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「借金、あったのか」
夜。ダイニングテーブルに向かい合ったおにいちゃんが口火を切る。
「見つかったおばあちゃんの遺書には、店を売ったらほぼ同額だろうって書いてあった。実際見積もりをしてもらったらそうだって……おばあちゃんには家族がいない。だからあたしに委ねられた。
あたしはここを守る気でいる。この店はもうこの街の景色なんだ。生活は楽ではないけれど、集金の手紙が来たら少しづつ払っているから取り立ては来ないし、何とかやってるって感じかな」
「その分削るのは食費か」
じとりと、おにいちゃんの視線があたしの全身を舐める。
「つまるところ良い物件なわけか、あの金髪男。……もういっそ決めちまったら? 嫌いではないんだろ」
「だからあたしは! ……アトラは良い人だけど、あたしの気持ちは彼には、、、彼にも、向いていない……」
……沈黙。柱時計の秒針。家の外の風の音。
「邪魔だったな、おいら」
紡がれた意外な言葉に瞠目する。
待って、何でおにいちゃんが悪いような言い方をするの? 何でおにいちゃん自身が、あたしから好きなヒトを消そうとするの? 何であたしはおにいちゃんを好きになってはいけないの?
「今までの渓谷卒業者、そいつらに呼ばれる我らが星竜に、そいつらと仲の良い奴がついていくことがある。でもお前のところにはスター以外に来なかったろう? 若いお前は他の卒業者と違って人間と妖魔の別が付きづらくって、関係ねえ外の奴に付け入られやすい。おいらたちのことは思い出としてしまい込んでほしくて、人間として生きてほしくて、みんな行かないんだ。
でも結局、おいら、来ちまった。だってお前、未だに恋人らしい人間がいたことがないって聞いたから。
おいらもおめーは気に入ってるさ。だがこれは恋じゃねえし、妖魔と生涯ともにするなんて軽はずみなこと言うんじゃねえって言ってんだ」
「妖魔と結婚したら不幸だって誰が言ったのよ。メローだってニンフだってピーテルだって人間との婚姻譚持ちじゃない」
「ならおめーはその続きを知ってるか? 一緒になって、場合によっちゃ子供を持って、その後どうなった? ……ねぇんだよ。おとぎ話の、”死ぬまで笑って暮らしました”、が。メローやセルキーなんて帰巣本能でいずれいなくなっちまうし。
そもそも、人間と妖魔との間に生まれた子供はヒトじゃあねえ。人間が、てめーらの姿じゃない奴らを仇みたいに嫌うの……てめーらよりも劣る奴らを蔑むの、おめーなら知ってるだろ? それに魔は魔を引き寄せる。だから良くねえんだ。同族選べってのはそういうことだ。ちゃんと現実見ろ」
「現実なんて、嫌になるくらい見てきたわよ。差別、偏見、金銭苦、噂話に他所の借金取りの怒鳴り声! そんな中で幸せを望むことは罪? あたしはあたしの幸せに、おにいちゃんにいてほしいだけなのに」
「そんな中で人間の女としての幸せを掴んでこそだろ。分かんねえかな。おいらといたら人並みの幸せなんざねえって言ってんだ」
「……何でそんなに頑ななのよ」
「……何でそんなにこだわるんだよ」
あたしもおにいちゃんも、互いを睨むように見つめ続ける――また沈黙だ。
柱時計の重厚な音が7時を知らせた。
「幸か不幸か二人の男に言い寄られて。あいつらが気に入らねえなら自分で探すか、運命の誰かさんを待つかだろう」
「……人間にはそんな長い時間はないわ」
「なら尚更じゃねえか。どうせいつかは決めるんだ、せいぜい悩みやがれ」
それに、と言いよどんだ末、その割に言い切られた。
「合わなければ、別れればいいんだから」
「そんな生半可な恋ならしたくない!」
あたしは我慢できず立ち上がった。そんな言葉、よりにもよってあなたからは聞きたくなかった。
「おにいちゃんは長生きだから、あたしには到底比べようもないほど色んな物事を見てきたからそんなことが言えるのよ! 人間は短命よ。あたしはその一度きりのあたしを、あたしなりの答えの中で後悔なく生きたい! 折角拾われた命を生き抜きたい! 気ままに、思うように生きているおにいちゃんには分からないわ! いや、分からないでしょうね。強くて、何でも知っていて、悩みなんてなさそうだもんね!」
激情のままに一息に言い放つと、おにいちゃんがテーブルを拳で叩いた。
「それ……本気で言ってんのか?」
脅しになんか屈しないぞという意思は、ゆらりと上げられた顔の、その中心でぎとりと光る眼を見た瞬間凍り付いてしまった。
「気まま? まあこれはそうだわな、間違ってねえ。悩みなく、好きなように、だぁ? 抜かしやがって……」
勢いそのままに立ち上がり歩み寄ってきたおにいちゃんはあたしを見据えたまま胸倉をつかんできた。否応なしに合わせられた瞳が怒りに打ち震えていた。
「いいかよく聞きやがれ、おいらはなぁ……工学の魔法使いになりたかったんだ!」
真っ向から怒号が、あたしを通りぬけ空気を裂いた。
「けどおいらは生まれ持ってのホブゴブリンだ。表舞台に立つことのねえ田舎者、悪者と混同される清教徒の悪魔! 年月だけを悪戯に生きて、披露する機会もねえ知識蓄えて、果てしない暇つぶしの真っ只中だ……おいらに言わせりゃあ有限の人間こそ羨ましい。選択肢たくさんあって、明るいところで歓声浴びて、死んだ後ですらそいつの功績が称えられて、それがどれだけ羨ましいことかお前知ってるかよ!
スピカが……スターが、何でおいらに花嫁の手引き役をさせてたか知ってっか? おいらが足が遅くて人間でもついて来れること、空間魔法が使えるから逃げられても捕まえられること、でも一番は、おいらが昔人間を憎んでいたからだ……! おいらたちにねえ良いモンたくさん持ってるくせにあれもこれもって、不死だとか永遠の幸運だとかないものねだりばっかで、果てには自分たちを良く見せるために宗教はおいらたちを悪に染め上げた! こんな勝手なことがあるかよ! 蔑み、侮り、忌み嫌って……だからやり返した、やられた分以上をやり返した! 結果としてホブゴブリンの悪い方の評判上がった気はするがそのくらいしないと腹の蟲が収まらなかった!」
おにいちゃんの身体から魔力が溢れてしまっており、それに当てられポルターガイストが湧き起こる。棚や調理器具が音を立て、鏡が割れ落ちた……なのに目を逸らせない。逸らせるはずがない。
「そんなんだったおいらに花嫁の手引きを任せたスターは相当変わりモンだと思ったが、結構あれで考えられてたんだな。色んな奴らの手を取ってきたぜ? 攻撃してくる奴、振り払って逃げようとする奴、震えてる奴、しゃがみこんで動かない奴、ずっと泣いてる奴、、、妬みはいつの間にか削がれちまって、好きに生きたいって点ではこいつらも同じかって、ないものねだりはおいらも同じじゃねえかって。
生まれは変えられなくても運命は選べんだよ! その運命を選ぶのは神様じゃなくおいらたちだ! 一人だったおいらを誘ってくれたスターについて行かないことだってできた、けどおいらは自分で選んで渓谷にいる。誰に指図されたわけじゃねえ、ちゃんとおいらが選んだ運命だ! だからこそおめーにも出会ったし今こうして会いもしてる。そのことに後悔なんてねえ! けどお前はこれからだろ!
ちっちゃい頃に捨てられて、足が悪くてもろくに治療も受けれないで、スターの生贄にされて、、、傍から見ても散々な人生で、でもお前立派に生きてるじゃねえか! 友達がいて、慕ってくれるやつがいて、生活ちょっと苦しかろうが笑って生きてるじゃねえか! お前は! 笑ってるべき人間なんだよ!
宝石みてえな目ぇしてよお、ムースみてえな肌してよお、おいらにねえものたくさん持ってるくせに! その気になればどこへだって行けるくせに! 折角の命を後悔なく生き抜きたいなら、おいらなんかで人生棒に振るんじゃねえ! 絵空事ばっか考えてんじゃねえぞぉ!」
怒号がびりびりと肌を震わせ、声も出なかった。
はっと我に返ったおにいちゃんの手が緩み、舌打ちが一つ響く。
「結婚話はおめーが決めろ。今夜は外にいる」
あたしを離し、横を通り越したおにいちゃんが裏口に向かっていく。その手が指を振り上げると、転がった小物や調理器具が元の位置に戻ってゆき、割れたものは一ヵ所に集まった。
扉の閉まる音がした。
おにいちゃんは、人間になりたかったのだろうか。
渓谷にいた頃は、そんな劣等感つゆほども見せなかったくせに。
昔々の花嫁さんたちと一緒にいる時は苦しかったのかな。ならあたしに優しくしてくれたのは……もう角がとれて、優しい気持ちになったおにいちゃんだったからなのかな。
つまりあたしは運が良かったのかな。
砕けた鏡の、一番大きい欠片を拾い上げる。そこに映る自身の姿を”見る”。
「スタードラゴ、これどうしたら消えるのよ」
鎖骨の、彼の魔法印が青白く光る。ただそこに存在するだけで、何も教えてはくれない竜の加護。
「好きなヒトが目の前にいるのに、薄れもしないじゃない……」
一番近いのにこんなに遠い。あたしが妖魔だったら、もしかしたら……最早何にもならないたらればを考えながら、それがたらればであることに少し泣いた。
それは間違いなく、あたしの初めての失恋だった。
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