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久子は見知らぬ庭園で困惑していた。
広大な庭には、見たこともない彩り豊かな花々が咲き乱れていた。
久子が一歩も動けずにいると、ふと、となりに一人の少女が現れる。
少女はいきなり久子の手をとり、庭のなかへズンズン進む。
「お嬢さん。お庭に勝手に入ってはいけないわ」
驚いた久子は少女の手を振りほどこうとするが、がっちりと握られて手が抜けない。
少女は振り返り、逃げようとした久子をじっとりとした眼差しで見返してきた。
「思ったより若いわね」
生意気な少女の言い草に、久子は面食らった。
「ちょっと、その言い方はひどいんじゃない? 私はまだ十七だけど、あなたより年上よ」
少女は水玉のワンピースを着て、髪はおかっぱにきれいに切りそろえられている。前時代的な木綿の着物に髷を結った久子は、服装と髪型で後れをとったように感じた。
「女は度胸よ、ついてきて」
少女は、久子が気を悪くしていることに気がつかない。少女はつないだ手を離さぬまま、久子を奥へ奥へと引っ張って行く。
気が乗らない久子であったが、目の前に広がる百花繚乱の世界に心を奪われると、ふしぎなことに胸に渦巻く不法侵入の罪悪感が霧散していった。
真っ赤な椿の垣根を曲がると、段々に植え込まれた色とりどりの菊が目に飛び込んできた。
「うわぁ、すごい」
久子は思わず歩みを止める。一輪咲きの大輪の菊も、無数の小花をちりばめた菊も、肉厚な花びらの末端にまでみずみずしさをたたえて咲き誇っていた。
「先人たちが花に込めた、祈りのお話を知ってる?」
少女が久子のほうを振り返る。久子は、改めて少女の顔を眺める。丸顔で目鼻立ちがはっきりとしており、自分の妹に似ていると思った。
「菊は、やんごとなき血筋の人々が愛する花。国家の安泰や、国民生活の安定とか、ちょっと祈りのスケールが大きすぎる」
ませた少女には、美しい花を愛でる感受性が欠如しているのだろうか。こんなにきれいな菊を目の前にしてなんて理屈っぽいことを言うのだろうと、久子はあきれた。
菊をお気に召さなかった少女に引きずられ、久子は菊花の棚を名残惜しく通り過ぎる。
群生するあざやかなピンクの立葵と、青と紫の紫陽花を横目で見ながら進むと、澄んだ水辺に凜とした花菖蒲が咲いていた。
「ちょっと待って、速いわ」
八つ橋に直進しようとする少女を、久子は引き留めた。つないだ手を振りほどこうと手首を返してみたが、少女も同様に手首を回し、絶対に離れない。仕方なく久子は、空いている左手で着物のすそを直し、ささやかな抵抗の意を表した。
八つ橋の上で立ち止まってしまった久子を尻目に、少女はまた花の話をした。
「花菖蒲は、剛の者が勝負に勝つように、戦の願掛けをする花。太く生きて美しく死ぬ美意識があるのも分かるけど、女性らしいしなやかな強さの方が、似合うと思うよ」
「お嬢さん、お花に詳しいのね」
「お母さんが教えてくれたの。でも、全部説明する時間はないわ」
少女は先を急いでいるようだった。久子は少女と共に、満開の花菖蒲の八つ橋をやや早足で渡りきる。
涼やかな水音が聞こえなくなると、ふわっと甘い香りが鼻をつく。
藤棚だ。紫色の小さな無数の花がしだれ咲いている。
長く垂れ下がった一房に、久子は無意識に手を伸ばすと、すかさず少女が力を入れて腕にすがりついてきた。
「幻想の世界に取り込まれないで。浮世離れしすぎてしまうと、現実を見誤って大切な物を失ってしまうわ」
少女は久子の顔をのぞき込む。久子は、少女の丸く澄んだ瞳に強い意志が宿っているのを感じた。
「どんなにつらいことがあっても、現実から目をそらしてはだめ。大丈夫、女はみんな、家族や自分自身を守る芯の強さを持ってるから」
「小さいのに、よく知ってるのね」
ませた少女の物言いに、久子は思わず笑ってしまった。
少女のペースに慣れてきた久子は、手のひらから伝わるぬくもりを感じながら、歩みを進める。
紅白の桃の大木の次に現れたのは、鉢に植えられた大輪の牡丹だった。
薄い花びらを幾重にも重ねた牡丹の豊麗さに、またも久子は目を奪われる。
「こんなに立派な牡丹の花も、きっとお嬢さんのお眼鏡にはかなわないのでしょうね」
先手を打って、久子は少女に鎌をかけてみた。
「私も牡丹の花は、はなやかで大好きよ。でも豪奢な花姿のせいで、覇者が権力を誇示するような傲慢さが感じられるのが玉に瑕なのよね」
久子は、予想を裏切らない生意気な少女のうんちくが、だんだん面白くなってきた。
二人は手をつないだまま、季節をさかのぼる。
やがて、満開の桜並木が二人を出迎えた。
「私も、桜が武士に好まれていたことは知っているわ」
久子は舞い散る桜吹雪を見ながら、やさしく少女に話しかける。
「潔く散っていく様が、滅びの美として好まれたのでしょう」
久子がそう言うと、少女は満足げにニヤリと笑った。
「桜は、日本の象徴として菊と並んで愛される国民的な花よ。実際、古今東西、貴賤上下の隔たり無く、みんな桜が大好き。人間だけじゃなくて、神様も桜が好き。桜の語源は、神の依り代とも言われてるのよ」
久子は、少女の知識量に感心しながら傾聴する。
散歩する仲良の姉妹のように手をつなぎながら、白や黄色の木蓮の花を見ながら歩みを進めると、一陣の冷たい風が吹きすさぶ。身震いをすると、紅白の梅が咲き乱れる梅林にたどり着いた。
風に乗って漂う梅の甘い香りに、久子は胸が締め付けられるような切なさを感じた。
「おじいちゃーん! 久子ばあちゃん、連れてきたよー!」
動揺する久子を置き去りにして、少女は先ほどまで絶対に離さなかった手をパッと振りほどいて走り出す。
久子はドキリとした。
いま、自分はなんと呼ばれた?
この不思議な少女は、自分の孫なのだろうか。
「おじいちゃーん!」
匂い立つ梅林で軽やかに走り出した少女を、久子も条件反射的に追いかける。
少女が向かう先に、こちらに手を振る一人の男性の影。
あの少女はきっと、私を彼のもとに連れてくる案内役だったのだろう。
梅林の中にいる男性が、自分の未来の伴侶なのだろうか。
そう思うと、久子の胸はせつなく高鳴る。無意識のうちに目元が熱くなる。
「なっちゃん、本当に連れてきてくれたんだね」
優しさと慈愛に満ちた男の声が耳に心地良い。
久子の頬には一筋の涙がこぼれ落ちた。
遠目で茶色い制服のように見えた男の服装は、ずいぶんしつらえの悪い軍服であった。袖の長さや胴回りが彼の体格に合っておらず、布地も痛んでおり、だらしなく見える。
先に走って行った少女は、男に飛びついて、力強い胸に抱き止められている。
少女をねぎらった男の視線が久子に移る。
「こりゃあ、ずいぶんと若い久子さんを連れてきたものだ」
男の笑顔は、ほころんだつぼみのようだった。
「きっと、まだ僕のお嫁に来る前の久子さんですね。こんな所に呼び出してしまって、申し訳ない」
男は抱きかかえた少女を下ろし、久子に近づいてくる。久子は慌てて目尻の涙を拭う。
「これを。あなたは気に入ってくれるはずです。僕が贈ったこの櫛を、不運にもあなたはなくしてしまってね。だからもう一度渡したいと思って」
男の手の中には、螺鈿で梅が施された洋髪用の飾り櫛があった。
「すみません、私はまだあなたにお会いしていないし、受け取ってもいませんわ」
久子は少々申し訳ない気持ちで、正直に伝えた。男と少女は顔を見合わせて、イタズラが成功した子どものようにフフフと笑い合う。
「どうも、ここでは時間の流れが混在してしまうようです」
男は久子の手を取り、櫛を握らせた。
「若くて初心なあなたも、僕の腕の中で恥じらう大人のあなたも、愛おしくてたまらないんだ」
慣れない愛の言葉に、うぶな久子はうつむいてしまう。
「どうか、これを受け取ってください。そして忘れないで、僕はいつでもあなたを見守っています」
久子は小さくうなずく。記憶にとどめるべく、やさしい笑みを浮かべる男の顔をじっと見つめた。
どれほど経っただろうか。
紅と白が競い合うように咲き乱れる幻想的な梅林で、久子は櫛を握りしめて泣いていた。
男の影は、もういない。少女は久子の片方手を握り、ずっとそばにいてくれた。久子は鼻をすすりながら少女に問う。
「ねえ、あなたは私のお孫さんなの?」
「そうだよ、奈津美っていうの」
泣きじゃくる久子を慰めるように、少女は腰元に抱きついてきた。
「ねえ、梅の花には、どんな祈りが込められているの」
「梅は、冬の寒さを耐え抜いて一番に開花する百花のさきがけ。忍耐の象徴でもあり、新しい時代を切り開く力を備えた、久子ばあちゃんにそっくりな花」
「新しい時代を切り開く力・・・」
「そう。女性の生きづらさを打破する祈りのかたち。ばあちゃんも、私も、つらいことがたくさんあっても、強く気高く生きていかなきゃいけないの」
久子は、少女が必死に自分をここまで連れてきた理由が分かった気がした。
久子が諦めたら、きっと奈津美は生まれてくることができないのだ。
「分かった。おばあちゃん、なっちゃんのためにがんばるよ」
久子は優しく少女を抱きしめた。少女の体は温かかった。
「うん、未来で会おうね」
久子は、梅林で少女と別れを告げた。一人で冬枯れの季節をさかのぼってゆくのは心細かったが、懐深くに入れた櫛が勇気を与えてくれるようだった。
灰色の空の元を歩き続けると、久子は急に現実に戻ったことが分かった。
バツ印に目張りされたガラス窓。黒い布がかけられた薄暗い電球。
遠くに聞こえるけたたましい空襲警報の音。ぼんやりしていた意識がピリリと緊張感を取り戻す。
米軍だ、逃げねば。
懐には、彼と結婚する前にもらった、思い出の櫛が入っている。
今夜の空襲で大切な物をなくさぬよう、大切な人たちが時空を超えて、わざわざ届けてくれたのだ。
彼と出会い、愛を紡いだ記憶が、一気に脳内を駆け巡る。同時に、もう会えないであろうという寂しさが胸を貫く。
また涙が流れてきそうになるのを、久子はぐっとこらえた。大丈夫、わたしは強い。
梅の花の下で受け取った不屈の精神と共に、二度と失うものかと胸元で握りしめた。
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