4人が本棚に入れています
本棚に追加
Ⅱ
「ハミィ、一年間よく生き抜いた。これからは自由に、思うように生きろ」
スタードラゴが移動扉を開けると、夏の残り香をのせた風があたしの髪をなびかせる。
あたしハミィは、一年間なんと生きていた! 一年前、食べられておしまいのはずだったあたしは目の前のドラゴンの男性から”誤解”の話を聞いて、そのままこの渓谷で暮らしを共にした。
最初こそ騙されているような気がしていたけれど(あたしを太らせてから食べる気なんだ等々)、この渓谷の妖魔たちは優しく穏やかで物知りで、彼らと過ごす時間はとても楽しかった。あんなに危険なモノと教え込まれてきた妖魔たちにはいいモノと悪いモノがいるということを知った。人間と同じようにいいモノと悪いモノがいて、いいモノといっても人間の親切に近いもので、やはりみんな悪戯やからかうのが好きで……昔の女の子たちはそれすらも怖かったのかな。死んだ子や逃げて食べられた子もたくさんいると聞いた。
でもあたしは、こんなあたしでも仲良くしてくれる子が好きだ。だからこの渓谷の妖魔たちは怖くなかった。
今日この日この時は、でも実は丸1年ではない。その日は3日後だ。だからあたしはまだ3日いられるとも思うのだけれど、これもスタードラゴの考えだそうで。新しい子を迎える準備と、それと、本当にギリギリまで居続けると、その子と仲の良いコが期待してしまうから、引き止めてしまうから、だそうだ。だからお見送りもスタードラゴだけだ……あたしなんては、引き止めてくれて構わないのにとさえ思ってしまうのにな。
ここを出るのはとても寂しい。野草に詳しいライトエルフ、家事を教えてくれたシルキー、よく遊びに誘ってくれたピクシーたち……みんなと離れがたかった。
そして、ホブゴブリンのおにいちゃんとも。
ドラゴンの男性、スタードラゴ(彼は名前を持っていないので勝手にそう呼んでいる)に屋敷の外を案内してもらうって時、外に踏み出したあたしに一番初めに声をかけてきてくれた。おぶってもらったお礼を言うと、なんてことないと笑っていた。
それからも彼はあたしを気にかけて、近すぎない距離感で見守ってくれていた。更に彼は数字だとか図形に強かったのでスタードラゴから直々に指名を受け、あたしの計算の先生でもあった。
重ねる時間の中で、”ホブゴブリンのおにいちゃん”から”おにいちゃん”と呼ぶことに成功し、最初は嫌がられたそれが彼にも浸透するころには、あたしのこの気持ちは、兄妹のそれを飛び越えた。
けれども、元々期限付きの暮らし。人間の訓練を終え、生きたい場所を見つけたあたしはここを旅立つのだ! 新しい生活はやっぱり不安だけど、それ以上にわくわくする。
「それじゃあ最後の儀式だ」
スタードラゴが指を掲げ、どこか肌を出すよう言われる。なので襟元を寛げると彼は喉の下、鎖骨のあたりに何やら書き記した。
「これは何?」
「お守り。オレの”魔法印”さ。何か困った時これに魔力を込めればオレが気付く。別に一生は残らないから安心しな。お前を大切にしてくれて、お前にとっても大切なヒトが現れたら自然に消えてゆくから」
「それはコイビトが見つかったらってことかしら?」
「ふふ、そうとも言うな!」
スタードラゴが悪戯っぽく笑う。その笑顔を見ていると、目の前のこの姿は変化で、本当の彼はドラゴンだということを忘れてしまう。(事実、あたしは彼が変化を解きその背に乗せてくれた時でさえ、そのまま空を飛んでいた時でさえ、同一人物だという事実をしばらく飲み込めなかったのだ)
「ねえ、本当にもうここには来れないの?」
「うん。悪いが自由に出入りさせることはできない。もう昔のような過ちを増やすわけにはいかないし、何よりここは妖魔の秘密の、”不見の渓谷”だからな」
さあ、昼になっちまうぞ、と彼があたしの背をそっと押し、扉へ促す。
この扉をくぐれば、あたしはきっともう一度ここに来ることは叶わない。そしてあたしがここを出て行くので、スタードラゴの花嫁探しはまだまだ続く。というより彼にその気があるのだろうか? あたしのように渓谷に来る女の子の誰かとケッコンするという気が。だって彼は確かに、あたしの監督者であり、先生であり、そして、父だったのだ。スタードラゴだってまるできっとそんな気持ちでいるのだ。この”魔法印”、彼にこそ必要なんじゃない?
ケッコン、か……
あたしを大切にしてくれて、あたしにとっても大切なヒト。
スタードラゴの言葉が頭の中を巡る。そんなヒトが見つかるのかな。……現時点で一人、もういるんだけどな。
「じゃあこの”魔法印”はしばらく消えないと思うわ……ねえスタードラゴ、彼に会ったら伝えてほしいの。あたしね、本当は……」
――
「”ホブゴブリンのお嫁さんになりたかったんだ”、だってさ」
その言葉に顔をしかめた。
「何でそんな顔するんだよぉ。いいじゃないか。おにいちゃんのお嫁さんになる、だなんて可愛いの」
「ちょっと抜けてる奴だなとは思っていたけれど、ここまで馬鹿だとは思ってなかったぜ。何でおいらなんか……あいつは人間、おいらは妖魔だ。あっちにはおいらなんかより良い男、ゴマンといるだろうよ」
そう、おいらは毛だらけのホブゴブリンで、あいつは宝石みたいな綺麗な人間だ。おとぎ話でもあるまいし、釣り合うわけがない。というかあいつのことは最早妹みたいに思っている。そういう好きじゃあないし、あいつの好きも果たしてそういう好きかどうか。
……いや、そういう好きだったらおいらは一体どうすればいいのだろうか? 自問自答し、どうもしないと首を振る。だっておいらは……
「年頃の娘になってもあんなだったら迎えにいってやれば?」
「他人事だと思いやがって」
にやにやしているスタードラゴを一睨みし、おいらは紅茶を飲み干した。
最初のコメントを投稿しよう!