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Ⅴ
その日、山を散策していたシャナは、とうとうそれを見つけてしまいました。
「どうしたんだい、シャナ」
はっとして顔を上げると、クエレブレが心配そうな目でシャナを覗き込んでおりました。
昼時の、陽光差し込む洞窟口にて。シャナは齧りかけのプラムを手に包んだままぼんやりとしていたのでした。
試しにクエレブレに外出を申し出ると、存外快く聞き入れられ、シャナは外の散歩ができるようになりました。然しながらその範囲は周辺の山野に限り、シャナが少し遠くへ足を伸ばそうとすると、クエレブレがどこかからやってきては、綺麗な花が咲いているだの、景色を見に行こうだのと言葉巧みに誘導するものですから、シャナはやはり山を下りることは叶わないのでした。
それでも身体いっぱいに感じる外の空気は爽快で、だからシャナはこの日、あまり足を向けていなかった方へ足を向け、そしてそれを見つけてしまったのでした。
「シャナ、不満や心配事があるならば、遠慮せず言ってくれ。できる限りの希望には応えたい。オレはホストなのだから」
クエレブレは優しく促します。迷い、やがて意を決したように、シャナはその小さな唇を開きました。
「クエレブレ様は……人を食べますか?」
数刻前、シャナが見つけたのは”白”でした。初めシャナはそれを残雪だと思いました。日と温度の関係で永久に溶けない氷雪だと。しかしそこは確かに日陰ながら、寒い場所ではなかったのでシャナは不思議に思い、近くまで寄ってしまったのです。
その“白”とは、砂粒のような細かいものでした。それが小山か、小さい湖のように広がっておりました。手に取ると、さらさらと指の間よりミルキーウェイを作り出します。火山灰か、花崗岩の砂なのかと思われましたが、火山なんてものはこの地にありませんし、灰にしては粒が大きいのでした。そして石切り場にしてはここは木が豊富過ぎました……
そこで引き返せばよかったものの、さらに視線を巡らせてしまったのが彼女の不運でした。
何かを見とめたシャナは金縛りにあったように声も無く固まってしまいます。
それは紛れもなく、人間の頭骨でした。頭頂部に穴を開けたそれの真っ暗い眼孔部が、声なくシャナを見つめていたのでした。気付いてしまったら、あちらにも、こちらにも、人の頭骨や獣の頭骨、腕や脚と思われる長い骨が白い湖面から覗いているのが分かりました。
この白い湖は、白い砂地は、齧り、踏み削られた、おびただしい量の骨だったのです。
シャナはたまらず、込み上げてきた胃液を体裁構わずその場で吐きました。
シャナはこの骨の湖を、自然に、クエレブレと結びつけておりました。
シャナの飾らない問いかけに、クエレブレは言葉に窮してしまいます。けれど……
「ああ、食べる」
存外すんなりと、彼はこれを認めました。向かい合うシャナの顔が強張ります。
「……けれどそれは、この山で遭難し、果てていた人間とか、妖魔に足などを食いちぎられ、後のなさそうな人間とかなんだ」
……こちらは嘘です。けれど実際そんなこともあったので、嘘とも言い切れないでしょう。
「私のことを、どう思われますか?」
「シャナは綺麗だ。ずうっと見ていたいほどに」
「……食べたいとは、」
「思わない! 食べないよ!」
食い気味にクエレブレが答えます。
「……恐れながらお聞きします。クエレブレ様」
シャナの声が小さくなってゆきます。
「私が醜い者だったならば、あの日の夜に、食べていましたか?」
――沈黙。山野を駆け抜ける風の音。二人の静かな息遣いと、プラムの甘い香り。
しばらくして、やっとクエレブレが口を開きました。
「それは残酷な問いだよ、シャナ。オレが出会ったのは目の前のきみだ。その容姿、その声、その瞳を持ったそのままのきみだ。きみ以外のシャナをオレは知らないのだよ」
クエレブレの素直な言葉に、シャナは気づきを得たように目を見開きました。
実はこの時、二人の間には食い違いが生じておりました。
シャナはあの骨の湖をクエレブレの食べた残骸だと思っております。しかしクエレブレは、生物を骨も残さず食らいつくすので後には何も残らないのです。あの骨の湖は、山に棲まう野獣や妖魔の食い残しだったのでした。
クエレブレがすんなりとこれを肯定したのは、シャナが自ずと勘付いたのだと思い込んでいたからで、裏を返せばそれは、彼に人食いへの後ろめたさがあったからに他なりません。(そんな感情を、クエレブレは今までついぞ感じたことがなかったのです。これもまさしく、シャナと知り合ったからこそ芽生えた感情なのです)
ですがそんなことは取り上げるほどの問題ではありません。
シャナは沈黙し、クエレブレも話題の変え方が分からず口を閉ざしてしまいました。
意識とは不思議なもので、今まで変わらず営んできたものが第三者の何らかのきっかけで、何か悪いことをしている、そんな背徳感が付いて回る……それは些細な、心無い、疑問だったり叱責だったり。物言わぬ、勝手な意識の変革――例えば、画家が作品を”ただ一瞥された”ことで途端に描けなくなった。例えば、豚と知り合ったから豚肉を口にできなくなった――だったり。
「……私の好物の一つは、羊の煮込みです」
やがてシャナが口火を切りました。その話題が話題だったのでクエレブレはさぞ驚いたことでしょう。
「塊の羊肉を少し叩いて赤ワインとハーブと共に、トマトとソルト、ペッパーで味を付けて二晩は煮込みます。そうすると臭みは飛んでとろとろになって……他にも、鳥だとか、時にはカエルも捕らえてこの肉を食べたものです。
……今、私がクエレブレ様の前にいるように、私が今まで食べてきた彼らも、きっと同じ気持ちだったのでしょう……クエレブレ様、」
シャナは真っ直ぐにクエレブレを見つめます。陽光の中で、シャナのアイオライトとクエレブレのガーネットが、ぶつかって音を立て、光の欠片を散らしたようでした。
「私は、あなたを責めることができません」
きっぱりと、シャナは言いました。その口調には最早怯えも非難の色もなく、その瞳も、迷いも惑いもない、綺麗な瞳でした。クエレブレはその言葉に、その瞳に、目を見開き、ぱちぱちと何度も瞬きをするのでした。
「ただ、その……できれば、私がここにお邪魔している間だけでも、あなた様にも同じものを食べてほしいと言いますか……その、同じものを食べて、美味しいって言い合いたいと言いますか……」
こちらは少々口ごもりながら、歯切れ悪く、考えながら紡がれました。目は忙しなくぱちぱちと瞬きをし、その耳は赤く染まっております。
つまるところ彼女は婉曲に、自分の前で人間を食べないでほしいと言っているのです。
元からそのつもりだよ、とクエレブレは答え、洞窟の外を眺めやりました。
「きみは、素敵な人だな」
ぽつり、呟かれたその声は、何だかどうも、しみじみと感じ入るように震えておりました。
そんな彼の、見えない横顔をシャナは、お願いを了承された安心を抱きつつ不思議そうに眺めておりました。
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