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 終電だったというのに、夕心は先日と同じ駅の改札をふらりと抜けていた。  上着のポケットに手を突っ込み、購買部で買った猫用の餌を指で揉むように押す。  以前よりも坂を進む足が軽やかなのは、音楽を聴いているからなのか、すでに知った道になったからなのか、あの猫と木偶の坊に会える確率を賭ける楽しみからなのかはわからない。 ── 夕心は優しいね  女の言葉を思い出し、夕心の心が急速に底冷えしてゆく。指先の柔らかなペースト状の餌の感覚が遠のいて、無意味に虚無が重なっていく。 「……優しいわけない」  真夜中に落ちた夕心の独白を、拾いあげる者はいない。  どうでもいいから、優しさを装うことができるのだ。  相手の目先の欲望だけを叶えて、一過性の充足感だけを与えて、相手がその先で相手が後悔しようが、焦燥しようが、夕心には関係ない。  端的に、相手にとって夕心の存在は悪魔も同然なのだ。  終わりの見えないなだらかな坂と同じく、際限のない暗澹たる渦から気を紛らわせるように、夕心は音楽の音量を上げた。  イヤフォンから流れ出る音が、微かに上がっていく夕心の息遣いから耳を塞ぐ。  暗がりの中に見える三叉路は、いつまでも終わらない山崩しの遊びに見えた。分岐点まで辿り着き、より急斜面の細道へと続く左手の道を見る。  車一台がギリギリ通り抜けられる急勾配な道は、突き当たりは雑木林になっていて、その手前に門扉が見えた。どうやら家があるらしい。  ただ今は、薄気味悪い街灯がひとつあるだけで、そこには誰もいない。  その事実がなぜか存外面白くなかった夕心は、ワイヤレスイヤフォンを引き抜いて、そのままポケットに突っ込んだ。  先日の時刻と擦り合わせるためにスマートウォッチで時間を確認する。 「……あー、やべ」  当たり前のことだが、すでに帰りの足はない。  夕心は今さらながら、後先考えずここに来た自分自身の奇怪な行動にため息をつく。この時代に約束のない出会いなどないに等しい。  仕方なしにもう一度女の家に戻ろうと連絡を入れようとスマホを取り出した時、にゃん、と跳ねるような鳴き声が聞こえた。  夕心が声のした方へ顔を向ければ、左の坂から猫が軽やかな足取りで降りてくる。 「ちょっと待って、猫、急にどこに行くの」  すました顔で夕心の足に擦り寄り、餌をねだる猫を心配するような声が、猫が降りてきた左の坂から降ってくる。  それからすぐに門扉が開く錆びた音がして、先日の男が出てくる。 「その三叉路は車が飛び出してくるから危ないって言ってるのに」  困った声色で猫に語りかけるような独り言を吐きながら、男は坂を降りてくる。  どうやら相手には坂の下に立つ夕心が見えていなかったようで、その目に夕心の存在を捉えた途端、木偶の坊のように固まった。  それから夕心の足に擦り寄って、ごろごろと喉を鳴らす猫を見て、少しの安堵を見せた。 「……こんばんは」  男は行く先を失ったように所在なさげにその場で立ち尽くしながら、夕心に二度目のぎこちない笑み付きの挨拶をする。  薄暗い街灯の下に見る男は、先日よりもちゃんと生きた人間に見えた。というのも、先日は白を基調としていた着流しだったのが、今日は小紋が入った濃紺の着物姿だったからだ。  夕心は内心に芽吹いた妙な兆しに自分でも気が付かないふりをしながら、男に問う。 「この猫、おにいさんが飼ってるの?」  夕心はしゃがみ込み、目を細めてぐるぐると鳴く猫の顎下を、指先で撫でてやる。  猫は夕心の足に耳裏を擦り付けるように、何度もその足元を行ったり来たりを繰り返す。 「飼ってない。夜になると家に遊びにくる野良なんだ」  夕心の問いに答える男の目線は、猫にだけ注がれている。その深い色の瞳は、猫に対する慈悲に満ちている。  夕心はポケットから猫用の餌を取り出す。途端に、猫は鼻先をひくつかせ、まだ封も切っていない細長い袋に夢中になる。 「飼おうとは思わないの?」  夕心は男にその言葉を投げかけると同時に、自問していた。蘇るのはバイト先の裏口でよく鳴いていた猫。  夕心は、あの猫をどうしたかったのだろう。  男がゆったりとした動作で、夕心の元に、というよりかは夕心の足元にいる猫の元へ歩み寄ってくる。  その恐る恐るといった男の足取りは、野良猫よりもよっぽど警戒心が強い。 「私には飼えないよ」  控えめな声は、死にかけの顔とは相反して上品な色を帯びていた。  ぺちゃぺちゃとペースト状の餌を細かく舐める猫のそばに男がしゃがみ込む。生きた体温が、深夜の空気に混じって、隣の夕心の肌を撫でる。  警戒しているくせに、唐突に隣へしゃがみ込む男の無防備さに、夕心は片方の奥歯を人知れず噛み締める。  小さく蹲るように膝を抱えて猫を見つめる男の顔を、夕心は覗き込む。 「どうして?」  夕心は彼に対して問いかけるばかりだった。  たいして人に興味のない夕心は、普段は会話を円滑にするため以外には質問などしない。  それなのに、夕心は無性に男の存在が気になってしかたなかった。──おそらく、男が生きてることに「残念ながら」と答えた、あの瞬間から。 「……大切な存在は作りたくない」  消え入りそうな男の声は、まるで自分に言い聞かせるような、戒めの音を持っていた。  けれど、むしろそれが、すでに目の前の猫を大切に思っている裏返しだということには気がついていない様子だった。  生きるのが下手なんだろうな。  夕心は隣にある男の顔を見つめながら思った。  中性的で、傷を知らない無垢で幼なげな顔立ちでありながら、全ての色を混ぜ尽くした果てに黒と化した眼は、虚ろとしている。  一心不乱に餌を舐めていた猫が鳴く。夕心はすぐに奥に詰まっていた餌を指の腹で押し出してやる。  再び餌に喰らいつく猫から、隣の男へと視線を戻す。 「そんな難しく考えて誠心誠意尽くしても、失うときは失うよ」  夕心は相手が求める言葉を与える。その方が相手にも自分にも有益だから。  ただ、今、この瞬間に限っては、夕心は、夕心の言葉を紡いでいた。そしておそらく男が欲しくもなかったであろう言葉を。  普段ならば相手の嫌がりそうな、不満げにしそうな言葉は間違っても言わない。それは相手が傷つくからなんていう優しさではなく、その後のフォローが面倒だからだ。  でも、今この瞬間において、夕心は受け取り手よりも自分の本音を優先していた。そのことに夕心自身も気がついていなかった。 「必死に足掻くよりも仕方なかったで片付けたほうが生きるの楽だよ」  そうやって夕心は生きてきた。  実際に楽だった。楽で、退屈で、無意味で、楽しくはないけれど。傷つくよりもずっと良い。 「……そうかもしれないね」  男は膝を抱え込んだまま、微笑んだ。猫のように大きくて目尻にかけて引き締まった目が、不意に綻んだ。  気がついたら夕心は、わずかに目にかかった彼の前髪を指先で掬い上げていた。  ゆるりと細められていた瞳が、いきなり触れられた驚きで、丸さを取り戻したまま固まる。 「──俺のバイト先にも野良猫が来てたんだけど」  夕心は、男の黒い髪を指先でこめかみの方へ流す。ジ、ジ、と街灯に虫がぶつかる音がする。  風も車の通りもない真夜中の三叉路は、まるで時間を止めたようにふたりを夜の底へ溶かしていく。 「突然来なくなったんだ。猫は死ぬ間際になると姿を消すっていうだろ。迷信かもしれないけど。それかなって。まあ、来なくなったからどうってわけじゃないんだけど」  夕心はぽつぽつと話しながら、自分が一体何を伝えたいのかわからなかった。わからないけれど、話したかった。聞いて欲しかった。  突然世界にぽとりと落とされたような、この男に。 「野良猫に気まぐれで餌をやるなんて、偽善だろ。飼う気はないくせに、その場だけは餌をやって、自分が満たされてる」  夕心は優しいね、と微笑む女を思い出す。  優しい、良いやつ、と告げられた言葉と安心しきった彼らの顔を反芻するたび、夕心の中で裏切りという幹が根を深めていく。 「自分が楽に生きるために常に周りを裏切ってる」 ── どんなに巧みに誰かを騙そうとも、決して自分だけは騙せない。  高校時代に日本史担当だった教員の雑談中に零された言葉は、今でも時々、夕心の心を横切る。  そうやって気が付かないふりを続けても、引き出しの中に押し込んだ荷物はいつか収まりきらなくなって溢れ出す。  夕心の目に映る、無垢な猫が、徐々に形を崩していく。 「俺は誰よりも残酷な偽善者なんだと思う」  夕心が見る景色が朧げになっていく。世界からぽっかりと切り離されたように、解像度の下がった風景は水彩画でぼかしたように、夕心の五感と共に離れていく。 「きみも十分、難しく考える(たち)なんだね」  柔らかな男の声が、夕心の鼓膜を優しく撫でた。我に返った夕心が隣の男へ顔を向けると、彼は、ただじっと、夕心を見つめていた。  蟻の行列を見守る幼い子どものような格好で、ぎこちなく男は微笑を浮かべる。 「その猫の目にはきっとずっと、きみは優しく映ってた」  男の言葉に、夕心の記憶が引き摺り出される。バイト先の裏口にある薄暗い路地で、夕心の手から嬉しそうに餌を舐めとる猫が。  封じ切っていた引き出しがぐらりと傾いて飛び出す。  水平線を保っていた海に、小さな波紋が生まれる。徐々に大きくなっていく波紋に堪えるように、夕心はそうっと下唇の内側を噛む。  隣の男は、猫の頭を不器用な手つきで撫でながら、優しさを包んだ声で呟く。 「この()の目も、」  昼の陽光を残した風が、ふたりと一匹の間をすり抜けていく。ずっとしゃがみ込んでいるで、足の感覚を失っている。それでも夕心は、男から目を逸らせなかった。 「"きみは優しい"って私に教えてくれてるよ」  夜の寂しさを覆うような慈悲深い男の微笑が、夕心の目に焼きついて離れなかった。
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