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#  帰りの電車に乗り込み、バッグの中を一通り漁った夕心は、ワイヤレスイヤフォンを忘れたことを思い出し、口の中で人知れず舌を打った。  ドア横の仕切りに寄りかかり、うっすらと暖房の流れ込む車内を眺める。  六割埋まる座席のほぼ全員が、眼前のスマホを見ているか、寝ているかの二択で、そのうちマスクをしている割合は座席と埋める割合とおおよそ同じ。  感染症が世界的に流行してから二年。  少しずつ世界が「いつも通り」を目指し始めてはいるものの、今まで一律で不慣れな後ろ歩きを要求されていた人々は、すでに前の歩き方を忘れいた。  前歩きに戻せと指示を出されても、ぎこちない歩き方で、前や斜めや横や、時には立ち止まって、後ろ歩きをして、それを世界は仕方なしに「いつも通り」と呼ぶ。 〈バイト終わった? 今から家おいでよ〉  スマホと連動している腕時計が震えて、通知に目を通す。気兼ねなく身体だけを重ねる女からの連絡は、その女の住む最寄駅をひとつ過ぎたところできた。  もう少し早く連絡しろよ、と夕心が行くか否か逡巡しているうちに、次の駅に停車するアナウンスが入る。 (明日四限だけだし、自分家着くのとあっち歩いて帰るのもさして変わんねえし、……すっきりしたいし、行くか。)  極めて利己的な思考の末、夕心は〈行く〉とだけ連絡を入れ、次の駅を降りた。  家からバイト先の通勤圏内だというのに、夕心はその駅の改札を初めて抜けた。  大学進学とともに上京した夕心は、副都心から程近いそこを生活圏にした。すでにその生活を始めて四年目。  流行病で最初は歪だった生活も、慣れてしまえば無感情。ラインを引かれた付近の生活を、夢も希望も将来性もなく、目先の課題と欲に忠実に生きている。  相手の家までをスマホに案内されながら、見知らぬ土地の夜を踏みしめて行く。夜の街灯に照らされながら、春の風が残りわずかな桜の命を攫ってゆく。  緩やかな坂を上り、道路沿いを進んでいけば、駅周辺に密集していた店舗は姿を消し、徐々に住宅街へと形を変える。  その住宅街も、高層マンションだったものが、緩やかな高低差の道を奥に進んでいくほど、戸建てや低層アパートに様変わりしていく。  途中で電柱に括り付けられた〈変質者注意〉の看板を横目に通り過ぎる。  夕心は、見慣れない土地への好奇心と、立ちっぱなしのバイトで疲労の溜まった身体の悲鳴の、相矛盾する感情を内在させながら、スマホの指示通りに歩く。 「こんな時にイヤフォンないの最悪だろ」  夜の闇に、夕心の苛立った声と舌打ちが溶けた。地形なのだろうが、永遠かと思うほど緩やかに上っては下るの繰り返しばかりの道は、夕心の機嫌を斜めにしていく。  深い息を吐き出しながら、空を仰ぎ見る。やたらと丸い月が細やかな星の輝きを相殺している。  無機質な案内人は、まだ見えもしない、この先の三叉路を右へ進めと言う。すでに高い建物は消え失せ、昔馴染みの家ばかりが連なる道は、街灯の数も少なく、侘しさが拭えない。  ようやく目を細めた先に、Y字の窪みに山崩しの遊びで残されたような小山が見えた。  ── ニャア  その時、夕心が歩く二つ先の街灯の下で、毛玉の塊がしなやかな動きを見せた。 「あ」  夕心の声に、その猫はくるりと振り返る。  今宵の月のように丸い双眸が、夕心をじっと見つめる。真っ白な毛色に、左の耳だけが黒いその生き物は、夕心以外の何かに気を取られたように、ついと頭を前へ戻し、三叉路へ向かって歩き出す。 (そういえば、あいつも耳が黒かった気がする)  真っ黒な夜の道を、二つの生き物が付かず離れずの距離で進む。右に、とスマホが言う。猫は左のきつめに傾く坂を音もなく歩む。  夕心はバッグの中に、ペースト状の餌の余りがあったことを不意に思い出し、手探りで探し当てる。 「ほら、お前もこれ好きだろ」  三叉路の分岐点でしゃがみ込み、夕心は細長い袋に入った餌を、にゅ、と押し出しながら、左の坂道の先にいる猫を見ようとして、息を止めた。 ── 人が、いたのだ。  いや、正直に本当に生きた(、、、)人なのかどうかも判然としない。  ぱっと見では死装束のような着物姿の人間が、急斜な坂に心ばかりに備え付けられた街灯の下で、茫然と立ち尽くしている。 ニャア  猫が甘い鳴き声を鼻先で奏でながら、その物体の足元に擦り寄る。  足がある、猫が触れている、つまり生きている、とその人間の生の判断材料を掻き集める傍らで、夕心は未だにその存在を疑ってしまう。  今にも頽れそうな、ほっそりとした身なりに、青白く正気のない肌。白の対比となる、その真っ黒な髪と同じ色をした眼が、ゆったりとした動きで、しゃがみ込む夕心を見た。  月の中に全ての夜を詰め込んだような双眸は、どこまでも慈悲深く、それでいて夕心には空虚に映った。 「……こんばんは」  唇ばかりが音の形を辿って、かろうじて最後の音だけが、掠れながらも夕心の耳に届く。  華奢な身体に着流し姿の、一見、男か女か判別しかねる中性的な顔をした人間の声は、少し掠れながらも低かった。  久しぶりに声を発したことを恥じるように、ひどくぎこちない笑みを見せた男は、すぐに足元の猫へと視線を逸らした。 「生きてた、」  夕心にとっては彼の性別よりもまず先に、彼の生死の方が問題だった。  さすがに夕心は生まれてこの方、一度も霊という霊を見たことはなかったけれど、彼を最初に見た瞬間、夕心は、確かに死人かと思ったのだ。  夕心の思わず漏れた独白に、男が再び薄く笑んだ。 「残念ながら。」  その忸怩たる思いに塗れた顔が、いつまでも夕心の頭から離れなかった。
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