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# 「さすがに夏の縁側は暑い」 「きみに膝枕してる私はもっと暑い」  仰向けでスマホをスクロールしていた夕心は、それを横へずらす。と、見上げた先に椿の顔があって、彼は、暑い、と言っておきながら汗ひとつかいていない人形のようだ。  夕心の視線に気がついた椿の目が合う。夕心は自然と口端が持ち上がる。 「やっぱり良いね、人肌は」 「ついさっき暑いって言ってた人の発言とは思えないな」  困ったように笑う椿に、夕心は平然とした顔で「言ったっけ」なんてとぼける。  時間の無駄でしかない椿とのこういった会話が、夕心には言いようもなく心地よかった。 「椿って全然汗かかないよな」  七月の末にようやく大々的に梅雨明け宣言がされた。  それとほぼ同時期に大学の試験を終えた夕心は、長期の夏休みに入った。  夏休み中の卒業旅行の案も出たが、大学生といえば有り余る暇に対比して金はない。  卒業旅行は旅行シーズンをずらして格安で行く決定がなされ、夏休み中はその資金調達に明け暮れることとなった。 「そうかも。暑いとは思うんだけどね。昔から代謝が悪いんだ」  じんわりと額に汗の滲む夕心とは違い、椿の身体のどこにも汗ばんでいる形跡はない。  簾のかかった縁側は時折風でゆらゆらと上下に揺れる。簾の細かく割った竹の隙間から入り込んだ自然光が、椿が着る麻の着物の格子模様に当たる。  夕心は椿の膝の上に頭を乗せたまま、下から椿の顔を眺める。  椿は何をするわけでもなく、ほんの少し眠たそうに瞬きを繰り返している。  真っ黒な髪を耳にかけていて、その耳を見ながら夕心は、胸の底をざらりと撫でられた感覚に襲われた。  夕心は椿の形の良い耳に噛み付く代わりに、夏の紫外線に逆らうような白い頬を、躊躇いもなくつまんだ。 「なに?」  引っ張られた頬に怒るでもなく、椿は困ったようにはにかんで夕心を見下ろす。  夕心は椿の頬を親指と人差し指の間で何度か押したり引っ張ったりを繰り返す。 「椿ちょっと太った?」  太ったといはいえ、それでも今の椿は平均体重には到底及ばない。  それでも夕心がこの家に半ば強制的に転がり込むようになってから、ほんの少しだが、椿の骨と皮の間に柔らかな生の重みが増えた。 「そうかもしれない。きみは私よりもたくさん食べてるのに全然変わらないね」 「椿はもっと太ったほうがいい。なあ、冷やし中華食べよ」 「さっき朝ごはん食べたばかりなのに?」 「四時間前はさっきって言わない。俺、麺茹でるから椿切る係ね」  勢いよく起き上がった夕心は、椿の手を引いて立ち上がらせる。そのまま彼の手を引いて歩き出す。  以前はがらんとしていた客間が、ここ数週間のうちに夕心の物であちこち散乱している。  椿は素直に夕心に連れられながら、少しだけ拗ねた声を夕心の背中に飛ばしてくる。 「私が不器用なの知っているだろう。きみはそんなに不揃いなきゅうりが食べたい?」 「それがいいんだよ。わかってないな、椿は」 ──……  椿が夜に落ちかけていた日、夕心は昼過ぎになると一度自分のアパートへ帰り、ボストンバッグに必要最低限のものを敷き詰めて椿の家へトンボ帰りした。  ほんの数時間前に帰ったはずの夕心が、大きな鞄ひとつ抱えて戻ってきたことに、椿は多少なりとも驚いている様子だった。 『椿、俺もここに住むわ』  あっけらかんとした夕心の言葉に、椿は反射的に「うん」と頷く。  さっそく荷解きを始める夕心を、椿は茫然と眺めていくうちに、その顔はみるみるうちに焦りに塗れていった。 『きみ今、なんて、』 『今日から俺が椿の同居人になるんだって』  さすがの椿も躊躇しているようだったが、家主が困惑している間に、夕心は縁側奥の客間を陣取った。  服を引っ張り出してまとめていれば、椿がようやく頭にはてなを浮かべながらも、口を開く。 『だってきみ、急にそんな、そもそも元の家は? そんな急にどうにかできないでしょう?』 『それなら大丈夫。大学卒業後は今住んでるとこ後輩に譲るつもりだったんだよ。家具もそのままあげる予定だったし。それが少し早まったってだけ』  もともと捨て癖のある夕心に荷物はそう多くない。必要なものは暮らしながら買い集めればいい。  そう思いその日のうちに後輩に連絡を取った。実際には夏休み明けにと話はまとまったが、それをわざわざ夕心が椿に言う必要はない。 『でも、』  椿は、畳まれて積み重なっていく夕心の服を見下ろしながら、未だ考え直す余地を夕心に求めようとする。  以前はその椿の引っ掛かりに、夕心が敢えて踏み込むことはしなかった。  ただ、それは前の話。 『俺を助けられるのは椿しかいないよ』  椿が拒否できない文言を並べてでも、夕心は椿の懐に強制的に入り込んだ。 ───…… 「十二時前には帰ってくるから」  夕心が表玄関でサンダルに足を引っ掛けながら言えば、上り框にいる椿は「うん」と頷いた。  夕方になっても、夏の空は昼を引き延ばしたようにまだ明るい。夕心は居酒屋のバイトは続けている。  ただ、前は時給の良い深夜帯を狙って働いていたが、椿の家に転がり込んでからは一転して、早めに出勤し、さっさと帰るを徹底している。  夕心のシフトに、高校生かよ、とバイト仲間が突っ込むのも無理はなかった。 「気をつけて」  椿は夕心を見送る時はいつも、不安げな顔をする。  自分のことは境界線を引いて心配も要さないと言わんばかりの態度を取るくせに、こちらのことになると途端に慈悲深い良心的な心配を寄せるのである。  椿のそんな顔は、まるで全てを夕心に許して頼りきっていると勘違いしてもおかしくない。 「ずるいよな」 「え?」 「しかも素でやってるんだから質が悪い」 「何の話?」  夕心の言わんとすることを、椿は夕心の顔を見つめることで推し量ろうとする。  そんな彼の目を誤魔化すように、夕心は椿の困った笑みを真似てみながら、無垢な彼の鼻先をぎゅむと指でつまむ。 ニャア  玄関の網戸越しに鳴き声が聞こえる。 「お、来たな。居候」  夕心が振り返って玄関の引き戸を開けると、猫はすぐさま家の中に入り込み、夕心の足に身を摺り寄せる。  猫のこの生物本来のあざとさと、椿が無垢に掻き立ててくる庇護欲は、いったいどちらの方がずるいか、なんて夕心は真剣にそのふたつを天秤に乗せかける。 「居候、椿のことよろしくな」  夕心がしゃがみ込み、その顎下を撫でてやれば、猫はごろごろと喉を鳴らす。  そろそろ行かなければと立ち上がった夕心の元に、椿の慌ただしい声がやってくる。 「待って、帽子!」  てっきりずっと上り框にいたと思っていた椿は、夕心が猫に構っている間に、どうやら客間に行戻っていたらしい。  表玄関に慌ててやってくる椿の手には、夕心の黒いキャップがあった。 「帽子かぶって。この暑さじゃ熱中症にっ、」  夕心はキャップを受け取るために手を伸ばす。  受け取りがてら、過保護な椿に冗談を飛ばそうとした、その瞬間、椿がいきなり体勢を崩した。 「椿!」  夕心は咄嗟に椿の方へ伸ばしていた手で、椿を掴む。  上り框から滑り落ちかけたところを夕心に受け止められた椿は、全てを夕心に預ける形となった。 「……ごめんなさい……」  夕心に抱き止められた椿から、弱々しい声がこぼれ落ちる。  夕心は安堵の息を溢しつつも、まだ身体は緊急事態から抜けきれておらず、心臓がばくばくと大きな音を立て続ける。  椿の心臓も同様で、その心音は密着した夕心の身体からも感じ取ることができた。 「マジで俺よりも椿が心配」 「ご、ごめん」  はあー、と身体の緊張を解すように長い息を吐きながら、夕心は椿をぎゅうと抱きしめる。きつく抱きしめられた椿の肩がびくりと跳ねる。  夕心はその反応に知らんふりを突き通し、椿の後頭部に回した手で、わしゃわしゃとその黒い髪を引っ掻き回した。  それから不意に、夕心の顔のすぐそばにある椿のうなじに違和感を覚え、頭を撫でていた手を、そこに向かって這わせる。 「な、なにっ」  驚く椿を他所に、夕心は着流しの襟から覗く椿のうなじに触れ、それから、ゆるりと口元を緩ませた。 「椿、俺に抱きしめられて汗かいてる」  万年人形のように汗ひとつかかない椿が、夕心の腕の中で熱を持って身じろいでいる。  猫は自分に構ってくれず、玄関で抱き合うふたりなど興味ないと言わんばかりにさっさと家へ上がって縁側へ行ってしまう。 「……焦ったからだよ」  椿の呟きは、その顔を覗き込んだ夕心には、強がりにしか思えなかった。 「別に俺のせいで、なんて言ってない」  夕心の余裕に満ちた口ぶりに、椿はずりずりと夕心の身体をずり落ちていく。  胸元の少し下で止まった椿の髪は、夕心に摺り寄せた片側だけくしゃくしゃになっている。  猫のような大きな瞳を眇めて、椿は耳まで赤く染めた顔で言った。 「……ずるい」  このまま腕の中に閉じ込めてしまいたい。そんな思いを込めて、夕心はもう一度だけ椿をギュッと強く抱きしめる。 「帽子さんきゅ」  そう言って椿の手からキャップを引き抜くと、夕心はそれをすぐに頭から被って、自分の赤が彼にバレないうちに逃げた。
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