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七月が訪れるたびに懲りず思い知る。
どれだけ脳内で七月という概念を美化していたかということを。例年通り島国に到来した梅雨は、七月に入っても一向に去る気配がない。
四季は毎年訪れているというのに、身を持って実感するまで本物を忘れているのだ。
夕心は鬱陶しい湿気を振り払うように廊下を早足で進み、講義室の扉を開ける。
程よい冷気が身体をすり抜け、自然と夕心の身体に纏わり付いた鬱屈とした気持ちも落ちる。
「お、丹敷ー、おひさー」
後ろの席を陣取る集団から呼ばれ、夕心はそこへ向かう。同じ学科に同じサークルということでよく一緒につるんでいるグループだ。
「内定おめでとー」
「おー」
軽いノリで祝われて、軽いノリで返す。
一番乗りで採用が決まった板垣の横で、留年が確定した金沢が「板垣のもまだ行けてねえし、まとめて内定祝いの飲みしようぜ」とはしゃいでいる。
就活でなかなか会う機会のなかった仲間内で自然と近況報告が始まる。
「真綸香、最近就活ヒスっぽいんよなあ。気軽にヤろーって言えない」
「あいつは万年ヒスだろ。んでお前は万年発情期」
「遠藤全然見ないと思ったら、アイツUターン就活で地元戻ってるっぽい」
「地元かあ、会えなくなんね」
講義が始まってもお構いなしに話は続く。
夕心は彼らの話を聞いたフリしながら、先ほどからスマホのメールの受信画面を開いては、スワイプして新着メールが入っていないか確認する。
「夕心は地元帰ろとか思わなかったん?」
瀬野に話をふられて、夕心はスマホ画面を注視したまま「んー」と適当に相槌を打つ。
地元という単語に関連的に脳裏を過ぎった三つの顔を吹き消すように、軽く笑った。
「ないな。絶対ない」
鼻で笑った夕心に「だよなー俺もないわー」と末永が深く頷く。「わかる。俺も」と続いた金沢に、「お前はまず卒業だろ」と周りから総ツッコミを喰らう。
それを横目に、夕心は再びスマホへと視線を戻した。
──……
『就職祝いをあげないとだね』
夕心が内定をもらったその日に椿に会いに行くと、椿はそう言った。
定位置となった縁側にふたりで腰掛けながら、夕心は「いや」とちょっと引き気味に答える。
『俺、さすがに無職に集る気ないよ』
『ありがたくも私はお金には困ってない無職なんだ。ひとりだと使うお金もないしね』
椿はことあるごとに、ひとり、を強調する。
その度に不服な顔をする夕心を、椿は見ないふりする。
裏庭の紫陽花が敷き詰めたように咲いている。幸薄い椿っぽいなと思ったハルジオンはいつの間にか裏庭から消えていた。
『じゃあ、スマホ』
夕心は不満げな顔を隠すことなく言う。
友人やセフレが今の夕心を見たら、らしくない、と指を指して笑うか、どうした、と怪訝な顔で心配してくるだろう。
だけど、今、夕心の隣にいるのは、椿だけだ。
お菓子コーナーで愚図る子どものような夕心を、椿は柔和な笑みを浮かべたまま受け入れる。
『別にかまわないけど、きみもう持ってるでしょう? 今どきは何台も持つものなの?』
もう春は過ぎてしまったというのに、椿はいつまでも春の陽気を孕んでいた。
穏やかで暖かくて、無邪気で、それで気がついたら夏に攫われていなくなっていそうな、春。
『俺のじゃない』
いなくならないように捕まえておきたい。攫われてしまわないように、囲っておきたい。
『椿のスマホ』
夕心が何かに固執するなんて初めてだった。
でも、と反駁しようとする椿に『就職祝いなんでしょ』と夕心は有無を言わさず、その日のうちに回線の弱い椿宅からネットで、夕心と同じ機種のスマホを購入したのだった。
───……
〈珍しく昼間から猫が遊びにきました〉
何度かの受信問い合わせで、ようやく今朝ぶりに椿から連絡が入る。
メール画面を開けば、ブレブレの画像が添付されていた。もはや猫というよりも、毛玉だ。
「……いや下手すぎるだろ」
メールなら経験者だ、とちょっと誇らしげな椿に「古いよ」なんて言い返せず、夕心はこの時代に業務でもなんでもない、椿との日常的なやり取りをメールで行っている。
案の定、誤字は多いし、写真も基本見切れている。
〈その写真だと俺には猫に見えない。多分AIもわかんないよ〉
AIと打った後に、椿はAIなんて知らないだろうなと思って打ち込んだ文字を消していく。
「夕心さっきからお前スマホに夢中だねえ」
隣に座っていた瀬野が夕心のスマホを覗き込もうとする。夕心は反射的に画面を伏せてしまう。
柄にもない夕心の反応に、瀬野はにやにやといたずらな顔を向けてくる。
「なんで隠した? エロ動画?」
「馬鹿か」
夕心が軽く睨みつけながら笑えば、瀬野もにゃははと調子の良い笑顔を浮かべる。
「だってお前ずっと画面見てニヤついてんだもん。そんなん好きな女かエロ動画じゃん」
明るいお調子者で通っている瀬野は素直ゆえに嘘がつけない。
つまり、悔しくも夕心がスマホを見てニヤついていたのは事実だ。夕心は途端に居心地が悪くなって、眉根を寄せる。
それから誤魔化すように、長テーブルにぎゅうぎゅうになって横一列で座るグループにスマホのカメラを向ける。
「はい全員全力で変顔」
突然のお題にも関わらず、お経のような講義に飽き飽きとしていた集団は、夕心のスマホのカメラに向かって顔の筋肉を限界まで酷使する。こういう時ばかり頭の回転が早い奴らだ。
彼らの写真をメールに添付する。
いきなり変顔を要求された瀬野たちは「なになにー」と夕心に行動の意味に興味津々だ。
「丹敷が写真撮るなんて珍しいー」
「その写真グループに送って。俺絶対一番イけてた」
「変顔でイケてるわけねえだろ」
「夕心くんったらさっきからずっとスマホ見てんのよ。きっと女よ。俺らは話のネタにされたんだわ。今度奢ってもらいましょ」
「瀬野なんでオネエ口調なのきもい」
同じサークルで同じ学科。何かと一緒にいるのが夕心としても好都合だから行動を共にしていた。たったそれだけの関係。
きっと大学を卒業すれば時と共に離れていく関係。そう思っていた。それでいいと思っていた。
「待って板垣の鼻の穴ッ、これチョコボール入るぞ」
「瀬野きもッ」
「末永もきめえわ」
「俺、来週の面接これお守りにするわ」
「呪いの間違いだろ」
「じゃあ俺は卒業式までこれトプ画にする」
「金沢は留年組だろ」
繋ぎ止めようとしても、離れる時は離れていくのが人間だから。
期待する方が馬鹿を見る。必死になった方が後から傷つく。夕心はそのことを知っている。
それなのに、知っていてなお──、
〈俺の友達。椿絶対笑っただろ?〉
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