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「覚えていらっしゃいましょうか、クエレブレ様。私がこちらへお邪魔して、もうすぐ1年になるのです」  すっかり春の装いをすませた山野部の、二人の秘密の花畑。しゃんと背を伸ばしクエレブレの隣に立つシャナを、柔らかな風が撫でてゆきます。 「本来私たちは捕食者と被食者の関係にございます。ですがあなたは、私という小さな生命を拾い、目をかけてくださいました。一時の休息と、今後の身の振り方に想いを馳せる時間をたっぷりといただきました。私のわがままで、人肉を断たれ、山で見つける怪我人は麓へ送り届け、亡骸は埋葬を手伝ってくださいました」  クエレブレはシャナの言葉を、審判を待つ死刑囚のような、またプレゼントをじらされる子供のような心持ちで聞いていたのでした。  本当にクエレブレはこれまで、シャナと交わした約束をすっかり守って、どんな状態の人間を前にしても、牙を立てることがなかったのです。もっと言えば普段の食事――山野の獣や家畜――も、シャナの前では摂らず、顔を合わせた食事の際には彼女のメニューに合わせておりました。  とは言っても答えは二択、、、共生か、出立か。それだけです。  だからクエレブレは怖くはありませんでした。良くも悪くも、それが彼女の選択ならば彼に引き止める筋合いはありません。 「私はこの冬ずっと、この御恩をお返しする術を考えておりました……クエレブレ様」  シャナはクエレブレを真っ直ぐに見つめます。どこか力強い瞳です。けれど優し気な瞳です。お返しなんていいのに、と思いながら、クエレブレはその瞳を受けました。 「どうやら私の幸福は、人暮らす町でも海を越えた場所でもないようです。クエレブレ様、」  シャナの唇が動きました。 「私を、食べてください」  ああ、その残酷なまでにいじらしい彼女の答えは、クエレブレの胃の中に氷の杭を打ち込んだようでした。 「私があなたに差し上げられるものはこの命以外にありません。もとより捨てた身、クエレブレ様に匿ってもらわなければ、野犬か狼、オーグルにでも襲われていたことでしょう。そんな終わりは御免ですが、あなたになら食べられても良い……いえ、美しく逞しいあなたの血肉になれるのならば素敵な我が身の終幕と言えましょう。  私をお食べになられたら、あなたは本来のあなたに戻ることができます。もう苦しい思いをしなくて済むのです」  シャナは眉を下げ、微笑んでおります。あの、羽毛のようにふわりとくすぐったい笑みです。  クエレブレは回らない頭で懸命に、何度も彼女の言葉を反芻します。そしてやっと飲みこんだその言葉の意味を理解したその時、彼は静かに絶望するのです。  オレの想いは、届いていなかった――  ならば、  オレは何故、彼女を匿った?  オレは何故、彼女の世話を焼いていた?  オレは何故、彼女の厄介な問題を追い払った?  オレは何の為に、人食いを克服した―― 「なあ、それはきみの本心かい?」  口に出すと、それが堰だと言わんばかりに目に泪が溜まります。溜まったばかりのそれが音を立てて地に染み込みます。瞬く間に生まれ落ちたそれは、彼が初めて知った、悲しいという感情でした。 「ああ、シャナ、そんな残酷なことを言わないでくれ。どうか生きたいと言ってくれ。オレのためにそんなことを言っているのだとしたら、オレはそんなことを望んでいない! きみの嫌がることならしたくない。オレはきみに生きてほしいんだ。できたら隣に、オレに、隣にいさせてほしいだけで……」  クエレブレが身悶えするように頭を打ち振りますと、髪のようなたてがみが、ザン、ザン、と音を立て空気を揺らしました。  ああ、そうです。いつだってクエレブレはシャナを想っておりました。先の自問だって、答えは一つだけ……”シャナが好きだから”、これだけなのです。 「ああ、何故泣かれるのですか? あなたは人の肉がご馳走ではないのですか? ならば何故私を食べず、傍に置いていてくれたのでしょう」  シャナはこの提案が受けられなかったことにすっかり戸惑い、クエレブレの泪を脱ぐおうと手を伸ばし、大粒の泪を受けております。  彼女の勘違いが腹立たしくて、「だって!」とクエレブレは大きな声を出しました。 「きみを食べてしまったら、きみは本当に本当に、いなくなってしまうだろう?」  血を吐き出すような心地でそう言うと、自分の泪に濡れたシャナは目を瞬ききょとりとします。そんなとぼけたような顔すら、可愛くて、愛しくてたまらない。 「ああ、もう我慢ができない……シャナよ、シャナよ、オレはきみが好きなのだ。きみが愛しくてたまらないのだ。オレはきみさえ隣にいてくれれば他には何も望まない。きみの出立を促せなかったのはこのためなのだ。これがオレの本音なのだ……」  そう言って、クエレブレは尚も大粒の泪をぼしゃぼしゃと降らせるのでした。  クエレブレは、愚かなドラゴンでした。高慢で、残酷で、獰猛で、美しいものが好きでした。直情的で、そのくせ頭が切れて、自分本位で、素直で、その素直さに、自身の元来の性格さえも翻弄されてしまうような男でした。 「けれどオレは約束した。この暮らしはきみの心配事が過ぎ去るまでの間のものと。他でもない、このオレが提案した。シャナ、きみを引き留めたい一心故に。恋という、愚かしい下心の為に……これではきみが逃げていたあの男と変わらないかもなぁ。  きみとの別れがいづれ来ることは解っていたはずなのに、、、けれどオレにきみを引き留める筋合いは正直ない。ねえ、シャナ、オレと一緒に暮らしてくれないか? それが叶わないのであれば、せめて、このオレのことを、きみの心に住まわせておくれ……直ぐに忘れられては寂しいから……」  そこに更に、他者の気持ちを(おもんばか)る心が生まれました。シャナのことを想えば想うほど、彼女と共に生きたい気持ちは増していきました。しかし彼女を引き止めてしまっては、彼女が逃げていたあの男と変わりない。そんな彼のプライドが、彼に沈黙という狡さを選ばせておりました。 「私があなたにできることは、この身を捧げることだけですわ……」 「いいや、いいや、そんなことはない。シャナ、きみがいてくれるだけで、オレの心は春の光のように満ち足りた心地になるのだよ」 「ずっと、人食いを我慢されているのだと思っておりました……」 「最初は、そうだった。けれどもう、オレは人肉を断ち今やひもじさも感じなくなったんだ。誰に頼まれたわけでもなく、オレがそうしたかったからそうなったのだ」 「……では、今まで、ついぞ、あなたから私に触れてこなかったのも……」  シャナがおずおずと口を開きます。そんな彼女を泪の幕越しに眺めやりながらクエレブレは迷いなく答えます。 「きみを、不安にさせたくなかった。きみを、大事にしたかったのだよ」  これらの、泪と一緒に溢れたクエレブレの全ての言葉は、本当に心からの言葉だったのですが、クエレブレである彼の言葉をどれだけの人間が信じられることでしょう? 彼は真心を伝えながらも、そんな事実に失望しておりました。現に目の前のシャナという人間は、親切にもてなしたにも関わらず、今の今まで、自分が食べられるモノであると信じて疑っていなかったのです。  ああ、オレがもしも彼女と同じ人間だったなら、彼女にありのままのこの言葉も届いていただろうか――そんな、今まで、そしてこれからも、シャナと出会わなければ考えることのなかった絵空事すら考えてしまった次第でございました。  二人の間の沈黙を、柔らかな微風が心配そうに花々の香りを運んで行きました。  すると、肌を撫でるような小さな笑い声が聞こえてきて、やがてそれは、そこらに響くような大きな笑い声になりました。心底から楽し気で、愉快そうで、晴れやかな笑い声です。  シャナが笑っておりました。笑いながら、眦に泪がにじんでおります。ああ、その笑顔の何と美しいこと! 顔いっぱいに咲き誇る笑顔は、花も自信をなくしうなだれるような、この世の素敵なものを全て集めたような、美しく可愛らしい笑顔だったのです。  彼女の様子に今度はクエレブレが、泪も引っ込み面喰らいました。泣き濡れた彼と、朗らかに笑い続ける彼女、、、ちぐはぐでした。クエレブレが困惑と呆れと不満を言いかけた唇を閉じたのは、この笑顔に見とれてしまったからに他なりませんでした。 「あなたそれでは、本当に、私のことが、好きみたいじゃあないですか!」  笑い声の合間、とぎれとぎれにやっとこう紡いだシャナは尚笑い続けております。  本当に、心から、嬉しそうに笑っているのです。 (届いた、のか……? オレの気持ちが、本当の意味で、初めて、彼女に――)  クエレブレはシャナのこんなにも満面の笑みを初めて見たので、また、やっと自身の真心が伝わったらしい喜びとで、すっかり嬉しくなってしまい、さらには胸の内が何とも言えないじんとした熱に埋め尽くされてしまったので、「そうだ、そうだよシャナ、オレはきみが大好きなんだ。きみを愛しているのだよ……」と、やはり泪を零すのでした。それは彼の初めて零した嬉し泪でした。  シャナの笑い声は、クエレブレの泪がすっかり乾いてしまうまで続きました。 ―― 「先の発言を撤回いたします」  シャナは泪を拭いながらクエレブレに語りかけます。 「私はあなたのことを誤解しておりました。クエレブレ様は人食いのドラゴンで、私は非常食なのではと。以前、誰かお仲間と話をされていたのを、私、聞いていましたの。しっかり食べないと身体が大きくならず、海へ渡る必要がなくなってしまうと。最終的に海へと渡るのが、ドラゴン・クエレブレの誉れだと。だから、クエレブレ様が私を生かしていることで、、、私があなたの前に在る限り、私はあなたの軛になっているって、ずっと考えていたのです。  けれどあなたは私を食べないと言ってくださいました……先の告白は、半分は本当なのです。けれど半分は確かに偽りです」  それは最初は諦観でした。力の強い彼に抗うことなどできないと……皆さまご存じの通り、シャナはクエレブレに対して常に半信半疑でした。  家畜とは、手づから水を与え、ものを与え、世話をし、その肉の温みを知れば、家畜と言えど情が湧き家族のように思うもの。然しながら肉が育てば、脚が折れれば、年を経れば、飢えれば、情の一切を捨て手にかけるもの……シャナは自分自身を、クエレブレにとってのそれだと定義づけておりました。最もクエレブレはシャナの容姿をよく褒めるので、自分は彼の”とっておきのデザート”なのだろうと考えていたのです。  けれども彼女は半年以上を彼と過ごし、彼のナリを知りました。ゲストにとって心地よい空間をと、彼なりにもてなし、心を砕く様は好感を持てました。シャナの孤独な旅、その元凶を叱り飛ばし、引いてくれた手の力強さ――力任せでなく、痛くしないように、けれどしっかりと離さないように――を知ってしまいました。よだれを垂らしながら、怯えるように、申し訳なさそうにこちらを見る瞳を見ました。その鱗の下の温みに気付いてしまいました。  いつでもクエレブレはシャナのことを想っておりました。そのことをシャナもちゃんと感じておりました。  だからシャナも、彼に尽くしたいといつしか思うようになったのでした。  ええ、本当にシャナは、このクエレブレになら食べられていいと、そう思っていたのです。  この、美しく逞しく素直なドラゴンになら、食べられる終わりも悪くない――そう、食べられるという死を前向きなものに捉えることができていたのです。  あの、人食いを認めさせたあの日より、シャナは自分のことを”彼のとびきりのデザート”と捉えてしまっていたのでした。だから、クエレブレがシャナをわざと生かしていると仮定したとして、食べ時はいつなのだと、いや、自分が彼の前に在る限り、寧ろ彼の軛になっているのではと、ずっと考えていたのです。そしていつかの吹雪の夜、人の気配に目を光らせていた彼を見とめたその時より、潮時だと心を決めてしまっていたのでした。  けれどこのドラゴンはどうしても自分を食べないと言います。しかも理由が”恋”だと言うのです。これがシャナにはたまらなく愉快で、痛快で、確かに感じた嬉しさだったのでした。 「私はまだ生きたく思います。けれどそれが、一人のものか、二人のものか、捉えかねております。  クエレブレ様、あなたのお言葉にお答えできる言葉を、私はまだ持ち合わせておりません」  シャナがしっかとクエレブレを見つめます。二人の宝石――シャナのアイオライトと、クエレブレのガーネットが、互いの色を映し、重なって、陽光の中できらきらと光りました。 「もう少しだけ、時間をください。必ず、お答えしますので」 「それってつまり……」  クエレブレの声が少々震えております。 「もう少し、お傍にいることを許してくださいませんか?」  照れながら、シャナはこう彼にお願いをしました。  さあ、クエレブレは嬉しくてたまりません! 自分の前から(外の、人間の世界であれ、自分のお腹の中であれ、)いなくなってしまうかもしれなかった愛しい人が、自らの意思で、滞在の延長を申し出てくれたのです。 「ありがとう、ありがとう! シャナ!」  こう続けたクエレブレは鼻声で、案の定紅い目から新たな泪の粒がポロリと落ちます。 「もう、大げさですわ。寧ろ私は謝らなければいけないのに」  辛い思いをさせてしまいました、そう言いながらシャナは腕を伸ばし、今度こそ、彼の口元から泪の残滓を払い取ります。 「だって、嬉しいんだ! まだきみと共に在れることが、きみと同じ時を過ごせることが! ああオレは、今間違いなく、この世で一番幸せなクエレブレだ!  ねえシャナ、先に言ったように、オレはきみを引き留めたいから、きっと我慢を捨てるだろう。けれど、きみ、ぜひそれにめげずに自分だけの答えを見つけておくれよ。それが旅立ちだろうと、オレは今後、一時好きな人がそばにいてくれた、その思い出だけで生きてゆけるだろう。怖いものはもうないさ。オレはもう、きみの出した答えなら、何だって受け止められる気がするのだから――食べられたいという願い以外はね!」 「ふふ、そのわりには気が早いですよ。まずは私に新たな時間をくださいませ」  ほっとしたような表情の彼女、その眦に先程から泪が滲んでおりましたが、今度こそそれが零れました。それに気付いたクエレブレはちょっと舌を出し、逡巡し、思い切ったようにシャナの顔の前まで伸ばします。シャナは避けることなく、クエレブレの舌が泪を舐めとってくれるのをくすぐったそうに受けました。 「では改めまして、またもう少し、お邪魔いたします。クエレブレ様」 「ああ、よろしく! シャナ!」  二人の表情はすっかり明るく、声色もいつもの調子に戻ってきました。  何だかこんなやり取りを、一番最初にも交わした気がする。そう感じたのはお互いさまだったようで。目を合わせた二人は、くすくすとおかしそうに笑い合いました。
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