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4.
「俺、みんなにずっと言ってなかったんだけど、バイなんだよね」
── 椿は大丈夫だろうか。
そんな思考に耽っていた夕心は、末永の言葉を聞き入れるのに少し遅れを要した。
末永が何でもないふうを装って早口で言い切ったのもあるけれど、とにかく、夕心は咄嗟に返事をすることができなかったのだ。
夏休み終わりに瀬野の内定が決まり、いつものメンバーで飲みにいった帰りのことだった。
珍しく酔いの回った末永を真ん中に、彼を支えるようにし、車道側に夕心、壁沿いに板垣が、肩を組んで歩いていた。
三人は入学当初からなんだかんだと連んでいた。特に板垣と末永は、夕心が合流する前からすでに仲が良かった。
だから、末永がこの瞬間を打ち明ける時だと踏んだのは、理解できた。
「なんか今さら言うのもどうかと思ったりもしたんだけど」
そう続ける末永は乾いた笑いで誤魔化す。笑われたくないから、先に自分で笑う。
いつも場の空気に難なく合わせられる末永の弱さが垣間見えた。
夏の空高く浮かんだ月がやけに丸く遠く感じる。夏の太陽を記憶している空気は、ほんのりと汗ばむ温度を孕んで夕心たちに纏わりつく。
「なんか言い逃げみたいだよな、ごめん」
夕心が末永に回していた腕から、彼の肩がそっと逃げるように身を縮める。
思い返せば、末永の様子は会ってすぐからいつもとは違っていた。珍しく最初から呑むペースが早かったり、反応もいつもと比べて鈍かった。
きっと、このことを話すためにずっと迷っていたのだろう。
「せっかくの楽しい空気、壊してほんとごめん」
今だってそうだ。
もう末永のアパートは見えている。どう転ぶかわからない話で、気まずい時間を長引かせないための末永の精一杯に思えた。
末永を挟んで向かいにいる板垣の様子は、夕心からはわからない。
末永が表面的にでも欲している言葉を、きっと夕心は何の気なしを装って言える。
けれど、その言葉が浮かんで夕心が口から紡ごうとするたびに、心のうちで、偽善者、と囁くものがいる。耳障りだけの良い言葉を、遮ろうとするものがいる。
酔いはすっかり醒めていたのに、夕心も含めて誰も口を開かなかった。
ただ、肩を組んで夏の夜をゆっくりとした足取りで進んでいた。
「ふたりともありがとな」
末永のアパートに辿り着き、普段ならば宅飲みになるところだ。
だが、いくら夕心が早めに帰る、と前もって伝えているとはいえ、今日ばかりは間違ってもそういう流れにはなりそうもなかった。
末永は強張った顔で無理にでも笑顔を形作ろうとする。
その視線が、夕心と板垣の間を彷徨いながらも目が合うこと決してはない。
「じゃ、ほんと、ごめん、帰り気をつけてな」
末永が気まずさを抱えたまま玄関を閉めようとする。きっとこの扉が閉まったら、このまま糸が切れる、そんな予感がした。
そしてその予期はおそらく確かな未来だった。
──私には最初からきみは優しい人にしか見えてないよ
「末永」
閉まりかけた扉の奥に声をかける。
「話してくれてありがとな」
そうして彼に咄嗟に告げた言葉は、夕心の本音だった。
──……
バイクが騒がしいエンジン音を鳴らしながら、夕心と板垣の横を通り越していく。
静寂の中に轟いた爆音に、夕心は目を眇めては、遠ざかっていくバイクを眺めていた。
「……お前はあいつにありがとうって言ってたけど」
ずっとしかめ面で黙り込んでいた板垣が不意に口を開いた。
見えなくなったバイクの代わりに、街灯にぶつかっては跳ね返される虫を見ていた夕心は、横目で板垣を見やる。
「こっちとしては言うか悩むぐらいだったら言わないでほしかったっつーか」
板垣の横顔は、未だ自分の気持ちも整理できていないようだった。
ただ、眉間に寄せられた皺と、きつく細められた目から、板垣の根底にある嫌悪が浮かんでいた。
夕心は板垣の横顔をぼんやりと眺めながら、玄関扉が閉まる間際に見せた、泣きそうな顔で無理に笑ってみせた末永が脳裏に過ぎった。
「多少なりとも接し方変わるじゃん。知らない頃にはもう戻れねえわけだし」
苛立ちにも似た板垣の声を、末永は知らない。
きっとそれが板垣の精一杯の友人としての優しさだったのだと夕心は思う。
酔いの醒めきった板垣は、夕心の前で戸惑う様子を隠そうとしない。
月が灰色の雲に覆われて、闇が深くなる。ぬるい夜風がふたりの間をすり抜けていく。
板垣はこの瞬間まで黙り込んでいた分を、堰を切ったように話しだす。
「や、なんつーか、俺だってそういう奴がいるのはわかってるし、別に好きにすりゃいいじゃんって感じだけど、でも、それは世界的にであって、友達の中にいるとは思わねえじゃん」
夕心はその間中、ただずっと「ああ」だとか「んー」だとか、歩く歩調に合わせて相槌を打つ。
どこからともなくパトカーのサイレンが聞こえる。煩わしいほどの音は、罪人の知らせとなって周囲に波紋していく。
板垣の目が胡乱に歪んでいく。
「こういう時、丹敷みたいに受け入れるのが正解で、俺みたいに受け入れられないやつが悪いみたいにされるけど、でも、それでもさあ……いや、ほんと、俺、無理だわ」
そう言った板垣も苛まれていた。夕心は、黙って彼の隣を歩く。
いつものふたりは、家に着く頃には忘れてしまうようなくだらない話ばかりを並べていた。
板垣は夕心の答えを正解だと言った。けれど、夕心にはこの問いに対する正解など存在するのか定かではなかった。
板垣の反応だって、たとえば彼が素直に抱えた感情を全て飲み込んで笑って受け入れるのが絶対的な正しさとは言い切れない。
駅に近づくに連れ、人の通りが増える。眩しいほどの光を放つコンビニが遠目でもわかる。
夕心は、隣を歩く板垣に言う。
「別に俺は板垣が末永を受け入れる受け入れないも自由だと思う」
夕心なりに今の板垣と正面と向き合って考えたゆえの言葉だった。
「それと同じくらい末永が抱く感情も自由だと思ってる」
夕心はゆっくりと言葉を紡ぐ。頭の中には困ったように笑う椿がいた。
それから、誰かが誰かへ抱く感情が自由であってほしい、と願っているのは誰よりも夕心自身だと気がつく。
それならば、夕心が椿を好きであることも、また自由だからだ。
全ての言葉が今さらながら夕心の心に跳ね返ってくる。
ひとりでに椿に辿り着いた感情に、マジか、と乱れかけた呼吸を整え直すような息が夕心の口から漏れる。
終電間際の改札に人は少ない。誰もが早足で帰宅を急いでいる。
不意な自覚を持って掻き乱されている隣の夕心に、板垣が言った。
「ずっと思ってたんだけど、丹敷の言葉って本心なの?」
ああ、付けが回ってきた。
夕心はそう思った。今までおざなりにしてきたこと全てから仕打ちを受けるんだ、と。
板垣の顔は引き攣っている。その顔を、夕心はほんの数十分前にも見た。
「俺にも末永にも調子の良い言葉並べて、お前、要はどっちにも良いやつでいたいだけじゃん。でも、なんていうか、お前の言葉ってその場しのぎにしか聞こえない」
他人に自分を暴かれるほど、痛く苦しいことはない。それが当たっていればいるほどに。
鈍器で後頭部を殴られたように、夕心の眼前がぼんやりと鮮明さを失っていく。隣にいる板垣の表情が上手く読み取れない。
「結局さ、お前って誰のことも信用してないだろ」
嘲笑を孕んだ板垣の声が、真っ直ぐと夕心に届く。それでも反応ができない。
愕然とする夕心に気がついた板垣が、はっとしたように我に返り、途端に顔を歪ませる。
「……あー悪い本当にマジで、忘れて、ダメだ。ごめん、俺、今会うやつ全員のこと傷つける自信ある。悪い、今言ったこと気にしないで、じゃあな」
板垣が黒い短髪を乱暴に手で掻き乱す。それから、もう一度「悪い」と呟くと夕心を置いて先に改札を抜けていった。
椿の元へ帰る夕心とは反対のホームへ向かう板垣の後ろ姿を、夕心はただぼんやりと見つめていた。
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