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 その日は春の風が強かった。  歩道と車道の間にある花壇に埋め込まれた花が、風に乗って時折、強烈な甘さを含んで夕心の鼻を刺激する。  青空まで届きそうな高層マンションのいくつかのベランダには、洗濯物が干してあったり、布団がかけられたりしていた。 〈丹敷も昨日のバーベキューの写真あったらグループラインのアルバムに載せといて〉  同じサークルの末永から入った連絡に〈了解〉とだけ返す。基本的に写真を撮らない夕心には送る写真もないのですぐにトーク画面を閉じた。  就活の息抜きだと銘打ったゴールデンウィーク真っ只中のバーベキューは、軽い地獄だった。  レンタカーの駐車で並び、場所を奪い合い、酒と解放感から品の欠片もない笑い声が飛び交う異界の地。ゴミの山。  無理にはしゃぐ友人たちの頭の片隅には、拭いきれない将来への不安がこびりついている。  夕心は肉が焦げる匂いと煙たい空気の中で、アウトドア用のチェアに座って、さして好きでもない酒を舐めながら、仲間内の潤滑油としての役割を果たす。  ひっきりなしにインカメのスマホが向けられる。その度に義務的に口角を持ちあげていた夕心は、不意にあの夜の男とのやり取りを思い出して、口端の引き攣りが緩んだ。 ───……  友人から飲みの誘いが入ったスマホに、夕心はついでに迎えの足も頼む。  隣の男は、アスファルトの上で腹を見せて寝転がる猫の身体を、嬉々として撫で回している。 『ね、おにいさん』  一度ブラックアウトした画面を再び明るくした先で、夕心は隣の男にスマホを示しながら訊いた。 『おにいさんの連絡先教えて』  夕心の気軽な問いに対して、男は困ったように眉尻を下げる。 『申し訳ないんだけど、そういうのは、その、持ってないんだ』 『そういうのって、え? もしかしてスマホ持ってないの?』  タイプでもない男を躱すときの女のわかりきった常套句かよ、と思った夕心だったが、『うん』と男があまりにも無垢な顔で、気恥ずかしげにはにかむから、それが嘘ではないとわかる。 『……いや、』  それから、夕心は一瞬間の我慢も虚しく、ひとしきり自由気ままに笑った。 『いやいやいや、おにいさん、キャラ徹底しすぎでしょ』   亡霊のような着流し姿の中性的な顔をした男は、まるで本当に突如としてこの時代に落とされた存在に思えてしまう。  そう思ってから、夕心は、今こうして、その時代錯誤の男と一対となっているのが自分であることに、微かな優越感を覚えていた。 『じゃあせめて名前教えて』  夕心はしゃがみ込んだ姿勢のまま、太ももの上に頬杖をつく。  一方で隣の男は、小さな子どものように膝を抱え込んだまま、その膝頭に、顎をちょこんと乗せる。自然と上目遣いになった男が、夕心を見上げ、少し躊躇ったのちに言った。 『仕名野(しなの)』 『苗字? 下の名前は?』 『……椿(つばき)』  椿、と夕心は口の中でその名前を転がす。  飴玉のように舌先に甘みを感じて、夕心の口元が綻ぶ。  顎下に添えた手でその笑みを覆い隠し、何事もなかったかのように夕心が『俺は』と名乗ろうとした途端に、彼は『大丈夫』と夕心の声を遮った。  きょとんとする夕心に向かって、椿という花の名前がついた男は、今までになくはっきりと唇を動かした。 『いい。大丈夫。きみの人生に私の名前は必要ない』  柔和な表情の中に埋もれた頑なな意思に、夕心は先ほどとは打って変わってひどくつまらない気分になった。 ──俺は猫じゃねえよ。  
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