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Ⅶ
冬の間のクエレブレはあまり活動せず、ほとんど眠ったようでした。
冬の山は雪深く、脚の半分以上をうずもれながら進むしかありません。氷と風が入山者を阻むので、冬の山とは閉ざされた場所なのです。とはいえこの間にシャナは逃げようと思わなかったのでしょうか。
シャナの厄介な問題は解決してしまったので、もういつでもシャナはこの洞窟を去ってもいいのです。なのにシャナは、天から降る雪がなくなり、地に積もった雪が密度を減らし水となり、山野を潤し植生が芽吹いても、クエレブレの隣におりました。そんなシャナをクエレブレはどんな眼差しで見つめていたことでしょう。今後も自分の隣にいてくれるのではないかと胸を弾ませていたのでしょうか。そろそろ出立の頃と考えているのでは、と彼女の腹の内を推し量っていたのでしょうか。いづれにせよ、この自分に正直なクエレブレは、シャナと共にいたかったので、きみの心配事はなくなった、これで人間の町に戻れるね、という一言がどうしても言えずにいたのでした。(あのベイルは、あの日からしばらくして、持ち帰りそびれた荷物を恐る恐る引きとりに戻った際、あの日から3日ほど町内を彷徨った末に町を去ったと親切な露店の店番から聞きました。)
シャナはどうだったのでしょう。きっと彼女は、どうにも、クエレブレの許しがなければ山を下りることは叶わない、とも思っていたのでしょう。そして、別れを切り出すのが恐ろしかったのでしょう。
だってドラゴンは人を食べるモノですから。
その日の晩は、冬の忘れ物か、小さな吹雪が吹いておりました。雪の密度は薄いものの、ずっと当たっていては凍傷をこしらえる、そんな吹雪でした。
洞窟の奥では篝火がその炎を揺らめかせ、二人をゆったりと温めております。吹雪の小さな唸り声と火の爆ぜる音、二人の呼吸音ばかりが聞こえています。
と、クエレブレの鋭敏な感覚が、遠くに気配を感じました。
一人でしょうか、何かが、荒い呼吸音を吐き出しながら、こちらにやってきます。
ああ、とクエレブレは思いました。この感じを、彼は知っておりました。
山越えをしてきた旅人が、洞窟口に立ち、座り込んだのでした。歯を鳴らし、身体をさすり、息を整えているようです。
クエレブレは葛藤しました。久しぶりの獲物としての人の匂いが鼻腔を刺激します。眠りに入る間際の、休んでいた血がぞわりと沸き立ちます。口にはよだれが溜まります。喉が、鳴ります。
けれども彼の炯々と光る目はつい横を見てしまいます。彼の目に映るのは愛しい人――シャナが、身体を丸めて小さな寝息を立てているのです。
洞窟口の旅人は、寒波から逃れようと尚奥へ移動しているようです。
(来るな、来るな、出ていけ……)
クエレブレは声なく威嚇しますが、覇気とは凡人には感じ取れないもの。だからここを通る旅人は(勿論そんな時の、待ち伏せしているクエレブレは自身の気配を殺しているわけですが、それでも生物が生物である以上、気配とは殺しきれないものです)、クエレブレがいても奥へ奥へと進むのです。そして、彼を見とめて初めて、罠にかかったネズミのように顔を蒼白にさせるのです。
(もうオレは、決めたんだ、オレは……)
いくら頭に捻じ込もうとも、てろりと牙の隙間からよだれが垂れてしまいます。シャナと暮らしてそろそろ一年、この間、本当にクエレブレは彼女との約束を守り、山野の獣や家畜にしか牙を立てておりませんでした。人間断ちにも慣れてきたと思っていたところですが、やはり知ってしまっている味とは簡単には忘れがたいものです。
“本能は、簡単に理性を焼き切るよ”
いつかの、姉さんのクエレブレの言葉が、脳裏に呪いのように蘇ります。
“我慢するなよ。身体に毒だし、反動が怖いぜ?”
いつかの、友人のクエレブレの言葉が、誘惑のように五感を刺激します。
(ああ、食べたい、オレは、ああ、オレは、、、クエレブレ、人食いのドラゴン……ああけれど、オレは、オレは、、、オレは……)
“クエレブレ様は、人を食べますか?”
(食べないよ……シャナ…………)
視界は霞み、意識が朦朧としてきて、もうどっちが自分の意思なのかすら、分からなくなってきました――
その時でした。唸り、よだれを垂らす彼の横顔、下顎のあたりに、小さなものが触れました。小さな温度が触れました。シャナの手でした。
恐る恐るクエレブレはシャナを見下ろします。シャナは大きな目を眠たげにほわりと細め、けれど唇は微笑を湛え引き結んで、憐みのような、慈悲深いマリアのような表情で、ゆったりと彼を撫でているのでした。
ああ、この単純なクエレブレはそれだけで、沸騰した血潮が凪いでいく心地になりました。はち切れんばかりの欲が、落ち着いていく心地を確かに感じました。
奥へと進んできていた旅人は、クエレブレの唸り声を聞き止めたのか、洞窟口まで静かに後退し、外に出たようでした。他の洞窟で夜を越すことにしたのでしょう。それでいいのです。
その夜二人は、初めて寄り添って眠りました。
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