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# 〈夜にかけて雨足が強くなるみたいだから来なくていいよ〉 「……」  椿は、雨の日は決まって夕心が家に来るのを拒んだ。おかげで夕心は朝起きて一番に天気予報を確認するようになった。  そうして梅雨明けがまだまだ先である事実に不満を息を漏らす。  夕心はその日も一つしかない講義をサボって板垣たちと飯を食いに行き、その足でバイトに向かう。  その間中ずっと降り注ぐ雨が憎らしくなっては、歩いているだけでじんわりと汗ばむ湿度にもうんざりする。  バイト中も気がつけば客が来るたびに、拭いても拭いても濡れる床にため息ばかりが落ちる。 「お疲れさまでした。お先失礼します」 「おー、お疲れー」  裏口で雨に当たらないよう、身を縮こめながら煙草をふかすバイトの先輩に、挨拶をして帰路に着く。  広げたビニール傘に、ぼとぼと、ばたばた、と粒の雨が跳ねる。  夕心は雨はもともと好きではなかった。  それは、傘がめんどくさいだとか、靴が濡れるだとか、そういったぼんやりとした理由だったけれど、今は、前よりも明確に、嫌いになっていた。  急足で改札を抜け、電車に乗り込む。  期待をしないという戒めを掲げている時点で期待している思考に奥歯を噛み締めながら、メールボックスを開く。 〈縁側から勝手に上がり込んで我が物顔で寝ています〉  添付画像には、正座をした椿の着物の膝の上で丸くなる猫がいた。  夕心の口元がだらしなく緩む。  電車だということを忘れて、喜色に満ちてしまう顔を意識的に直しながら、耐えきれなくなった夕心は、結局、椿の家の最寄り駅で降りていた。 〈バイト終わったから今椿の家に向かってる。このまま雨続きで会わなかったら椿に顔忘れられそうだから〉  メールを返信し終えて、夕心は流行る気持ちのままに緩やかな坂をものともせず上っていく。  ここ最近ずっと心に重くのしかかっていたものが、夕心が椿の家へ近づくたびに道端に落っこちていく。 ──好きな人できたでしょ  正直この感情がそうなのか、夕心にはわからない。だから今は肯定も否定もしない。ただ今は、少しでも早く椿に会いたい。それが夕心の全てだった。  すでに見慣れた坂の先で、夕心が遠くに三叉路を見つけた時、そこには傘を差してぼんやりと立ち尽くす人がいた。 「椿!」  夕心が走り出そうとすると、それを察した椿がいつになく真剣な顔で叫ぶ。 「雨だからちゃんと周り見て」  椿の過保護な親のような口ぶりに、夕心は走りかけた足を、ゆっくりと濡れたアスファルトに着地させ、逸る気持ちを生殺しにしながら、一歩一歩椿の元へ向かう。  人通りが少なく、街灯も薄ぼんやりとした道は、真夜中に雨でも降られると確かに視界は急激に悪くなる。  加えて椿がいる三叉路の小山は明かりひとつ灯っていないので、大きな闇に覆われたかのように、左右に続く道の先を遮っている。  夕心がようやく椿の元に辿り着くと、彼は途端にほっとした顔になる。 「椿、久しぶり。家で待っててよかったのに。ま、門扉のところまでは迎えに来てもらうけど」 「いきなりきみが来るっていうから心配でいてもたってもいられなかったんだよ」  椿は夕心の冗談にも触れる余裕もない様子で、踵を返し、先に家へ向かって歩き出す。  夕心のビニール傘とは違い、椿は紺の大きな傘だ。立派な骨組みで作られている傘だが、一箇所だけ折れている。  椿のことだから気にしないのだろうと、夕心はそのことを気にも留めなかった。  いつもとは違う表玄関から家に上がり、思いの外雨に濡れていた夕心は、そのまま風呂を借りる。  湿気で身体に張り付いた汗と、バイト先で染みついた酒と煙草の匂いを洗い流し、浴室を出ると、そこにはラフなTシャツとスウェットのズボンが置かれていた。  新品ではない。夕心の身体のサイズに合っていることからして、椿のものでもない。 「……んー」  難解な問題を出題されたかのように複雑な気分を味わいながらも、夕心は結局それを着た。 「椿ー、風呂ありがとー」  肩からタオルをかけて廊下を進みながら部屋をのぞいていく。  途中、椿の布団には、猫が代わりに寝ていた。  野良猫の概念を疑いながら、夕心が半笑いで客間に辿り着くと、人ひとり分の襖が開いていて、その奥の縁側に椿がいた。 「つば、」  いつものように声を掛けようとした夕心は、斜めから見える椿の顔が濡れていることに気づいて、口を閉じた。  椿は、顔を顰めるでもなく、鼻を啜るでもなく、ただ、ただ、ひっそりと、涙を溢していた。  その顔に、夕心は言いようもなく、喉の奥が締め付けられたような苦しみに襲われる。  それから何度か抗うように、唇をぱくぱくとさせ、ようやく、声を絞り出した。 「椿」  その声で初めて椿は夕心が客間にいたことに気がついたようだった。  振り返るや否や、我に返ったように乱暴に涙を拭おうとする。 「椿、待て待て待て、ストップ、ステイ」  夕心は慌てて椿のそばに歩み寄ると、ぐしぐしと雑に涙を拭う椿の手首を掴んで止める。 「一度泣き顔見せたら二度も同じようなもんでしょ。もう見ちゃったから、俺」  だから無理に泣き止もうとしなくていいよ、という一番肝心な言葉を、夕心は紡げない。  今までならば、相手が求める言葉は、本音とはいくら違えとするすると口にできていたというのに。  それなのに、今の夕心は、まる小魚の小骨が喉の奥に刺さったように、その言葉だけつっかえてしまう。  夕心は赤くなった椿の目尻を親指で優しく撫でながら、白皙の中で、血色の悪い黒を見つめる。 「椿、また眠れてないの」  椿の目の下の隈は、梅雨入り前の頃より、ずっとひどくなっている。  堪えきれなくなったように椿が瞬きをするたびに、目の縁から溢れ出した涙が頬を滑り落ちる。  流れ星にも似た雫は、誰に願いをかけられるでもなく、椿の白い肌の上で乾き切った道になる。  椿の手首を掴んでいた夕心の手に、椿の手が重なる。  夕心の手首に縋るように絡みついてくる椿の手を、夕心は手の位置をするりと流し、椿の手のひらを包み込む。  椿の指が必死に夕心の親指をきゅと握る。  夕心がいることを確認するような椿の仕草に、夕心は無言でその冷たい手を包み返す。 「……夜はまずい」  いつの日かと同じ台詞を椿は吐き出した。 「雨の日の夜はもっとまずいんだ」  震える唇の先から紡がれた椿の言葉は、あまりにも抽象的すぎて、その真意が夕心には理解できない。  夕心にとって、わからないということがこんなにももどかしく、それでいて、わからないにも関わらず、何かしてやりたいという衝動に駆られたのも初めてだった。  歯痒さに眉根を寄せながらも、夕心は、ただ黙って椿の手を握り返すことしかできない。  締め切られたカーテンの向こうで、雨が自然と叩く音が続いている。  永遠とも思える雨音が聞こえる縁側で、椿は音のならない涙を流す。 「きっと夜は私の罪を裁くためにあるんだと思う」  椿の二つの目は、夕心を迎えに来た時から何も映し出していない。  全ての色を混ぜ込んだ先に生まれた黒は、純粋な黒とは同じに見えて相異なる。 「真っ暗な闇の中で、突然自分が間違えた過去が目の前に落ちてくる。その後悔が永遠に、私の思考の全てになって、後悔を持って罪を忘れさせないために、夜は毎日私のもとに訪れてくるんだ」  懺悔に囚われた罪人のように、椿はひたすらに自責を続ける。夜だけじゃない、と夕心は気がつく。  椿はいつだってこの罪を纏って生きている。  夕心と初めて出会った時から、出会う前から、椿はこの家で、たったひとり、罪に覆われて暮らしている。 「……私は、どうして今日まで生きてるんだろう。そう思うのに、朝を迎えるとまた生きてしまう」  自分の生に心から疑問を呈する椿の淡々とした物言いに、夕心の体温が急速に下がる。  目の前が遠くなりかけたのを、軋むような心臓の痛みで持ち堪える。 ── 最初から、椿はふらりといなくなってしまいそうだった。  あの日、夕心が初めて椿と猫に出会った日、バイト先に来ていた猫が重なったのは、椿の方だった。  死ぬ間際になると姿を消す。夕心は無意識に、椿から死の匂いを嗅ぎ取っていた。 『生きてた、』『残念ながら。』  でもじゃあどうして、椿は俺を拒まない?  いや、確かに夕心は椿に、ある程度の境界線は常に引かれていた。  それでも、夕心が家へ行けば困ったように笑いながら受け入れて、夕心のわがままを最終的には許していた。  いくら目の前の椿を見つめて答えを探してみても、夜の空洞に飲み込まれた椿の双眸は、夕心の不安を煽り駆り立てていくだけだ。その時不意に夕心の頭の片隅にその声が過った。 ── 誰だって生まれてきたからには愛されたいと思ってるんだっつーの 「椿」  椿が本当にそれを望んでいるのかはわからない。でも今の夕心は、椿もそうであってほしいという望みのままに動く他ない。 「椿、下向くな。こっちだよ」  夕心は握っていた椿の手を離す。  椿はそれにも気が付かずに、ひとり後悔の底なし沼に沈んでいる。人形のように空洞にも似た眼は、合わない焦点で虚空を見つめている。 「椿、俺を見て」  夕心は椿の顔を両手で包み込むと、ぐ、と上に持ち上げる。  目と目がしっかりと見つめ合えるように、椿が落ちてしまわないように、「椿」と名前を呼んでその顔を見つめる。 「椿」  涙の痕を残した椿の頬を包み込みながら、夕心は何度も彼の名前を繰り返す。  椿が夜から帰ってくるまで、何度も。そうしているうちに、椿の目から混色の黒が、徐々に涙と共に色を落としていく。 「今、椿の目の前にいる俺だけを見て」  ようやく椿と視線が混じり合う。涙の膜を張った瞳が夕心を見上げている。  椿の涙で濡れた睫毛が星屑のように煌めいている。残りの涙が頬を伝う。その星に願いをかけるように、夕心は言葉を紡ぐ。 「俺がいるよ。夜のたびに椿が辛い目に遭わないように、俺がそばにいる」  夕心がこんなにも非現実的な言葉を誰かに紡ぐのは生まれて初めてだった。  それぐらい必死だった。外の風が縁側の窓に雨を叩きつける。夕心に注がれていた椿の眼が、その音に引っ張られて、ふと視線を落とす。 「……だめだよ、私の罪にきみは関係ない。私はひとりでいないと、」 「罪のない人間なんていないだろ」  まだ雨は降りやまない。夕心は椿の顔を両手で包み込みながら、彼の耳をそっと塞ぐ。椿が苦しむもの全てを、遮るように。 「椿、もういいから。大丈夫だから」  暗示のように小さな声で繰り返す夕心の言葉が、耳を塞いだ椿に届いているかは定かではない。  ただ、そうしいるうちにゆっくりと椿の強張った身体の力が抜け、最後はふっと頽れるように、夕心の胸の中へと落ちた。  夕心は椿の華奢な身体を抱きしめながら、ひとり雨の音を聞いていた。
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