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Ⅵ
「ご相談がありまして」
夏の蒸し暑さはとうに過ぎ、かと思いきやあっという間に秋の涼しさが、音を立てて通ってゆきます。干し草のベッドに腰かけ、お湯を飲んでいたシャナはクエレブレにこう切り出しました。
「麓に、、、町に行きたいのです」
「えっ?」
案の定クエレブレは目を剥きました。
「もうすぐ冬になります。服や毛布が欲しくて」
「あっ、あ~~~~! そうだよな、冬が、な……」
すかさずシャナがこう続けるとクエレブレは目に見えて安堵し、そしてあからさまに崩れた表情を慌てて取り繕うのでした。
そして斜め上に眼を泳がせ、沈黙します。この光景をシャナはこれまで幾度となく目にしてきましたので、彼が沈思しているのだということにすぐに思い至ります。
「きみに魔獣をつけてもいいか?」
「魔獣ですか……」
やがて紡ぎ出された言葉にシャナは肩を落としました。
クエレブレがシャナを一人にさせたがらないのは目に見えて明らかでしたが、これでは少々過保護な気もします。彼の言う魔獣というのがどの程度の大きさなのかは気になるところですが、シャナもいい歳の女。今の彼女には絶対的な安全よりも活気と刺激が必要でした。
「単刀直入に言う。オレは心配なんだ。もし件の男にきみが見つかり、連れ去られ、オレの前に二度と現れなくなることが。服ならオレが調達してくるから」
「食べ物はともかく、どうやって?」
「それは……」
「いつもそう言って私を山から出したがりませんよね? 私だって、久しぶりに町の空気に触れたいんですよ」
少し強く出ると、クエレブレは小さく唸って困ったような顔をします。それは彼女が、自分の思い通りの返答をしなかったことによる苛立ちではなく、どうしたら彼女の意見を尊重できるか、といった類の困り顔だったので、シャナは少し意外に思ったのでした。
「……一緒に行きませんか?」
「ええ?」
本当に思いつきでシャナはクエレブレにこう言いました。この思いつきはクエレブレも、シャナ自身をも驚かせたことでしょう。クエレブレは、理由がどうあれ初めての彼女からのお誘いに、シャナは、自身が目の前のドラゴンに無遠慮と安心を見出し始めているという心の機敏に。
「魔獣よりもあなた自身がいらっしゃる方が安心できましょうし……人間の言葉が話せて魔法も使えるあなたなら、人に変化することもできませんか?」
「まあ、やったことはあるが……」
歯切れの悪い返答です。
試したことはある、その事実に心底驚愕しながら、シャナは次の言葉を待ちます。うやむやにしきれなかったクエレブレはシャナの辛抱強さに折れ、しぶしぶ口を開きました。
「顔が上手くできないんだ」
「顔……ですか?」
「人相っていうのか。どうも、オレがオレじゃなくなってしまうようで変な心地になるから苦手だ」
そう言って彼は居心地悪そうに眼を泳がせるのでした。
「ああ、そういうことでしたら私がお手伝いできます」
シャナはすかさずそう言いました。
「私があなたの顔を教えてさしあげますわ」
少々楽し気なシャナのこの提案をクエレブレが断れるわけがなく、そういうことになりました。
まずは現時点のあなたの人の変化を見せてくださいと、クエレブレに席を外させ、待つこと数分、クエレブレが戻ってきました。ヒタヒタと裸足で床を歩く音がします。いつもの巨きな気配は確かに小さく、人のサイズのようです。シャナはわくわくとして振り向きました。
「これが、オレの精一杯だ。では教えてくれ、何がどうおかしいのか」
彼が言い切る前に、シャナの大きな悲鳴が洞窟内に響き渡りました。
「まずは服を着てください!」
顔をまじまじと見つめる前に、筋肉のまんべんなく付いたがっしりとした体躯、その裸体に眼が釘付けになってしまったのでした。
――
麓のそこは町と言っても、最近村から町に定められたばかりで、立派な煉瓦造りの建物だとか馬車が走ることのできる広い路だとかはなく、まだ村の様相をしておりました。それでも、活気のある様々な露店に大衆酒場、大きな宿屋もあるものですから、道行く人々も様々でした。地元の人、行商人、旅人、吟遊詩人、サーカス団か、マントの下に派手な装いの団体、大柄の男、立派な髭の老人、華奢な女、背の高い青年、顔じゅうにピアスをつけた男、模様を描いた肌を持つ女、子供たち、、、
なので道行く人々は、背の高い大柄の男と彼の半分ほどの背丈の美しい金髪の乙女が連れだって歩いていても、然程気に留めないのです。
それにしても、全くクエレブレの、シャナに”直して”もらう前の顔といったら! 目は小さく垂れていて、反して鼻が大きく、大きな口からは牙が突き出ていて、まるでオークか角足のジミーのようだったのですから、彼が顔が苦手と言ったのも頷けます。
そんな彼は現在シャナの働きによって、切れ長の目、高い鼻梁、大きな口ながら形の良い唇、牙ももちろん唇の下に隠れ、男のものではあるもののすっきりとした輪郭と、どこか本来の彼をも感じさせる端正な顔立ちをしておりました。変化魔法は”抜けどころ”が存在すると永く保っていられるというので、顔の片方、目から頬にかけて薄く鱗が残っておりました。更に彼は(ヒトに変化しているとはいえ)骨格も筋量も常人以上でしたので、大きめの麻の服にブーツ、同じく麻のマントをショールのように身体に巻き付けておりました。
因みに彼の横を歩むシャナはというと、レンガ色のシンプルなドレスに、同系色のローブを頭から被って、自慢の金髪を隠すようにしておりました。
ところで、この人混みは彼にとって最大の難関であることでしょう。前後左右、どこを見ても人、人、人。言い換えれば、新鮮な肉の群れ――彼がこの提案をすんなりと受け入れなかったのは、顔が苦手というよりも、こちらの側面の方が気にかかったからに違いありません。
ですがクエレブレの舌は今やすっかり山野の獣肉の臭さを覚えたので、彼はこの目の前の光景を、言わば精肉店を前にした精神状態で望めたのでした。今の彼は、芳しい匂いに煽られようとそれをたしなめられるほどには成長していたのです。
「気分は……大丈夫ですか?」
不意にシャナが腕を引きます。小さく愛しい温みが彼の血を宥めるように癒します。精神の安定はそれで十分でした。
「平気だ……さあ、寄りたい所全てを回ろう」
買い物にはクエレブレの隠し財産を使いました。彼が出かけた先々で見つけては持ち帰ってくる宝物や、食べてしまった旅人たちの所持品です。シャナにもそのくらいの想像がつきましたので、何のお金なのか敢えて聞きませんでした。
それに彼女は久しぶりの町と買い物にはしゃいでいたのでいつしか気にかけなくなっておりました。うきうきとした気分に囃し立てられシャナは愛想を振りまきます。露店の店番たちは彼女の美しさに惚れ惚れし、おまけだと言って様々なものを包んでくれたので、二人の両手はすぐにいっぱいになりました。中には若い店番もおりましたので、商品の渡し際、シャナに声をかけようとした者もいたのですが、誰しも隣のクエレブレに気付いては笑みを強張らせ、舌に乗せかけた口説き文句をごまかすのでした。
冬越しに必要なものをすっかり揃え、シャナは、ふう、と息をつきました。人々の活気は気持ちよく、しかし長時間の滞在で少々くたびれてしまったのでしょう。くるりと辺りを見回した彼女は、視線の端に酒場を捉えます。
「クエレブレ様、そろそろお疲れになられましたよね」
「何、これしきは山まで休憩なしでも行けるさ」
「ふふ、逞しいです。ただ、戻る前にやはり休憩していきませんか? あそこにバルが見えますから」
「ば、ヴァル、とは何だ?」
「料理やお菓子を作ってくれる店ですわ。……熱いものは不得意でしょうか? すみません私ばかりはしゃいでしまって」
慌ててシャナが詫びると、クエレブレはきょとりとし、次には、ふはっ、と吹き出し、笑みを零しました。
「いや、謝ることではないよ。きみが楽し気でいてくれて、オレも嬉しい。アツいというのは未経験だが、付き合うのも悪くない」
ふわりと、温かな灯が灯ったような微笑みを浮かべながら言ったのでした。それは本当に、彼の心からの言葉だったのでした。
そんな彼の言葉に、笑みに、今度はシャナの方がきょとりとしたのです。シャナの知る男とは、自己中心的で、自分よりも弱い存在(気の弱い男や女、子供)を抑圧し、思い通りに動かそうとするもの。
しかし目の前のこのドラゴンは、先の人間姿への変化を含め、自分の提案を面白がり、快く受け入れた――
クエレブレと一緒にいると、シャナは自身の考えを話すことができます。クエレブレと一緒にいると、シャナは自分らしく振る舞えます。そのことに気付き、シャナは戸惑っていたのでした。だってそれこそが、シャナが望んでいた理想のパートナーだったのですから。
(彼が人間だったなら……)
シャナは歩き出しながら考えます。
(私、この方を好きになっていてもおかしくない……)
それは確かに、彼女の内に現れた本音でした。
「そこ行く男と女、止まれ!」
突として、鋭い男の声が路いっぱいに響き渡りました。
ところで、男女の二人組などたくさん歩いておりますし、こんな漠然とした指示語、誰も自分のことと思いません。誰しもそちらの方を一瞥しては歩みを進めます。クエレブレもそうしましたが、しかしシャナだけが、その聞き覚えのある声に、肩を強張らせ、足を止めてしまったのでした。そんな彼女に気付いたクエレブレもつられて足を止めます。
「シャナ……かい?」
続いた自分の名を呼ぶ声に、しばしの間の後、ゆっくりと首を巡らせました。
「……まだいたの? ベイル」
彼女の眼差しは、クエレブレが今まで見たことのない、冷たい嫌悪を湛えておりました。
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