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Ⅸ
二人で過ごす、二度目の夏がやってきました。
あれからも二人は変わらず、野に出て草の実を集めたり、シャナがクエレブレに花の香と蜜の味を教えたり、クエレブレが自身の背にシャナを乗せ、空に泳いだりもしたのです。
遠慮を取り払ったクエレブレは日に一度はシャナを口説き、その度にシャナははにかんで、ありがとうと言いましたし、時折クエレブレが人間の姿をとって、シャナの髪を彼女の櫛で梳ることもあったのでした。
言葉を交わして、隣に座って、知識を交換して、控えめに触れて、同じ景色を眺めて、話して、話して、話して……
二人の距離は変わっていません。ただ、意識が少し変わっただけです。
その日の晩は美しい月がかかっておりました。あの、1年前のあの夜のような月夜でした。あんまり美しい月だったので、クエレブレは歌を口づさんでおり、シャナは彼の傍らで、彼の歌声を聴いておりました。
夜空の蒼はきらきらと、月光を纏いオーロラのように揺らめいて、幾色もの蒼を創造します。星は、その上等な天鵞絨の中で、ガラスの欠片が光を反射するようにちらりちらりと光っております。
その下で歌う、クエレブレの勇猛な美しさ。
その光景はあまりにも非現実的で、ステンドグラスのように物語的で、夢幻のように感じてしまうもの。
でも彼には体温があります。
でも彼には流れる血があります。
でも彼には感情があります。
でも彼には無邪気な弾んだ声があります。
でも彼は熱い泪を持っています。
間違いなく、触れることのできる現実なのです。
それを、誰よりも一等近くで、知ってしまった人間がおりました。
「クエレブレ様……」
シャナが静かに声をかけると、クエレブレはすぐさま歌をやめ、「ん?」と彼女の声に耳をすませます。
「そのまま、続けてください……」
そうシャナが言うので、クエレブレは静かに先ほどの続きを紡ぎ始めました。
これまでもクエレブレは月夜の晩に歌を歌ったのです。その度にクエレブレはシャナに、一緒に歌ってと誘っていたのです。そしてその度にシャナは、知らない歌だとはぐらかしていたのでした。
それはシャナにとっての防衛線でした。歌えば、それはもう、心をすっかり許し、明け渡したことになるのではと。
ですがもう、躊躇う必要はありません。
シャナは自らが作り上げたその柵を飛び越えたのです。
「私、この歌、知っています――」
そう言ってシャナは息を吸ったようでした。
美しい楽の音が、その唇から滑り出してきたようでした。シャナの歌声は透き通るように伸びやかに、けれども確かな存在感をもってクエレブレの歌を引き立てます。それはまるでハープの音色でした。
低く力強い音と、澄んだ美しい音が、絡み合い、見事な文様の織となって景色を織り成していくようでした。
クエレブレは讃嘆の声を上げたかったのですが、先ほど歌を続けるように言い留められたので、心を弾ませ、歌い続けました。
やがて、名残惜しくも、二つの音色が止みました――
クエレブレもシャナも目を閉じて、歌声の余韻に浸り、耳を澄ませるようにして、しばらく黙っておりました。
「クエレブレ様。いつぞやの、あなたのお申し出を、受けたく思います」
今度こそ讃嘆の声を上げようとしたクエレブレは虚を突かれて、え? とうわずった声を出してしまいます。
「それってつまり……?」
振り向き、自分を真っ直ぐに見つめてくるアイオライトが、ふわりと孤を描きます。
「お返事です。私を、あなたの妻にしてください」
それは待ちに待った、シャナからの返事でした。
クエレブレは虚を突かれた顔をし、しかし瞬く間に決壊し、何かこの身に余る幸運を見つけたような、込み上げてくるいっぱいの感情を飲みこみ、それでも溢れてしまったというような可憐な表情をしました。
彼の堅い爪のついた両脚がシャナを抱きかかえ、そのまま宙へと飛び出します。彼女を胸に抱きながら身をよじり、くるりと一回転しながら彼は泣きそうな声音で「やったぁ……!」と噛み締めるように言うので、シャナも愉快な気持ちになって笑いました。
「本当に、オレのプロポーズを受けてくれるのかい?」
「ええ、本当です」
「本当に、本当だね?」
「うふふっ! 散々焦らしてしまいましたからねぇ……本当ですよ、私、あなたのためならば、」
興奮で息を弾ませながら、それでもシャナはこう言い切りました。
「人間をやめても構いませんわ!」
気が済むまで空に遊び、戻ってきた洞窟口、クエレブレは愛おしそうな眼でシャナを見つめます。
「ねえ、シャナ。もしきみが良ければ、オレの願いを聞いてくれるかい……?」
そしてクエレブレは、秘密の提案をシャナに持ちかけたのでした。
――
「クエレブレ様。先ほどのお話を踏まえて、一つお願いがございます」
二人の寝床に、あの夜のような篝火の橙はなく、月の白金色ばかりが二人を優しく照らしております。
「オレにできることかい?」
「はい。寧ろ、あなただからこそ、口にできるお話です」
するとクエレブレはとびきり愛おし気な瞳でシャナを見つめます。
「オレの願いを聞き入れてくれたきみの願いを、どうして断ることができよう。言ってごらん、シャナ」
そう、優しい声音をもって、シャナの心を蕩けさせます。
それでもシャナは照れたようにすぐに言葉を紡ぎません。クエレブレはそんな彼女を静かに眺めておりました。
やがてその唇が小さく動きます。
「私に、女の喜びを……愛しく想う方との、二人だけの幸せを、教えていただきたい……」
――月光は依然、しらしらと音を立てるように降り注いでおります。
シャナの頬が赤く染まっております。
「……オレ、そんな経験、ないけれど……」
クエレブレの息が少し荒くなっております。シャナの微笑む気配が、鼻先で感じられます。
「教えますわ。人の、触れあい方」
「本当に、オレでいいの?」
「あなたがいいのです」
「……人の姿と、どっちがいい?」
「ふふ……では、体格を考えて、人の姿でお願いいたします」
シャナの声も少し震えております。見る間に、クエレブレの身体がほどけるように小さくなり、あの人の姿になりました。彼女に教えてもらったその顔は赤く染まっておりました。
衣擦れの音がやけに大きく耳に残りました。
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