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Ⅳ
その日シャナは壁をよじ登っておりました。あの、彼女が現在寝床にと割り当てられている一角です。
寝床の上方には明かり取りの風穴が空いております。そこを目指して登っているのでした。
しかし彼女にはあまり(水汲みに困らない程度しか)筋力がなく、半分もいかずに干し草のベッドに落下してしまいました。柔らかな日光と干し草の香り、緊張から来る疲労感がシャナを包みます。
(体力つけなきゃ……毎日繰り返していれば、いづれあそこまで登り切れるかしら……)
それは一体いつ? 自問自答し、シャナは深いため息をつきました。
クエレブレが外に出ると中々帰ってこないのはこの何日かを共にし気付いたことです。その間なら彼女は自由に動けるのです。
ならば何故この隙にシャナは洞窟口から逃げ出さないのか。理由は簡単です。洞窟の目の前は道らしい道幅がなく、ほぼ断崖絶壁だからです。人一人、馬は小型ならば通れるかというような、山肌に指を添えただけのような足場は、しかもごつごつと石だらけで、眼下に気をつけて歩んでいくしかできないのです。あの夜の自分が何故足も踏み外さず小走りにこちらに辿り着けたのか、今となっては不思議でなりません。
それに彼女は、あの夜この洞窟に足を踏み入れてからろくに外に出ていないので、この辺りの土地勘もありませんし、ましてやそんな彼女に、ここいら一帯は地元民も滅多に訪れないので助けも呼べない等と何故知ることができましょう。否、そんなことは、クエレブレという存在を前にしたならば自ずと理解できようというものです。
この洞窟は、この山は彼の庭。いづれにせよ彼女が外にいたなら、彼はどこからともなく飛んでくるでしょう。
(ああ、そうか……ならどこから逃げ出しても同じだ)
シャナはそれを悟り、何度目か分からない絶望を吐き出しました。
ふと、山野の静けさにすっかり慣れた彼女の耳が話し声を拾いました。どうやら外のようです。慎重に洞窟口に近づくと話し声は二つありました。一つは洞窟主であるクエレブレ、もう一つはどうやら女のようです。と言っても勿論人間のそれではありません。
おおよそこの辺り、と当たりをつけて内部を移動し岩壁の割れ目から外を窺うと、果たしてそこから見えたのは彼と、もう一頭のクエレブレでした。女の声はこのクエレブレのものだったのです。二頭で、食うとか食わないとか、そんな話をしているようでした。
「最近は何を食っているんだい?」
「狼や狐だな。羊や牛は、襲い過ぎると放牧されなくなるから」
「人間が害獣としている奴らばかりなのは気のせいかね……全く、あの人間を招き入れてからのお前はおかしいね。何を遠慮しているんだ? あまり肩入れするでないよ、あれも非常食だろうに」
「違う!」
クエレブレが声を張り上げております。
「では芸術品かい。ワタシたちは綺麗なものが好きだからね」
「彼女は美しいが、品物でもない」
「……では何だい?」
「オレは彼女が好きだ。できればずっと隣におきたいと思っている」
聞こえたその言葉に、どきりと、シャナの心臓が跳ねたようでした。
「でも約束した。彼女の心配事が過ぎ去るまで限りの生活と。ならばそれまでの期間、オレは安寧をもたらし、大切にもてなしたい」
「寝ぼけてるんじゃあないよ。血肉を食らい本能のままに生きるワタシたちクエレブレが人間みたいなことを言うな!」
「オレは本気だ! 今のオレは、昨日のオレでも、ましてや数日前のオレでもない! 生きるモノはいつからでも変われる!」
「その手綱を握るのがあの女だと言うのかい!」
「オレの手綱を握るのはオレだ!」
――沈黙。ヒリヒリとした緊張感。怖々と走っていく風の足音。
やがて女のクエレブレが息をついたのが分かりました。
「あの女のことを想うなら、寧ろ今すぐにも離れるべきだとワタシは思うがね。ワタシたちは人を食う。本能は簡単に理性を焼き切るよ」
「ならばオレは、このまま人を断ってみせよう。あの夜から19日経つがひもじさは感じない。きっとやれるさ」
「喰うものも喰わないと大きくなれないというに。いづれ海へと住処を変えるのがワタシたちの誉れだ。それに人間は短命だ。お前、独りぼっちになっちゃうよ」
「海が、クエレブレ全ての最後とは限らないだろう? オレはここが好きだし、とにかくオレの納得できるようにやってみるよ」
「あの女が答えてくれなくても、かい?」
「……その時は、その時さ」
「そうかい……まあ、せいぜい悲恋に終わらないよう頑張りな。膝くらいなら貸してやる」
そう言って女のクエレブレは、翼を広げ、飛び立ったようでした。クエレブレはそれを見送っているようでした。
(怪物の”愛”なんて、)
シャナは膝を抱え、岩壁の、自然の窪みに身を預けます。
怪物の愛など、所詮所有欲、自己顕示、愛玩、欲の吐き出し口、、、人間のように愛し合うという営みを持ち得ているとは如何せん考えがたいものです。だって彼らは人間ではありませんから。
人間同士でさえ、同じ思想、同じ腹の内とは、とてもじゃないけど言い難いのですから。
シャナの両親は仲の良い夫婦でした。友人のように語らい、兄妹のように喧嘩をし、恋人のように笑い合う、そんな夫婦でした。帰りの遅くなった父親が、母親の好きな花でいっぱいにしたバスケットを差し出したなんてこともあり、受け取った母親は、怒るに怒れないと困ったように笑ったものでした。シャナはそんな両親を見てきたので、自分も恋をしたらきっとあんな風になるのだと信じて疑わなかったのです。
けれどシャナが年頃の娘になり、可愛らしさが美しさに変わると、町の男たちは一様に彼女を口説きにかかりました。始めは嬉しく思ったそれらの言葉も、一つの共通点に気付いてしまったら鉛のような呪いに変わりました。いつからか男が言い寄ってくる度に、”また、顔か”と思うようになってしまいました。シャナは心根の優しい人間でしたが、奥に生じた一片の黒く粘っこいモノは、拡がることはないものの、けれども確かに消えることなく心の隅に居座ってしまったのでした。
あの男――シャナを追ってきた男も例外ではなく、おおよそ前述した通りの態度でシャナの元に通ったのです。それどころか男の目的は、”シャナ”と”シャナの魔法”だと彼女は気付いてしまいました。だからシャナは男から、故郷から逃げ出したのです。
私が醜い人だったなら、誰も私を口説かない? 私が魔法が下手だったなら、誰も私を気に留めない? 私の元に通ってくれていたあなたたちは、私自身の恋はどうでもいい? あなたたちは何を以てして私だと言うの――
(所詮彼もあの男と同じ。私自身を鑑みてくれる方なんて、いないのだわ)
シャナは唇を引き結び、目を閉じました。
ひんやりとした岩壁は心地よく肌になじみ、いっそこのまま、洞窟の一部となってしまっても良い、とシャナは願いました。
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