3.

3/5

145人が本棚に入れています
本棚に追加
/26ページ
# 〈今日は雨がひどいから来なくて大丈夫だよ〉  バイト終わりに椿からそんな連絡が入っていた。  確かに雨足は強いけれど、たかが雨で夕心の訪問を閉ざされてことが面白くなかった。 〈わかった〉  素っ気ない返事をしてしまったら、自分が幼稚に思えて夕心はさらに苛立ちが募る。  その気持ちを引きずったまま駅に向かう途中で、誤って水溜りを踏んでしまった瞬間に、 「うざ」  夕心は自棄になった。 「夕心、久しぶりだね」  椿の家へ行くようになってから疎遠になっていた女の家に行き、甘ったるい匂いが充満する部屋で鬱憤を晴らす。  冷房の効いた部屋で汗ばんだ身体をシャワーで流し、ドライヤーで髪を乾かす女を横目に、ベッドの寄りかかるようにして座り、スマホを開く。  椿から返事はない。  舌打ちをしてスマホをシャギーラグの上に放り捨てる。  そのくせまたすぐにスマホに手を伸ばし、メールの受信画面を開いてしまう。 「だっさ」  どうしても心と行動が伴わない。  夕心は気を紛らわせるように他の画面を開くが、メールの通知がこないかと気になるだけだった。仕方なしに写真フォルダを整理する。  このほうが椿から送られてきた写真が意識を分散させてくれる。 「うわ可愛い猫だねえ」  いつの間にかベッドの上にいた女は、髪にトリートメントを馴染ませながら夕心のスマホを覗き込んでくる。 「夕心の猫?」 「いや、野良」 「ふうん。人懐っこいんだね」  勝手に人のスマホの画面をスワイプする女は、椿が撮った毛玉猫を見て「写真のセンス無さ過ぎじゃん」と笑っている。  それに釣られて夕心も「本当にそう」と破顔する。 「ねえ夕心」  笑いの余韻を残したまま夕心の名前を呼んだ女の声は、いつになく静かだった。  だから、夕心も心の準備が必要だと思ったのだ。  ただ、身構えるその前に、彼女は躊躇いもなく言った。 「好きな人できたでしょ」 「は?」  あまりにも突然の言葉に、夕心の身体は固まる。  ただ、頭が真っ白になることはなくて、むしろ彼女の言葉を聞いた瞬間に瞼の裏に現れたその存在に、混乱していた。  混乱しながらも、心の奥底は妙に凪いでいた。薄く色づいていた池に、女がトドメの一滴を垂らしたような。  女は長い髪を後ろに流す。彼女の真っ白で柔らかそうな二の腕を見ながら、着流しの襟から覗く細い首を思い出す。 「あたしそういうのわかっちゃうんだなあ。あたしとしてる最中、夕心、心ここに在らずだったもの、ずっと。」  好きな食べ物の話をするように、彼女は言う。  ただただ彼女の声を受け入れることしかできない夕心の視界の隅に、ベッドサイドに横に倒れているあの本が見えた。 「今までも夕心があたしに興味ないのはわかってたよ。でもね、それとは全然違うの。あたしを通り越してその人を欲しがってた」  夕心よりも夕心を見透かしたような彼女の瞳は、特別寂しがっているようには見えなかった。 「あたしが例え遊びだとしても、ちゃんと求められてるって実感できないと無理だって、夕心は知ってるよね」 「ごめん」  気がついたら夕心は謝っていた。そんな夕心の肩を女は爽快なまでに引っ叩く。  大きな口を開けて豪快に笑う女を、夕心は初めて見た。 「やだなー、謝ってほしいなんて思ってないよ。夕心は上手だったし気持ち良かったもん」  女はリモコンで冷房の温度を下げる。  それからベッドから降りると夕心の隣に座り、ローテーブルの上に置きっぱなしになっていた睫毛美容液を塗っていく。 「夕心は、大切な人のためにどんな人になるんだろうね。ちょっと気になる」  鏡を見ながら下睫毛に液を塗布していく女は、夕心の言葉を待たずに話し続ける。  夕心は、女のこういう一方的なところに時々辟易していたはずなのに、今はそれに救われている。 「あたしが生まれて、パパは死ぬのが怖くなったんだって。家族を守るために死ねないって、あたしを残して逝けないって。でもママは、死ぬのが怖くなくなったって言ってた。何があっても、死んでもあたしを守るって思ったんだって」  女の華奢な身体には愛が詰め込まれている。  夕心はスマホを持つ自分の手を見下ろした。空っぽで何も持ち得ない。そこに愛は入っていない。 「同じ愛なのにこんなにも形が違うんだよ。だから、夕心の愛ってどんな形になるのかなって」  返事は未だにない。女のように愛をもらったことのない夕心に、正しい愛し方などわからない。  そしてきっと、夕心が初めて大切にしたいと思った相手は、それを最も望んでいない。皮肉だ。 「俺じゃ大切にできそうもないし、向こうに大切にされる気がない場合はどうしたらいいの」  夕心の口から零れ落ちた素直な問いに、女は睫毛美容液を塗りながら答えた。 「お似合いじゃん」  あっけらかんとした物言いに、夕心は唇をギュと結ぶ。  不満げな夕心の様子に気がついた女が、夕心の顔を見て「顔やば」なんて挑発してくるものだから、夕心はさらに不機嫌になる。  女は美容液の蓋を閉めて、今度は何やら唇に塗りたくっている。 「夕心、電車で赤ちゃんと目があったらどうする?」 「は? 何いきなり」 「いいから、どうするの」  鏡に向かいあった状態の女に言われ、夕心はその意図が掴みきれないまま答える。 「とりあえず笑う、か、変な顔しとく」 「それって誰かに教わった?」 「いや、別に。みんなそうするだろ」 「教えられてなくても、笑わせようとするでしょ。大丈夫、それでいいんだって」  軽い口調にこちらを見もしない女の素振りに、夕心は彼女の言葉がさらに軽く感じる。 「意味がわからないんだけど」  メールの受信もないことも重なって、夕心の声は低くなる。エアコンの音がうるさくなる。  女はようやく夕心を見ると、その目は面倒そうに細められていた。女の異性の対象として外れた瞬間から扱いが雑になる。 「夕心のくせに察し悪いな。だる。だからー、あたしたちは習わなくたって誰かを愛せるように生まれてきてるし、誰だって生まれてきたからには愛されたいと思ってるんだっつーの」  ただ、だからこそ何にも包まれて隠されることのない女の言葉は、軽いけれど、鋭い。さくさく、と軽快な音を立てて夕心の心を抉る。  夕心は女のせいで傷だらけになった心の内側に、堪えきれずに笑う。 「お前って意外と口悪いのな」 「夕心って意外とガキなのね」  ここぞとばかりに仕返しがきて、夕心は声を出して笑いながら「そらどうも」と女の髪をぐしゃぐしゃに掻き回した。  玄関まで見送りにきた女は、なぜかベッドサイドにあった本を夕心に差し出す。  普段本とは無縁の女が好きだと言っていた作家のものだ。 「これ預かっててくれない?」 「なんで」  夕心はまだ若干湿っている靴を履きながら問い返す。 「この作家ね、もうずっと書いてないみたいなんだよね。だから、あれまだ読めてないの。だって読んだら終わっちゃうでしょ」  女の言い分は夕心にはいまいち理解できない。が、差し出された本を受け取って、雨で濡れないように鞄の奥に押し込む。  女はその様子を眺めながら続ける。 「とにかく生きてればいい。生きてればまた書いてくれるかもしれないでしょ。生きるが勝ちだから、マジで」 「そういや本気になった本好きな男とはどうなったの」  確かこの本も最初の目的は男と近づくための手段だったはず。  女は夕心の言葉にきょとんとして、それから「あー」と遥か昔の話を思い出したように声を上げる。 「そういえばいたね、そんなの。まあまあ、そのおかげで良い出会いもあったし、プラマイゼロかな」  そう言って女は夕心の鞄の中に押し込められた本を指差して、笑った。
/26ページ

最初のコメントを投稿しよう!

145人が本棚に入れています
本棚に追加