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Ⅴ
アトラの来店数が増えた。
最後に数えた時60本だった薔薇の花は改めて数えると88本にまで増えていて、返事の日が近づいてくるのが視覚的に分かってしまう。
「あいつ本気出してきたぞ」
花瓶の水を替えたあたしの背におにいちゃんの声がかかる。
「どーすんですか? お嬢さん」
「何を言われても今さらあたしの心は変わらないわ」
あたしのそっけない返事に、おにいちゃんは何か言いたそうに眉をひそめたけれど、半端に開いた口を閉じ食器を棚に片づけるのが横目で見てとれた。
ツンと返したものの、あたしの心は重かった。聞いていないし言われてもいないけれど、おにいちゃんは多分、あたしとアトラの一件を見届けたら渓谷に帰る気でいる。
ああ、揺らぐことはないと思っていたのに、改めて、答える気がないと言われるとキツかった。
靡かない初恋のヒトと、一途に気持ちを伝えてくれる人……薔薇の赤色は雄弁に、あたしに愛の言葉をささめいてくる。
彼のことは好きか嫌いかで言えば好きかもしれない。でも、恋愛的な好き、までいかない男のプロポーズを受けるのは失礼だと思う。嘘になると思う……全く、何て言ってやればドラマティックに振ってあげられるだろう? 気の利いた言葉の一つも浮かばない頭をさすりながら、店に出た。
今日も薔薇の花を貰って、夕刻。
あたしは何月かに一回商品の仕入れ旅行に出かける。アトラとは出先の、海岸沿いの町の蚤の市で出会った。彼から話しかけてきて、話が弾んで、宣伝のつもりで渡したストアカード……まさかその日限りでなく、10日もしないうちにやって来るなんて思わなかった。上等な服は旅行用だと思い込んでのことだったから普段着だと知って腰を抜かしたのを覚えている。
彼もよく、あたしを諦めないものだと思う。あのゴリラですら、おにいちゃんと鉢合わせたあの日から顔を合わせる頻度が減ったように感じるのに。このまま律儀に108本渡し切るつもりだろうか? その間にあたしの気持ちが変わると?
でもあたしは本当に、店に来る客や道行く人々や、言葉を交わす人の隣に自分を置いてみたことなんてなかったのだ。だってあたしには……
ちらりと視線をやった先、レジ横の脚立。おにいちゃんは絵本をめくっている。絵本にしては少し厚いその本を、これまた絵本を見つめているにしては真剣な面持ちで眺めている。
だってあたしには、おにいちゃんがいると思っていたから。
綺麗な橙色が窓から差し込み始める。店じまいだ、と扉に視線を向けたその時、来店のベルが鳴った。
羽根付き帽をかぶった上品な紳士が立っていた。彼の背後、店の扉向こうには従者と思しき男の人が居住まい美しく控えている。
あくびを一つしたおにいちゃんも来客を見とめる。
「いらっしゃいませ……あなた様が本日最後のお客様ですよ」
紳士はおにいちゃんを一瞥し、真っ直ぐあたしを見つめてきた。こちらの頭の中も見透かすかのような鋭い目だ。
「ハミィさんですね」
声は深いバリトンヴォイス。
「恐れ入りますが、あなた様は?」
「おや失礼、こちら側にはあまり出向かないから見知ってはいませんか……私はこの地域の貴族院議員にしてこの街の石工業を取り仕切っておりますカロラネル=ピアニーユです。息子がどうにもこちらに熱心に通っているようなので、立ち寄ってみたのです」
その言葉にぎょっとする。アトラの父親、侯爵様だ。実際にお見掛けするのは初めてだ。
「お会いできて光栄です、ピアニーユ侯爵」
形式的な挨拶に「私もです」とにっこり笑う侯爵様は、夕日を背にしているせいか少々不気味だ……
「改めまして、本日はどのような御用向きでしょう?」
「なに、私も一人息子が夢中になっているレディがどんな方なのか興味がありましたのでね。貴女のことを少々、プライバシーに引っかからない程度に調べさせていただきました……孤児だそうじゃあないですか」
その言葉に心臓が凍った。
「親代わりのおばあ様は老衰、現在お一人でこの店を切り盛りしていらっしゃり、独身……お一人で迎える終わりほど寂しいものはありませんよ?」
「……すみません、お答えいたしかねます」
「何、恥じ入ることはありません。こちらのご婦人はできた方だった。だから貴女も慕っていたのでしょう? ただ彼女は終生独り身だった……だからこの店を遺して、貴女は彼女の恩義に報いようとしている。しかしながら貴女も彼女と同じ道を辿る必要はない。結婚して子供をもうけ幸せになる権利は十分にある」
「は……?」
一応真剣に聞いてはいたけれどその言葉にカチンときた。プライバシーに引っかからない程度と言ったが、調べている時点で、おばあちゃんのことまで……生前のおばあちゃんを知っているのだろうか? とにかく十分プライバシー侵害だ。これは度が過ぎる、土足で入り込みすぎだ。
と、不意にあたしと侯爵の間におにいちゃんが割って入ってきた。
「侯爵だか伯爵だか知らねえが、てめえにこいつの何が分かる。こいつには助けてくれる友達も、気にかけてくれる常連客もいるんだ。手前勝手な杓子定規で、こいつに入り込んでくるんじゃねえ」
「貴方は?」
「こいつの兄貴分だ」
おにいちゃんと侯爵が無言で睨み、見つめ合う。オリーブドラブとセージグリーンが鋭くぶつかり合い、まるで視線で切りつけ合っているように見えた。
「そうですか。ではどうぞ、お引き取りください。これは我らの話です」
「あ?」
おにいちゃんの声音に苛立ちを感じ取った時にはすでに遅く、おにいちゃんの右手は侯爵の襟元を掴んでいた。あたしがおにいちゃんにすがりつくのと、相手の従者が扉を開けて店に足を踏み入れるのはほぼ同時だった。
「だめ、やめておにいちゃん、分が悪いわ……お帰りください、残業は極力しない主義なんです」
あたしの言葉に、ふーっ、ふーっと低い呼吸を繰り返していたおにいちゃんは舌打ちしてやっと手を離した。侯爵の従者も一言二言話しかけ、退店を促しているようだ。「それでは、本日のところは失礼しましょう」という言葉にどれだけ安堵したことだろうか……
侯爵があたしに向き直り、腰を折り、顔を合わせてきた。セージグリーン色の瞳があたしを映す。
「ハミィさん、アトラの求婚を受けてくれた暁には、私は貴女の抱えている金銭面での問題を解決できる。切り詰めているのでしょう? ここは中々良い立地ですものね」
……自分の息をのむ音を聞いた。従者が扉を開いてベルを鳴らした。
「どのみちお返事の刻限も近づいているようですし、どうぞよろしく」
そう言ってピアニーユ侯爵は夕焼けの橙に紛れて行った。
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