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 ずる賢そうな細い目をした男でした。中々上等な服に、細身の棍棒、金具のついた靴、頑強そうな馬を引いた男がこちらを見つめていたのでした。 「シャナ、この男が、あの……」  クエレブレがかがみ、耳打ちをします。シャナはそれにこくりと頷き、返答としました。 「ああ、随分久しぶりじゃあないか! 見たところ怪我もないようで安心したよ。きみの行った方向はドラゴンの洞窟だとここらの人たちに聞いてから気が気でなかったんだ。さあ、一緒に戻ろう。戻って、俺たちの結婚式を上げるんだ」 「私は戻らないわ」  毅然と、シャナは言い放ちます。 「何故だ! そもそもきみは今までどこに隠れていたんだ。さては隣のその大男に囲われているのではないだろうね。やいそっちの男、何か言ったらどうだ」 「止めて頂戴。私は望んでこの方のご厚意になっているのよ」  なんとシャナは、クエレブレの背に隠れるように身を寄せました。  自分を頼ってくれている! これだけでもうクエレブレは何でもできる気がしていました。男――ベイルに向き直り、彼を真っ直ぐに見据えました。 「あの夜、彼女は酷く怯えていた。てっきり魔物か狼かと我が家に招き入れたが、まさかこんな細身の男一人とは。聞いたところ、お前は求婚を断られているのだろう? 男ならきっぱりと身を引くものではないか?」  何だと! とベイルは叫びました。 「情熱一つでどこまでも求めるのが愛だろう。俺は彼女を昔から知っている。こちらに来て初めて出会ったであろうお前に彼女の何が分かろうか」 「……そうだな。お前に比べればまだ彼女との付き合いは浅いだろう。が、一先ず彼女がお前を好ましく思っていないことは分かる」 「分かったような口をきく! 会ったばかりだが、不愉快な男だ。俺を誰だか知っての態度か!」  ベイルは腕を組み、歯をキリリと鳴らしながら言いました。対するクエレブレは比較的落ち着いた様子でした。 「俺はここより山向こうの、彼女の故郷の領主の息子で、いずれその地位に立つ男だ。お金も権力だってある。お前はどうだ? みすぼらしい麻の服、裕福ではなさそうだが」 「オレは山人だ。山に生き、泉と共に在る。お前の言う裕福とは違うだろうが、オレは彼女に伸び伸びとした自由を与えられる」  ……上手い。シャナはそっと思いました。クエレブレは状況を把握するや否や、この咄嗟の出来事に順応し、人間を演じてみせてくれているのです。周りの人々だって、「あんな人がいただろうか?」「ここらは深山ばかりだ。あんな人の一人二人いようさ」といった具合です。 「自由だと!」  ベイルは笑うように言いました。 「自由が安寧を凌駕すると言うのかね? 草木が心の拠り所になるのかね? 山の人よ、現実を見てほしいな。水を汲み、粉を挽き、畑を耕し、羊の世話をし、税を納め……男は外であくせくと働き、女は家を守り家族を支え癒す。俺と彼女が結婚したら、町を上げて結婚式をして、たくさんの子供に囲まれて――男子が3人、女子が2人なんて望ましい――年頃になったら子供たちは、男子は俺の下で仕事を覚え、女子は彼女が料理や糸紡ぎを教えるんだ。男、知っているか? 彼女の織る生地は、それはそれは美しい芸術品なんだ」 「つくづく呆れる」  クエレブレが息を吐きます。 「そこにシャナはいるのか?」 「いるか、だって? 彼女あっての未来像を、今まさに話しているというのに」 「違う、お前が夢想しているのは”妻”だ。彼女じゃない。シャナ自身の幸福はそこに在るのか?」 「分からない男だな。彼女あってこその未来像、彼女あってこその幸福論だ。 仕事でくたくたになって帰ると、家には温かな灯が灯っており、戸を開けると、炉の前で料理を拵えながら、彼女が笑って迎えてくれる。清潔なシャツとベッドが用意されており、彼女の匂いと声を感じながら眠りにつく……俺には今もこれからも、自分の隣には彼女しか見えない。そして俺の幸福が彼女であるように、彼女の幸福も俺であることが望ましい。いや、そうであるべきだ。  なあシャナ、答えてくれよ。俺が君に将来の、完璧な安寧と幸福を与えてみせる。何一つ心配事を抱かせず、欲するものは全て与える。害悪な輩から守り、不安など抱かせない。ましてや俺の愛を疑わせるようなことは絶対にない!  何より君、俺と結婚してくれるなら、領主、つまるところ俺の父親だが、領主の施術を拒否するお金を払う必要がなくなるんだ。俺だって、嫌だからね。男は俺だけを知っていればいい」  ――ああ、ああ! 彼の言葉は竜の目を、はち切れんばかりに見開かせるに十分な効力を発揮したのでした。 「――何だ、それは」  このクエレブレの、強張った小さな呟きはシャナに向けられたものです。それを受けたシャナは…… 「……言いたく、ありません……」  可哀想に、綺麗な顔を一層曇らせて、眼を伏せてしまいました。  ですが、今はそれで十分でした。 「お前は己の理想論ばかりだ!」  気まずい沈黙が形作られるのを振り払うようにクエレブレが声を張り上げます。 「その昔、神は男を創造したが、男だけでは不十分だったからこそ女を創造した。本来ならば男女の別はなく、支え支えられ歩んできたはず。時を重ねるにつれ片方を敬い、片方を蔑んだのは人間だ。女を家に縛り、”女”に縛ったのは男どもではないか? 女が声を張り上げなくなったのは、淀んだ空気、その環境が彼女たちの頭を叩いてきたからじゃないのか? 女は従者でも、まして子供を産むだけの道具じゃない!」  この大演説を街道の人々は、諍いをおろおろと見守る番頭や、興味深く聞き入る旅人や、今更何をと迷惑そうな顔の者や、いろいろとありましたが、中でも女性たちが手に汗握り、熱心に聞き入っていたのでした。 「シャナにはシャナの考えが、言葉がある。それは尊いものだ。本来彼女はどこへだって行ける。この国をぐるりと巡ってもいいし、海を渡ってもいい。そうして彼女は彼女自身の理想郷を見つけることができる。お前という厄介事が目の前に立ち塞がらなければこそ!」  ――そして当のシャナは、厄介になっている家主のこの言葉に、何だか泣きそうになりながら聞き入っておりました。  この方は、この方は! 非常食(わたし)を逃がしたくないのではなかったのか? だから懇切丁寧に扱い、山から出さないようにしていたのではなかったのか? この演説はこのアクシデントを回避するためのブラフであり建前であり、本音は……いや、もしかしたら本当に、最初の頃に言ったように、私の問題が片付くまでと……本当にこの方は、私を生きて旅立たせてくれるのかもしれない、そう思うと、疑心と、期待と、少量の感銘とで鼻の奥がツンとして、頬が熱を持ったのでした。 「海だと! 旅だと!」  さて面白くないのはこの男です。ベイルは大きな声を上げていました。 「知見を持ってどうする! それをどこで生かすというのか! 女が国を巡る? 外へ向かうと、、、安全な家の外へ? 随分と野趣的でロマンチストな考えじゃあないか。そんな考えを持てる人間がいたとはな。いや、いっそ人間らしくない。よく見れば何だその面は。ナイフで切ったようなつり目、片側だけの刺青、大きな口! 人間というよりお前はさながらオーグルだ! リザードマンだ!」  そう言って高らかに笑いました。他の通行人も、つられて小さく笑ったり気まずそうに眼をそらしておりました。  これだから、とシャナはこちらにはいささかげんなりとしておりました。最早多くは語りますまい。彼がこんな男だから私は嫌で、逃げ出したというのに、と続いて思いました。  シャナが流石に反論しようと口を開きかけたその時でした。 「……失礼な人間め」  ぞくりと、背筋を小刀でなぞるような恐ろしい響きが辺りを支配したので、シャナは緊張に身体を強張らせます。そっと窺ったクエレブレの顔、、、その表情は硬く、眉根をしかめ、切れ長の目はぎとりと相手を睨みつけておりました。  そして、辺りに瞬く間に満ちたのは確かに殺気でした。クエレブレの殺気に気圧されたベイルは半歩後ずさりしております。その手が腰に差していた棍棒を探っています。ベイルの馬も怯え嘶き、往来の人々もどよめき、慌てふためいては躓いております。 「黙って聞いていれば好き勝手抜かしおって……」  瞳のガーネットが怪しく煌めき、シャナはぞくりと身を震わせました。ああ、シャナは、彼のこんな剥き出しの憤怒を初めて見たのですっかり足がすくんでしまいました。  クエレブレが少し足を引きました。 「やめて、!」  己を奮い立たせ、シャナはクエレブレの腰元に抱き着きました。 「あなたはそんな愚かな方ではない!」  瞬間クエレブレの紅い瞳から、殺気が薄れたように感じられました。彼はそっと落とした視線の先で、シャナが自分を見上げているのを確かに見とめました。  ああ、それだけで、クエレブレは自身の中に渦巻く嵐がゆっくりと、けれども確かに凪いでゆくのを感じました。息を細く、一つつき、そっとシャナの肩に手を触れますと、彼女は少々緊張し、けれども身じろぐことはなくそれを受けました。  辺りに、嵐が立ち去ったように、静寂が生まれ始めます。やがてクエレブレは顔を上げ、元凶をしっかと見据えます。 「二度とシャナとオレの前に現れるな」  それだけ言ってクエレブレは、シャナの手を取り歩き出しました。二人とも、もう後ろは振り返りませんでした。 ―― 「なあシャナ、先の”クリエラ”とはオレのことかい?」 「ええ。突然にすみませんでした。人のあなたの打ち合わせをきちんとしておくべきでしたね」  町から戻り、洞窟内での会話です。既に夕刻、シャナは篝火の一つを使って鍋をかけ、何かかき混ぜており、クエレブレはそんな彼女を眺めておりました。 「いや、新鮮で面白かったよ。名をつけてもらったみたいで」 「え?」  その言葉にシャナは顔を上げ振り向き、クエレブレを真っ直ぐに見つめました。 「クエレブレ様は名をお持ちでないのですか?」 「うん。あまり必要でもないしね。仲間内でも棲んでる地域名とか特徴とかで好き勝手に呼び合っているし。  ね、シャナ。人間は自分の子に名をつける際に意味を含ませたがるらしいな。きみの”シャナ”とはどんな想いでつけられたんだい?」  シャナは少し考え、しかし首を振りました。 「分かりません。両親の口からあまりその手の話を聞かなかったので」  そうか、と呟いたクエレブレは言葉を探すように口を閉ざしました。シャナも、深く掘り下げようとせず、鍋の様子を眺めておりました。 「きみの”シャナ”の名は、」  やがてクエレブレが口を開きました。 「きっと、夜空に光る星だとか、日の光を弾く湖面だとか、空を透かす青葉だとか、、、そんな美しいものを眺めながらつけられたに違いないよ」 「……そうですね。  ……さて! 食事にしましょう。久しぶりに温かいものが食べたかったのです」  そう言ってシャナは微笑みました。ああ、その柔和で可愛らしい微笑みと言ったら! クエレブレはさぞ、軽やかな羽根が肌に触れるような、ふうわりとしたくすぐったい嬉しさを感じたに違いないのです。  シャナの作った干し肉と野菜のスープは、じんわりと優しく二人の身体を温めました。
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