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 猫が食べやすいようペースト状になった市販フードを手に、丹敷(にしき) 夕心(ゆうしん)は先ほどの言葉を思い出していた。  とはいえ、猫を飼った経験のない夕心に、不意打ちも同然に脳裏を掠めていったこの情報の正誤は、明らかではない。  そもそも猫が死ぬ間際になるといなくなる、という言葉自体、一体いつ夕心の記憶に入り込んだのか。さらには彼の脳のずっと奥底に埃を被って、今の今まで眠っていたのかも皆目検討がつかないのだ。 「んー……」  貰い手のいない猫用フードを、夕心が無意味に指先で上下に振っていれば、彼の背後にあった裏口の扉がわずかに開く。  薄暗い路地と夕心の背中に濃い光が斜めに差し込む。 「丹敷くん、そんなとこで何してんの」  しゃがみ込んでいた夕心の上から、よく通る明るい声が降ってくる。肩越しに振り返った夕心は、扉の隙間から漏れ出た眩さに目を細める。  同じ居酒屋のバイト仲間である彼女の表情は、逆光で夕心にはよく見えない。 「あいつにこれやろうかと思って」  封を切っただけの細長の猫用フードをふらふらと揺らしながら答える。 「ああ、あの子ね、もう三日も来てないんだってさ」  あいつ。あの子。  夕心の働く居酒屋によく餌を集りに来ていた野良猫は、そう呼ばれていた。夕心が立ち上がると、彼女は裏口の扉をさらに開ける。その分、斜に差し込んでいた光が分散して、淡い光が路地を薄ぼんやりと照らす。  店の中から扉を押さえる彼女に代わり、身体を滑り込ませる。 「丹敷くんって意外と猫好きなんだね」  はにかむ彼女を見下ろす。ペースト状の餌は、夕心の指先ですでに乾き始めていた。  夕心は、彼女のひとつに結んだ髪の下で、わずかに綻んだ後れ毛を見ながら、緩やかに口角を持ち上げた。  あの猫の柄はいまいち思い出せない。 「まさか」  夕心は指先からそのゴミを弾き飛ばし、店から大量に出る残飯と一緒にした。
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