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 月の明るい、綺麗な晩でございました。  薄青色の月光が、平野部の木々も山間部の岩肌もまるごと、隅々まで照らしています。  そんな山間部の、麓の人間も滅多に立ち入らない場所には天然の洞窟や風穴があり、そのうち一つの洞窟に、一頭のクエレブレが棲んでおりました。  このクエレブレは人食いでした。なので麓の人間は滅多なことでは近寄らなかったのです。彼は主に、何も知らず通りかかる旅人を食べておりました。山越えをしてくる旅人や行商人にとって、雨風を凌げる洞窟というのはひどく頼りになる拠り所だったのです。特にこの洞窟は他の洞窟のようにひんやりとし過ぎておらず、初春のようにふうわりと温かかったので(クエレブレが、旅人たちにとって嬉しい”都合のいい環境”を演出しているのだから当たり前です)、疲労と寒さに判断力を欠いた旅人たちは、罠にかかるネズミのようにその洞窟を選んでしまうのでした。なのでこのクエレブレは飢えることはありませんでした。旅人の少ない時期には麓に下りて羊等も襲って食べておりました。  このクエレブレは一頭暮らしでしたが、時折友達の個体や、姉のように慕っている個体が世間話に顔を見せるので寂しくはありませんでした。  このクエレブレは歌が好きでした。今夜のような月の綺麗な晩などには専ら、麓の子供たちが口づさむ、耳で覚えた歌を見よう見まねで、鱗に覆われた唇を尖らせ、歌うのでした。  今夜もそんな晩のはずだったのですが、何やら今夜は様子が違いました。  最近覚えた子供たちの歌を口づさんでいると、遠くから何やら小さな気配が駆けてくるのが分かります。  人食いのクエレブレはすぐにそれが人の気配だと気付きました。月夜の晩にデザートだ、とにんまりとした彼はすぐさま歌をやめ、洞窟の奥、薄青色の月光が作り出す影の中に身を潜めます。  その気配は、何やら叫びながら、過たずこちらの方向へ駆けてきます。 「その、歌声の方! お助けください! 悪い男に追われているのです!」  その気配はそんなことを叫んでいるようでした。女の声でした。  さて、クエレブレは驚きました。その女はどうやら自分を探しているらしいのです。この人食いのクエレブレに助けを求めているらしいのです。クエレブレは訝しみました。もしかしたら自分のことをとうとう退治しようと、麓の人間が一芝居を打っているのかもしれない、出て行ったらきっと矢の雨や魔法の渦に飲まれるのだ、と彼は自身の未来を思い描きました。  けれど、 (オレが、人間ごときに負けるかよ……)  クエレブレはすぐに思い直し、洞窟の影から出てきました。洞窟を出て、近くの岩陰に身を潜めます。歌も、静かに先程の続きを紡ぎ出しました。  女の気配はそれを聞き止め、すがるようにこちらへ駆けてくるようです。するとその背後、数十m先から悔しそうな呻き声が微かに、けれど確かに聞こえ、(歌声が男のそれだと得心したのでしょう)その気配は引き返していくようでした。男の声でした。  上から見守っていると、やがて息遣いが聞こえてきました。頃合いを見て歌はやめていました。  森の中から姿を現したのは若い女のようでした。長い、綺麗な金髪が月明かりを跳ね返します。その女はきょろきょろと辺りを見回しながら、とうとう洞窟までたどり着き、入りました。洞窟口から外を窺い、やっと安心したのか、息を整えているようです。  さあ、クエレブレは嬉しくてたまりません。女の血肉は薄くて食べ甲斐はないものの、柔らかくて甘い。そう、この人食いのクエレブレは心得ておりました。やってきたのはまさに月夜のデザートだったわけです。  女の呼吸が落ち着くのをたっぷりと待ってから、クエレブレは洞窟口に降り立ちました。  ただならぬ気配と風圧に顔を上げた女は高い悲鳴を上げ、尻餅をつきました。無理もありません、理由はどうあれ今しがたまで男から逃げてきた女が、今度は(おお)きなドラゴンに逃げ道を塞がれてしまったのです。 「こんばんは、我が住処へようこそ、お嬢さん」  喜悦の色を隠しきれず、しかし努めて丁寧な口調でクエレブレはデザートに語りかけます。デザートの女は気の毒なほどにガタガタと震え、それでも逃げようと、洞窟の奥へと首を巡らせました。 「奥はオレの寝床だよ。人が通れるような抜け穴なんてない」  そう声をかけたものだから、女は可哀想に前にも後ろにも動けなくなりました。 「あなた……言葉が分かるの?」  然しながらこの女、気丈にもクエレブレにこう問いかけました。いや、もしかしたら自身の運命に絶望し、いっそ開き直ったのかもしれません。そんな女の態度にクエレブレは少々感心し、目を細めます。 「オレは生きて永いからね。さて、何故歌声の主を探していたのだね」 「……誰でも良かったの。誰でもいいから助けてほしかった。あの、私を追ってきた男は私に求婚してきてる男で、いくら断ってもしつこく迫ってくるものだから、この隣町まで逃げてきたの」 「そうかい。それはお気の毒にね……だがそんなお前さんが探していた歌声の主とは、他でもないオレなのだよ。麓の人間は滅多に立ち寄らない、アリア・デ・ヴァニスのクエレブレとはオレのことだ」  女の身体が一層強張り、無駄なこと、少しばかり後退します。クエレブレが一歩彼女に歩み寄ります。 「お前さんが隣町の人間ならば、何も知らずにこの洞窟に足を踏み入れてしまったのも納得だなぁ……」  またクエレブレが一歩彼女に歩み寄ります。先ほどまで女は月明かりの中、深緑色のドレスを纏った膝元までが見えていました。彼が前進するに合わせてずるずると後退していた女は、今はすっかり薄青色の月光が作り出す影の中にいます。  と、不意に女が動きました。暗闇に乗じて撒こうというのでしょうか、躓きながら奥へと駆けだします。  然しながら、この度は相手が悪かった。  女の踏み出した足元から炎が上がりました。クエレブレの魔法でした。そのまま壁際や部屋(という表現が正しいかどうかは分かりませんが)の隅にも篝火のように火が燃え上がります。驚いた女は再び動けなくなり、その場に座り込んでしまいました。 「暗いだろう。これなら足元がよく見える」  最早笑みを隠そうともせず、クエレブレがにんまりと、悠然と彼女に近づきます。巨きな爪のついた足を彼女の真横に置き、逃げられないという意識を刷り込みます。女は肩を跳ねらせうなだれてしまいました。 「さあ、そろそろお顔を見せてくれないか」  ――今夜の、素晴らしい月夜に相応しい、ドルチェの細工を。  言外に、そう聞こえたような気がしました。意地悪なクエレブレはいたぶるようにそろりと女の頭上で囁きます。  しばしの間の後、女は顔を上げ、彼の方へ振り向きました。  どちらも声を発することなく、洞窟の隙間や風穴からしらしらと月光が降りしきる中、篝火の爆ぜる音ばかりがこの空間を占拠しています。そんな変に静かな時間が女の心臓の鼓動何十回分か続きました。  それは彼にとって、本当に想定外のことでした。  美しい女でした。  いえ、ただ美しい女であれば、このクエレブレは素敵なドルチェだと言って、嬉々としてかぶりついたに違いありません。  そう、ただの美しい女と処理してしまうには惜しいような、邪魔な何かがこのクエレブレのなかに瞬く間に生じたので、それに戸惑い、クエレブレは固まってしまったのでした。戸惑いの正体を探るべく彼は女をじっくりと観察しているのでした。  長い金髪は背を隠し、波打って、炎の温かな橙を揺らめかせています。そんな炎の橙と外の月光の薄青色を半分づつ映している目は大きく、泪で潤み、湖面のようで、その周りを長い睫毛が繊細な細工のように縁どっております。片方の目元にはほくろがちょこんと鎮座しており、小ぶりな鼻、その鼻梁が綺麗な曲線を描いております。形の良い眉は今は泣きそうなほどに湾曲しております。肌色は薄く、ふくりとした小さな唇は、見るからに柔らかそうで今にも触れたいほど。  そんな、誰かが自分の好みを凝縮させて創り上げたのではと思えるほどに、美しく、可愛らしい女が、今クエレブレの腕の中で小さく震えているのでした。  ……可愛い。  やっと、自分のなかに生じた感情の正体を突き止めた彼は、やはり混乱するのです。だって彼はつい今しがたまでこの女を食べる気でいたのです。  それがまさか、可愛い、なんて思ってしまうなんて。  一目惚れを、してしまうだなんて。  食べるには惜しい、そう思ってしまったなんて。 「ああ、きみはなんて美しい人だろう!」  クエレブレは目を輝かせて彼女に話しかけました。このクエレブレは自分の感情に正直だったので、自分がこの人間を好きになってしまったらしい、そんな感情すらすぐさま受け入れ、飲みこんでしまったのです。  さあ戸惑ったのは女です。いかにも自分を一飲みにしそうなドラゴンの、今しがたまで確かな欲の色を映していた大きな瞳は、今や少年のようにキラキラと、喜びに満ちた輝きを放っているようだったのですから。 「ああ、驚かせてしまって悪かった。どうか泣かないでおくれ。隣町からずっと逃げおおせてきて気も休まらなかったろう? ここで休んでいくといい。そうだ、その男が諦めていなくなるまでここに隠れているといいよ!」 「え?」 「ここはオレだけが棲んでいるから場所なら有り余っている。ふかふかの草のベッドも用意できるし、山には果樹も多いから、オレが取ってこよう。滝があるから水浴びだってできる。完璧じゃあないか!」  恋を知ったクエレブレはどんどん話を進めます。その表情はもう捕食者の顔ではありませんでした。すっかり、初恋にはしゃぐ少年のように、きらびやかな喜びに溢れておりました。本当にクエレブレは、つい数分前の自分が威圧的な態度で彼女に接することなくあえて紳士的(?)に語りかけていたことに多大なる感謝を送ったほどには、この初めての熱に浮かされていたのです。  さて、女は困りました。自分を追っている強引な求婚者からは逃げおおせたい、だからといってこのドラゴン・クエレブレと自分が生活を共にするだなんて考えがたかったのです。然しながら女は先ほど、自分がここに辿り着いた理由を話してしまいました。それを踏まえて彼はこんな提案をしてきたのです、今更どんな言い訳もできません。 (私の人生、何だったのかしら……)  女の暗い表情はそんなことを言いたげでしたが、結局、「そんなところでどうだろうか?」とにこにこと自分に語りかけてくる彼に向かって、「お邪魔でなければ、ぜひ」と頭を下げることしかできなかったのでした。 「決まりだ! 時にきみ、名はなんと言うんだい?」  すっかり上機嫌のクエレブレは無邪気に女に問いかけます。  古来より、妖魔に名を教えることは危険な行為(タブー)とされておりまして、特に顕著な例が妖精と悪魔でしょう。エインセルに名を問われたならば「自分もエインセル」と答えるべきだと言いますし、ボガード相手には何を言われても無視するべきだともよく言います。そして悪魔においては、名を教えるとは最早魂を捧げると同義であるとも――では、ドラゴンは? 「……私は、シャナ……シャナと言います」 「シャナ……シャナか、良い名だ!」  クエレブレは価値のある宝物を受け取ったかのように女――シャナの名を幾度も呟きます。それはまるで歌を歌うようでもありました。  シャナが自身の名を偽ることなく彼に伝えたことに深い理由はあったのでしょうか? いえきっと、自身の未来を想像し、少々投げやりなものにもなっていたのでしょう。  だってドラゴンは人を食べるモノですから。 「改めて、しばらくよろしくお願いいたします、クエレブレ、、、様」 「ああ、よろしく! シャナ!」  可哀想にシャナはすっかりその綺麗な顔から生気が失せており、反してクエレブレはとても温かな心持ちであったのでした。  この嬉しさが、先の、シャナが”罠”にかかった時の嬉しさとは違う種類のものであることもクエレブレは理解しておりました。そのうえで、同時に彼には試練が課せられました。  人食いを封じなければいけない、という試練が。
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