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 日光がしとやかに降り注ぐ中、クエレブレとシャナは洞窟の、あの物置のような部屋の一角におりました。  シャナは上等の絹のドレスを身にまとい、裸足でした。  二人の目の前には、あの泉が、岩をどけられ滾々と蒼い光を溢れさせております。 「これは、オレがここに棲まう以前から在った泉。オレも知らないほどに永い年月をかけて溜め込まれた天然の気は、オレの魔力を加えたことでその力を深め、色々な不思議を起こすようになった……」  これは、クエレブレが初めてシャナに魔法の泉を紹介した際に話して聞かせた説明です。彼が改めてこれを口にしたのは、シャナが忘れているかもしれなかったからか……いいえ、その少々硬い声音は、自身に言い聞かせるような調子でした。それに黙って聞いているシャナも実は、彼のこの泉の話を、忘れたことなどなかったのでした。 「迷いヴィーヴルが飛び込んだら跡形もなく溶けてしまったこともあったし、オレが怪我をした脚を差し入れたら怪我が治った。オレの気を受けたこの水はもはやオレの一部。だが泉にとってオレはきっとその限りではない……シャナ」  声が、自分に向いたのを感じたシャナが顔を上げると、すぐそこにクエレブレの、どこか不安を滲ませた顔がありました。 「君に、神の御加護があらんことを」  その意外な言葉にシャナはつい吹き出してしまいます。 「クエレブレ様が神に祈るだなんて!」 「こういうのは形が大事だろう?」  クエレブレが爪を差し出し、シャナを岩枠へ(いざな)います。シャナは爪をとった手を伸ばし、クエレブレの鱗に覆われた唇にキスを落としました。彼はくすぐったいように、また照れたように身じろぎました。  そんな彼にシャナは微笑み、「行ってまいります」と囁きました。踵を返し、泉に、足を踏み入れました。  泉は冷たく、どこまでも蒼く蒼く、いっそ怖いほどでした。  すぐに頭上を見上げますと、水上のクエレブレがこちら(つまり泉面)に向かって口を開け、囁くような、息を吹きかけるような動作をしているのが見てとれました。  すぐに耐えられず、コブリ、と、吐き出した息が、泡となって上へ上がってゆきます。気管が水を拒絶し、もがきます。しかし既に彼女の身の周りに空気は存在しておりません。  そのまま水が胃の腑や肺に満ちてゆきます。その冷たさに臓腑が身をよじり、痛みが、耳や鼻、喉を焼くように、じん、と走りぬけました。血の匂いか味が、また胃酸の匂いか味が、ふいに鼻腔に充満し、水に溶けていきました。  血脈を流れる血潮はいつしか冷たさを帯びて、全身に行き渡るようでした。  水がますます、シャナを包み込むようにその身に馴染むのが、クエレブレの魔法なのか、生物としての温みを手放す時特有のものなのかはもう分かりません。  苦しいという感情は今しがたまでシャナの頭の中を占拠しておりましたが、やがて泡となって溶けてゆきました。本能が、危ないと警鐘を打ち鳴らしました。  シャナはそれらを、両手で包み込み、微笑んで手放しました。  生まれ変わるとは、それまでの自分が死ぬこと。 (転生が、本当にうまくいくならば……)  薄れゆく意識の最中、 (願わくは、彼を愛するこの気持ちごと……)  シャナは心から願いました。  ここで、  シャナの意識が途切れました。
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