指の先まで力を失っている。  夕心の心臓がきゅっと縮こまる。  一瞬過った最悪な想像を振り払うように、夕心は慌てて門扉を開けると、可動域の悪いスーツに無茶を言わせてその場へ駆け寄る。 「椿!」  勢いよく夕心が覗き込んだ先で、椿が縁側でころりと横になっていた。  いつも夕心が縁側で眠りこけるたびに、椿がそっとかけてくれる使い古しのブランケットを我が身にかけて、薄く開いた唇から、すうすう、と生命活動を維持するための微かな音をさせる。 「……んだよもう」  盛大な溜息を吐くと、一気に安堵が夕心の身体の隅にまで行き渡る。  夕心が勝手に焦って慌てて恐れて安堵している間に、椿はただひたすら眠っている。  理不尽だ、と夕心は不服に思いながらも、それで椿を責めようとは微塵も思わない。  むしろ、人の心配をよそにすやすやと眠る椿に笑ってしまう。  縁側に腰掛けた夕心は、ジャケットと鞄を後ろに置く。  それから振り返り、改めて眠る椿を眺める。  いつから寝ていたのかわからないが、着流しの前がわずかに崩れているあたり、何度か寝返りを打ったのだろう。 「寝てるとこ初めて見たな」  二つ折りの座布団を枕がわりにするところまでわざわざ夕心を真似ることはないだろうに、と夕心は笑いを噛み殺しながら椿の前髪を指先で払う。  夕心はそのまま椿の身体の脇に両手を添え、その距離を詰める。  履きっぱなしの革靴で縁側の縁甲板を踏まないように注意しながらも、椿の着流しが少しはだけた胸に顔を寄せる。  それから目には見えない椿の中を確かめるように、──片方の耳をその胸にくっつけた。  とくとくとく、と椿の音が聴こえる。  夕心は目を閉じる。耳をすます。その鼓動が不意に大きくなったことに夕心が驚いたのと、困惑しきった声がやってきたのは同時だった。 「……何してるの」  夕心が顔を上げた先で、椿と視線が重なる。  椿の普段は空洞のように真っ黒な瞳が、わずかに羞恥の色で濡れている。  常に白皙で統一されたその肌が、ほんのりと皮膚の下から血の巡りの良さを滲ませる。  あ、やばい。こういう時、どうするのが正解だっけ。  夕心は椿の赤らんだ顔を見つめ、喉を鳴らした。それから、夕心は、は、と乾いた笑いを見せた。 「本当に生きてるかなって」  軽い口調で夕心は、椿から離れる。  その挙動ひとつひとつを椿の潤いに帯びた黒目が追いかけてくる。  夕心が他意はないと主張するような笑みを見せると、椿もそれに合わせるように笑った。 「人はそんなかんたんには死ねないよ」 「かんたんに死んだらたまるかよ」  夕心はその時初めて吸ったこともない煙草を吸いたいと思った。 「ぴかぴかのスーツだね」  椿はブランケットを横へ放ると、服装を整えながら夕心に向かって言う。  夕心は、こういうとこだよな、なんて思いながら放り出されたブランケットを手に取って椿の代わりに畳む。 「いんや、囚人服ってやつだね」  沓脱石に革靴を脱ぎ捨てた夕心は、後ろに手をついて縁側から空を見上げる。薄らと膜を張ったような雲が永遠に続いている。  椿も夕心の隣に並ぶと、縁側に足を放り出す形で座る。 「働かなくても囚人みたいなものだよ」  椿も夕心のように灰色の空をなんともなしに見上げている。その端正な横顔は、全てを悟ったようでありながら、無垢にも見える。  椿が何をしているのか、何をしていたのか、夕心にはわからない。  そもそも空から降って来たような世俗から浮世離れしているこの男が、社会の歯車の一端になっている方が違和感がある。  黙って椿を見つめる夕心の視線に気がついた彼は、少し困ったように笑う。  それから再び視線を前へ戻した椿は、裏庭を眺めているようで、その目は追憶の波に呑まれ始めていた。 「ただ何もせずに生きてるってことの罪悪感に押しつぶされそうになる。私よりも、もっと生きて然るべき人が無情にもいなくなっていく世界で、のうのうと生きてる」  椿の顔から表情が消え失せる。  能面のような顔でまるで罪人のように懺悔を告げていく。 「生きる勇気もなければ死ぬ覚悟もなくて、そんな時に世界が流行病でおかしくなったでしょう。みんなが苦しい辛いと泣いている中で、私は、どこかほっとしてた。不謹慎極まりないけれど、安心したんだよ。みんなが一斉に閉じ込められる異常な世界になって、初めて、私は周りと同じになることができたから」  曇天と呼ぶにはまだ明るい空を見上げていた夕心は、裏庭へと視線を落とす。  一見、無造作に見える景観のそこは、よく見れば見過ごしてしまいそうな花までも咲き誇っていた。 「普通じゃない私は、世界がおかしくなって、ようやく普通をもらえた。自分だけじゃない、という事実は悲しいぐらいに心を落ち着かせてくれる」  椿の言葉を聞きながら、夕心の頭の中に黒で統一された若者の塊が浮かぶ。  個性を求める企業に赴く無個性の集団。例え奇天烈な印象を与えられずとも、周りと同じだという安心感に勝るものはない。  ひんやりと湿り気のある風が木々を揺らす。若葉の一枚一枚が重なり合って、大きな音を立てる。 「でも世界はずっと立ち止まってるわけじゃない。前向きに動き出した世界の中で、私はまた置いていかれる。……私は独りでいなければならないのに、今度こそ本物のひとりぼっちになることに、怯えてる。私は、こんなにも卑しくてずるくて、醜い。」   夕心の左半身に椿の存在を感じる。夕心は感じていても、相手は孤独だと言い張る。  いつの間にか隣の椿は縁側に放り出していた足をその身に引き寄せて、膝を抱えて込んで小さくなっている。  かくれんぼの時に息を潜めできるだけその世界から姿を消す時のように。 「……人はそんな他人に興味ないよ」  夕心はそう言って、綺麗に畳んだブランケットを広げ、縮こまる椿の頭からかける。 「みんな意外とちゃんと前向いて歩いてるふりしてるだけだよ。椿はその「ふり」ができないから、苦しいんだろうけど」  その狭間で見えた、着物をぎゅ、と握りしめる椿の手と、今日の面接で隣に座った男がスーツのズボンを、ぎゅ、と握る姿が重なった。 「……今日集団面接だったんだけどさ、まあみんな必死なわけ。いやそれが普通なんだろうけど。俺の隣に座ってたやつなんて多分一度も髪染めたことなんてなさそうで、きっと大学の授業なんかも全部最前でちゃんと受けてるようなやつなんだろうなって。ガチガチに緊張してぶっちゃけ何言ってるかわかんなかったんだけどね」  面接後にそのグループで、ある課題に対して解決策を打ち立てるテーマでディスカッションを行なった。  初対面の相手を手探りで見極めながら、各々の役割を決めるところから採用を勝ち取るための争奪戦は始まっていて、夕心の隣にいた真面目な青年は、真面目ゆえに置いてけぼりを喰らっていた。 「常日頃真面目にちゃんと生きてる奴が、それ相応の結果をもらえるわけじゃない」  夕心のように「ふり」だけが上手く、何でもほどほどに満遍なく要領良く、時には卑怯な手を使って、そうやって生きている方が期待も何もない状態だからフラットに面接に臨める。それで結果オーライ。  世の中はきっともっとずっと理不尽で、時には真面目で、優しくて、良い奴から淘汰されていく。  隣の椿は頭からブランケットを被ったまま動かない。窒息しやしないかと思いながらも、夕心はその使い古しの布を眺めながら続ける。 「きっと天国と地獄を作った人も真面目だったんだと思う。だってそうじゃなきゃ死んでまで報われないなんて悲しいだろ。そうやって理不尽を飲み込んで死んでった奴がこの世にはどれだけいるんだろうなって」  椿がいったい何の罪を背負っているのか、それは夕心にはわからない。ただ、罪は自覚したものにしか重石にはならない。  今、この段階で夕心が知っている椿は、意外とガサツで無防備で無頓着で、弱いくせに頑固で、誰よりも真面目で、優しくて、根っからの良いやつだということ。 「世の中は義務教育で頑張りすぎない方法を教えるべきだよ」  夕心はそう言ってブランケットを椿の頭からそっと外す。  椿の真っ黒で細い髪が、静電気を起こして持ち上がった布に引き寄せられる。 「そしたら椿はもっと生きやすくなるのに」  未だ膝を抱えた姿勢の椿は、もう無表情ではなくなっていた。  その唇をわずかに尖らせた顔は、まるで、ずっと暗く狭い場所で隠れていたところを、ようやく、やっと鬼に見つけてもらえた時のような、嬉しそうで悔しそうな、なんとも言えない顔だった。 「何その顔、可愛い」 「はっ」  ただ、そんな顔が、夕心には甚く愛らしく映った。  夕心の言葉に初心な反応を見せる顔までもが可愛くて、夕心は静電気でとっ散らかった椿の髪に指を通す。  逃げ惑い最終的に顔を手で隠した椿に、夕心はにやにやしながら、細く艶のある髪を指で梳いていく。 「……きみこそ、」 「ん?」  顔を隠していた椿の手が、少し下がる。  耳まで赤く染めた椿の潤んだ目が、恥じらいからか睨めつけるように、夕心を見上げる。  警戒する猫をあやすように「ん?」と夕心が小首を傾げて待てば、椿は続けた。 「きみこそ本当に優しいやつだ」  いつも朗らかで水平線のように乱れひとつない椿の、不貞腐れたような子どもじみた態度に声。  夕心の中でひとつの衝動が脳天をつき、指先が駆け出すように椿に向かいかける。  それを寸でのところで押し殺し、夕心は敢えて明け透けな態度を装う。 「お、見かけによらず?」  丹敷夕心は要領が良くて交流関係は広く浅く。基本損得勘定で動き、面倒ごとは切り捨てる薄情者。  いつも貼り付けている軽薄な作り笑いは、夕心という人間を実に見かけ通りに示している。  椿は未だにほんのりと上気した顔で夕心を見る。 「見かけ?」 「そう、軽いでしょ、俺」  わざと椿が笑って肯定できるほどの軽さで告げた夕心は、ブランケットを畳む理由をつけて、彼から目を逸らす。  角と角を合わせる単調な作業が、今は妙に難しく感じる。  椿の返事を待つ時間がやたらと長く感じる。夕心がブランケットの二つ目の角合わせをしている時に、椿は言った。 「軽いが何かよくわからないけど、……私には最初からきみは優しい人にしか見えてないよ」  畳み掛けのブランケットが夕心の太ももの上へ落ちる。  反射的に隣へ顔を向けると、椿は笑うでも怒るでもなく、ありのままの顔で、夕心を見つめていた。  驚いた夕心が次の言葉に二の足を踏んでいるのも構わず、椿はブランケットを見下ろして頬を緩める。 「ちっとも眠れなくて家の中をうろうろしてた時に、きみがいつもここで気持ちよさそうに寝ているのを思い出して、そしたら久しぶりによく眠れたんだ」  夕心は躊躇う間もなく、椿の目の下を指先で撫でる。細められていた椿の目が驚いたように丸くなったのも構わずに、夕心はそっと問う。 「椿ってやっぱり不眠症なの」  今日、椿が眠っているところ初めて見た。  出会った頃から目の下の隈が一向に良くならないこともわかっていた。 「……夜はまずいんだ」  夕心は、椿に何もできない。  ただ、何もできずに、虚空の渦に飲まれていく椿の闇色の目を見つめていた。
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