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#  夕心が目が覚めた時には、すっかり日は傾いていた。縁側に眩いほど差し込んでいた自然光は橙色へと温度を変え、夕心の身体には使い古されたブランケットがかけられていた。  深く眠れたからか頭がすっきりとしていた。 「椿?」  縁側の奥にも、仏間にもその姿は見えない。  起き上がった夕心は伸びをしながら平屋の中を、椿を探し練り歩く。客間の隣を覗けば仏間だった。  ほんのりと部屋に線香の匂いが染みついた部屋は襖で閉め切られていたからか、肌寒い。客間に戻り、戸を開けた先には表玄関があった。  奥の通路を進むと左手には布団の敷かれた和室があり、その隣は妙に埃っぽく乱雑した書斎があった。右手はダイニングキッチンになっていて、扉を隔ててその奥は浴室があった。  廊下の突き当たりはお手洗いになっていたが、どこにも椿がいない。  表玄関に再度足を運び、行儀悪く靴下のまま上り框から土間に降りる。 「椿ー?」  玄関を開けて名前を呼べば、そこに椿はいた。正確には平屋の隣にある小屋の前で、煙草をふかしていた。  北向きで火の当たらないそこで、椿が唇から吐き出す紫煙だけが白く浮かぶ。  椿は夕心に気がつくと、朗らかに微笑む。  その仏にも似た柔和な表情と、右手に収まる煙草が不揃いで、再び夕心の頭がバグを起こしそうになる。 「よく眠れた?」 「うん。おかげさまで」  椿の顔と煙草を交互に見ながら、夕心が椿の元へ行こうとすれば「靴下のままじゃ汚れるよ」と椿に待ったをかけられる。  椿のことに気を取られて、すっかりそのことを忘れていた夕心は、その場で立ち止まる。 「私が戻るよ」  椿はまだ半分以上残った煙草を、小屋脇にあった屋外用のスタンド灰皿に押し付けると、夕心のもとにやってくる。  椿は夕心の脇を通り越す前に「ちょっと待ってね」と自分よりも背の高い夕心の肩をぽんぽんと叩く。 「小さいけど、汚れるよりはいいと思うから」  椿は表玄関から、突っかけサンダルを手に戻ってくる。  夕心がつま先を蹴って跳ねれば、一歩で土間に飛び込めた距離なのに、椿は律儀に突っ掛けサンダルを夕心の足元に揃えて置く。 「椿、煙草吸うんだね」  お礼のついでに夕心が付け足した言葉に、夕心がサンダルに足を通す様を見下ろしていた椿の目が、ふと、揺れた。  ただその口元が人形のように口角を上げていたせいで、感情の最奥は読み取れない。 「うん。私が煙草を吸うのは意外?」  サンダルから随分と踵の飛び出た夕心の足元から、椿が顔を上げる。  深い夜を飲み込んだような椿の眼は、どんな言葉を捧げれば色づくのか、人の機微を読み取る能力に長けた夕心にも、ちっともわからなかった。  わからないことはいくら時間をかけてもわからないので、夕心は肩をすくめて軽く笑う。 「残念だけど意外と思えるほど、まだ俺は椿のこと知らない」  夕心が片眉をあげて同調を求めれば、椿は、ふ、ふ、と声をあげて笑った。  笑い方までも不器用で下手くそなその姿が、夕心の心を不思議と満たしていく。 「それはそうだ」 「それに椿は自分のことを俺に教えてくれそうもない」 「うん」  椿は口元に手を添えて笑ったまま、頷いたきり言葉を続ける気配はない。  ふたりで縁側へ戻り、椿がカーテンを引くのを真似て夕心も反対側から縁側に差し込む光を閉じていく。  直線のカーテンレールは、必然的に椿と夕心を真ん中で引き寄せる。ありがとう、と笑った椿に夕心は言った。 「明日も椿に会いにくるよ」  昼寝をしたせいか夕心の頭はすっきりと冴えていた。  誰かと会うのは自分にメリットがある時だけで、夕心の目の前にいる椿という男が、それに該当するとは言い難い。  椿は何も言わない。いいも悪いも、何ひとつ。夕心がどう動こうと椿は変わらない。  だったら動くだけ無駄な足掻きになるのに、夕心はその最適解を手の内に隠した。 「俺が好きなように椿を知っていくのは、俺の勝手だろ?」  理由なんてわからなかった。 「そういえばコンビニで買ったやつひとつも食べてない」 「冷蔵庫に入れておいたよ」 「え? 全部? 袋ごと?」 「うん」 「椿、メロンパン冷やす必要は絶対ない」   ただ、強いて言うならば、人生で初めて縁側の昼寝が気持ちよかったのと、使い古されたブランケットが思いの外暖かかったからだと思う。
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