1.

3/4
前へ
/26ページ
次へ
# 「ちょっと夕心、なんで昨日来なかったの」  四限の出席カードだけをかざして、早々に講義を離脱した夕心は、その足で大学内の購買部へと向かう。その途中で、後ろから腕を絡め取られて捕まった。  ふわりと鼻先で甘い香りが揺れた後、その匂いを全身に纏った背の低い女が、夕心を膨れ面で見上げる。 「わり。やっぱバイト疲れて気分乗らなかった」  そう答えながら、夕心の脳裏には、昨夜、夕心の足に擦り寄りながらペースト状の餌をざらついた舌で舐めとる猫と、そのすぐそばで木偶の坊のように佇んで、終始ぎこちなく口端を持ち上げる男だけが蘇る。  なぜか昨夜のことを夕心は気兼ねなく話す気にはなれなかった。たとえそれが「ふうん」程度に流されてしまうほどの話だと分かっていても。 「あたしだって一次面接で疲れてたけど、ずっと待ってたんだからね」  いつもは聞き分けの良い女を演じている彼女が、今日は一瞬の間も無く突っかかってくる。  じゃあ呼ばなきゃいいだろ、という本音を夕心は飲み込んで、その代わりにしっかりと隙間なく化粧で埋め尽くされた彼女の顔を覗き込む。 「疲れてたのにごめんな。面接どうだった?」  会話には確かな正解不正解が存在している。  相手が求めている言葉をそれ用の表情を取り繕って弾き出せば、相手は勝手に気持ちよくなって夕心に心を許す。 「聞いてよ、それがさ」  案の定、女は、航空会社の客室乗務職の一次面接がいかに大変だったことから始まり、他の就活生がどうだっただの、面接官に多分気に入られたからいけるだの、夕心には極めてどうでもいいことをつらつらと話し続ける。  夕心は適当に相槌を打ちながらも、脳内では淡々と購買で買うものを選出していく。  若葉のついた銀杏並木が、さわさわと葉を重ね合わせて鳴る。食堂のテラス席から、若者特有の大きな笑い声が、中庭にまで響く。  扉が開けっぱなしになっている講堂から、マイク越しに教授の言葉がぼんやりと夕心の耳に届く。  購買部に辿り着き、軽食コーナーへと進もうとした夕心を、女が止める。 「待って、あたし先に本見たい」 「……本?」  女の口から初めて聞く単語に、夕心は思わず首を傾げた。そんな夕心を構わず、彼女は書籍部へと向かう。  購買部と書籍部は外からの入り口こそ違うものの、どちらかの中に入ってしまえば、基本的に行き来は自由にできる。  購買部の文具置き場を抜ければ、町の小さな本屋に似た部屋へと繋がる。  町の本屋と違うのは、圧倒的に若者向けの雑誌や本が多いことと、講義で必要となる参考書がずらりと並べられているところだろう。 「お前って本読むタイプだっけ」  一直線に小説コーナーへと進んだ女に問えば、彼女はあっさりとした様子で「全然」と答える。  夕心が幾度となく足を運んだ女の部屋に、本を見た試しがない。訝しげな夕心の顔を見上げ、彼女は子どものようにあどけない笑い声を上げながら続ける。 「今割りと本気で狙ってる男が本好きなんだよね」  女は書棚に並ぶ文庫本の背表紙を黒目で追いかけていく。  すでに目当ての本は決まっているらしく、そのカラコンの入った目の動きには無駄がなく、迷いもない。 「最初は話合わせようと思って読み始めたんだけど、ひとり好きな作家見つけちゃって今その人の読み漁ってんの。あんま出してないっぽいんだけどね」 「図書館じゃだめなの」  大学にはもちろん図書館がある。  書籍部からそう遠くない図書館で、レポートに必要な参考書などはなるべくまかなおうとする学生ばかりだ。  夕心の問いに、女は細長い爪先で、本のタイトルを次から次へとなぞっていく。その横顔が、彼女の爪に施されたネイルよりも満ち満ちとしていて、それが人が新しい何かに触発され、感化されている瞬間なのだと感じとる。 「図書館だと家に置いておけないでしょ。男連れ込んだ時に説得力ないじゃん」  あどけない顔で笑いながら計算高い女が「あった」とお目当ての本を書棚から引き抜く。  華やかな彼女の爪に引き寄せられたその本は、真っ白な装丁に灰色のタイトルが印字されている。  一見、見落としてしまいそうなシンプルな表紙は、白と灰色の中に、小さな水たまりのような、涙のような、青が数滴垂らされていることで、つい目を奪われた。 【『夜は眠らない』南森 春】 「ねえ、夕心、今日はバイト?」  一通り昨日の話を終えて満足げな女は、夕心の腕に手を絡めたまま顔を覗き込んでくる。 「今日は休み」  夕心の視線は、彼女の細い手首からぶら下がる文庫本の入った袋に向かう。 「けどお前、本命いるなら危ない橋渡るのやめれば?」  四限終わりの鐘の音が鳴る。一足先に講義を終えた学生たちがこぞって購買部へと吸い込まれていく。  夕心の上辺だけの気遣いに、女が頬を緩めて笑う。 「あたし、常に求められる対象じゃないと死んじゃう生き物だから無理」  潔さの中に、決して埋まらない穴が空いている。夕心は何も言い返さなかった。 ──……  シャワーを浴びた夕心は、ベッドの下に脱ぎ捨てられたシャツを拾う。夕心は日が傾く前に彼女の家に滑り込み、人間の三大欲求を八畳の部屋の中に押し込んだ。 「泊まってかないの?」  心地良さそうに毛布に包まる女は、ベッドの上に腹這いになったままシャツを頭から被って着る夕心を見上げる。 「まだ終電間に合うし、帰るわ」  上着を羽織り、ローテーブルの上に置いてあった財布とスマホを上着のポケットに押し込む。  ピンクのシャギーラグの上に散乱した化粧品や酒の空き缶に混じって、書籍部のロゴが入った袋からあの本が頭を出していた。  夕心は少しの間、無言でその本を見下ろす。 「夕心? どうしたの?」  動きを止めた夕心に、ベッドの上で頬杖をついていた彼女の声が滑り込む。 「いや、なんでもない」  夕心は本から目を逸らし、振り返ってベッドに腕を伸ばす。彼女の身体を通り過ぎ、ベッドサイドに置いてあった腕時計を手にとる。  女の柔らかな曲線は毛布に覆われている。夕心は、彼女の寝起きのままの髪に、指を滑り込ませながら言う。 「本命捕まるといいな」  不意の声援に女は目を丸くしたが、すぐに照れたように笑いながら毛布を口元まで引き上げて目を細めた。 「ありがと。夕心は優しいね」  心地よさげに間延びした声に、夕心は返事の代わりに口角だけ持ち上げる。  惰性に満ちた時間に終わりを告げて、夕心は女の家を出た。
/26ページ

最初のコメントを投稿しよう!

145人が本棚に入れています
本棚に追加