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兆候(1)
数学の授業の最中だった。俺は目を疑った。さっきまで、俺の斜め前の席にいたはずのレイが消えたのだ。俺は息を飲んだ。ちらりと、隣の笹川を見た。そして、周りの生徒を見回した。先生も見た。みな、そんなことは異変でも何でもないかのように変わらずに授業を続けている。それとも、俺しか気づいていないのだろうか。
机の上には、閉じたままの教科書とノート。
俺は、今は授業に集中すべきか、今すぐに探しに行きたい衝動に身を委ねるべきか、迷った。いや、探しにいくとして、何処へ?
上の空で授業を終えて休憩時間になると、取り敢えず中庭に出た。散歩している、との言葉が根拠だったが、突然目の前で消えて、それがつながるとは到底思えなかった。ふと、この学校に来てからというもの、寮と校舎を行き来するくらいで、他の建物を見ていないことに気づいた。
あの時、あの無人の建物の窓から見えた時計塔の角度…同じように見えるとしたら、と当たりをつけて、俺はそれらしい建物に向かった。と、そこの向かいの建物の裏手に、制服らしきものが草むらの中に落ちているのが目に入った。
「え…、レイ!」
レイが倒れていた。駆け寄り、揺さぶって意識を確認する。ひどく疲れたようにぐったりしているだけでなく、ところどころ裂傷があることに気づいた。
「保健室に連れていかなきゃ…」
袖を引かれた気がして、俺は動きを止めた。弱々しく笑ったレイと目が合った。
「ハルは授業中居眠りはしないのかい」
突然何を言い出すのか、と俺は唖然とした。
「僕なら大丈夫だから、肩を貸してほしい」
それならわかる。俺はレイの上半身を抱えながら起こし、ゆっくりと立ち上がらせた。
「部屋に戻る?」
「そうだね、でもいいのかい、授業」
ちょうど時計塔からチャイムが鳴り、次の始業を告げた。単位とか奨学金とかが頭をよぎったが、こんな状態の相手を放っておけるわけがない。
「部屋まで送るから、レイに勉強教えてもらおうかな」
軽口を叩いたつもりだったが、あまりに自分の学業不振が深刻すぎて洒落にもならない気がした。
肩を貸して、レイの少し苦しそうな息遣いを感じる。横顔が、美術の教科書に出てくる彫刻みたいだけど、柔かそうな髪と長い睫毛が人間らしいと思った。こんなに間近で見るのは初めてだった。
部屋に着いて、レイをベッドに横たわらせた。その時、違和感があった。
傷が、ない――
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